ルカ8:40-42, 49-56 『 ルカ34 死という絶望からの回復 』 2015/10/11 松田健太郎牧師

ルカの福音書8:40~42、49~56
8:40 さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。
8:41 するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。
8:42 彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫ってきた。

8:49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が出てきて言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」
8:51 イエスは家に入られたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょに入ることをお許しにならなかった。
8:52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」
8:53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。
8:54 しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」
8:55 すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。すこでイエスは、無隅に食事をさせるように言いつけられた。
8:56 両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。

今日のメッセージは、先週からの続きですね。
先週は途中で長血の女が出て来て、話が途切れてしまったのですが、今日はその後ヤイロたちに何が起こったかという事を見ていきたいと思います。

ヤイロには、12歳の娘がいたんです。
僕の娘はいま11歳ですから、同じくらいの世代の人だったかもしれません。
でも当時の女性は、12歳くらいになると結婚相手が決まり始めるような、そんな時代だったんですね。
嫁入り前の大切な娘、その娘が病気にかかり、死にかけているのです。

そこに、ナザレのイエスという人のうわさが聞こえてきました。
このイエスという人の周りで奇跡が起こっている。
イエスの元に行けば、どんな病でもたちどころに癒されてしまう。
そんな噂の主が、いまこの町に来ていると言うのです。

さて、ヤイロという人は会堂管理人だと聖書には書かれています。
先週もお話ししましたが、会堂とはシナゴーグの事で、ユダヤ教の集会所となっているところでした。
この時にはすでに、パリサイ派もサドカイ派も、イエス様を危険視し、あわよくば殺してやろうと思い始めていた頃ですから、ヤイロは微妙な立場にあった事がわかります。
本来なら、ヤイロはイエスを会堂から締め出さなければならない。
汚くののしり、石でも投げて追いやるくらいの事をするのが、彼のあるべき立場合ったと思います。
しかしヤイロは、そんな立場も投げ捨て、ユダヤ人たちから地位を剥奪される事も覚悟して、イエス様の前に膝まづきました。
そして、どうか娘を癒して下さるようにと願ったのです。

イエス様は快くそれを引き受け、彼らは共にヤイロの家に向かい始めました。

① イエス様とともに歩むこと
こうして、ヤイロはイエス様とともに歩み始めました。
私たちが、イエス様を信じて共に歩み始める時、それはどんなに心強く、安心できる事でしょうか?
ヤイロは、「きっと、これでもう大丈夫だ。」と思ったかもしれません。
しかしその途中、思わぬことが起こりました。
それが先週お話しした、長血の女との出会いなのです。

この出来事の間、ヤイロがどのような思いでイエス様と長血の女との会話を聞いていたかは描かれていません。
でも、一刻も早く娘の元にと願っていたヤイロにとって、これは苛立ち、腹立たしいような出来事だったのではないでしょうか?
「どうしてこんなところで止まってしまうんですか? こんな、汚れた女なんかと話している場合じゃない。早く帰らないと間に合わなくなってしまう。」
そんな焦りが、ヤイロの心の内にはあったのではないでしょうか。
ヤイロの、娘への愛情が強ければ強いほど、焦る思いは大きかったことでしょう。
そして、この事への苛立ちも大きかったことだろうと思います。

私たちも、時としてこういう経験をするのではないでしょうか?
イエス様とともに歩み始めたのに、物事は思い通りに進んでいかない。
こうあってほしいと思う結果とは裏腹に、問題は膠着状態になり、全く解決に向かわない。
主とともに歩んでいるはずなのに、どうして問題が解決に向かわないのだろうか?
それどころか、どう考えても問題は悪化していき、何の解決ももたらさないままでがっかりするような状況になってしまう事もあります。

ヤイロはまさに、そのような事を経験しました。
何と、イエス様が長血の女と話している間に、愛する娘は死んでしまったのです。
「そら見た事か」と、ヤイロは思ったのではないでしょうか。
彼は長血の女に対して怒りを吹き出し、イエス様に対する失望も覚えたかもしれません。
ここでこの女と出会わなければ、また話すことがなければ、イエス様は娘が死ぬ前に到着したはずだそうすれば、娘は助かったかもしれないのに・・・!
この時ヤイロがどのような思いを持っていたかはわかりませんが、このように考えていたとしても不思議はありません。
そして、私たちもまた同じような体験を色んなときにするのです。
その中には、自分の思いとは違う結果となって、神様への怒りを抱き、信仰から離れてしまう人たちも少なくはありません。

