ルカ7:1-10 『 ルカ23 神の子を驚かせた信仰 』 2015/06/21 松田健太郎牧師

ルカの福音書7:1~10
7:1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。
7:2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
7:3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
7:6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
7:10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

先週、イエス様が弟子たちに話された、草原での説教のシリーズが終わりました。