確かに、こんな形で娘を失う事になったら、本当に無念でしょう。
ヤイロの気持ちもわかります。
絶望が、ヤイロを支配しました。
でも、その絶望を打ち砕くことができるのが、イエス様なのです。

② ただ信じなさい
私たちもまた、このような絶望を経験することがあります。
人間に絶望し、人生に絶望し、自分の可能性に絶望します。
神様は、そのような経験を私たちにさせる事があります。
ヨブは、善人で神様を愛する人だったのに、財産を失い、子供たちを失い、健康を失って酷い目に遭いました。
ダビデもまた、王になるように選ばれて油を注がれていたのに、サウル王に追われて苦しみました。
神様は、絶望的な状況になる前に助ける事だってできるはずなのに、私たちが絶望するまで、その手を差し伸べないという事があります。
それは、なぜなのでしょう。

それは神様の領域であって、私たちが簡単に知る事ができるものではありません。
しかし、聖書に描かれている人々の人生から言える事があります。
それは、神様が私たちに与える絶望は、決して絶望のままでは終わらないという事です。
ヨブも、ダビデも、絶望の後には素晴らしい祝福を経験しました。
失ったものを取り返すことはできませんでしたが、その後に経験した祝福は、それまでの苦しみや悲しみを覆い包んでしまうほどの祝福だったのです。
私たちには、絶望を知らなければ得る事ができない領域があります。
絶望を知っているからこそ、受け取ることのできる祝福。
絶望を知っているからこそ、受け取ることのできる感謝。
そして、絶望を知っているからこそ、本当の意味で神様を知り、体験する事ができるのです。

では、絶望した人はみんな祝福を手にするのでしょうか?
絶望をすれば、みんな神様に出会う事ができるのでしょうか?
そうではありませんね。
絶望に飲み込まれて、人格が破壊されていく人たちがいます。
絶望によって、神様から離れ、信仰を失ってしまった人たちもいます。
同じ絶望を味わっても、それによって成長し、祝福を受け取る人と、それによってつぶれてしまう人たちがいます。
では、どうすれば絶望の先にある祝福を手にする事ができるのでしょうか?

娘を失って、絶望に飲み込まれていくヤイロに、イエス様はこのように言いました。

8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」

「ただ、信じる事。」それが答えです。
良い事があったから信じるのではない。
素晴らしい事があったから信じるのではない。
絶望の中でこそ、神様を信じ、イエス様とともに歩み続ける必要があります。
私たちが、何があろうとイエス様から離れる事無く、ただ信じるなら、その先に祝福を手にする事ができるのです。

パウロは言いました。

ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益として下さることを、私たちは知っています。

何度も言ってきたことですが、これは何でも最終的には良い事に繋がるという話ではありません。
しかし、私たちが神様を愛し、神様のご計画に従って召されているなら、すべての事は必ず益になると約束されているのです。

③ 死からいのちへ
イエス様は、約束通り信じたヤイロのために、娘を生き返らせました。
死という絶望を打ち砕き、イエス様はそこに希望をもたらしたのです。
イエス様以外に、このような事ができる人はいません。

私たちにも死という絶望が待っています。
私たちはこの少女のように、死んでからまた息を吹き返すわけではないでしょうが、別の形で死という絶望を打ち砕くイエス様の御業を体験します。

ひとつには、霊的に死んでいた私たちに、新しい命が吹き込まれる事。
これによって私たちは、神様との親しい関係を持つことができるようになります。

第二に、死んだような人生が、蘇る事です。
犯罪を冒したり、人生に絶望した多くの人たちが、イエス様と出会い人生がよみがえるのを経験しました。
私たちも、イエス様とともに生き始める時にそれを経験する事ができるのです。

第三に、永遠のいのちによって復活することです。
私たちは、この少女のようにもう一度死ぬからだとして蘇るのではなく、永遠の存在として栄光の体をもって蘇ると聖書には約束されています。
イエス様を主と信じる私たちにとって、死は絶望ではありません。
死はひと時の眠りでしかなく、私たちは永遠の時を神様とともに過ごす事となるのです。

私たちは今の状況だけを見て、希望を感じたり、絶望に打ちひしがれてしまいます。
しかし、希望は状況の中にあるのではありません。
イエス様と共にあるのです。
イエス様は、どんな絶望も打ち砕く光だからです。
どんな時でも、決して離れる事無く、イエス様をただ信じて、共に歩み続けましょう。

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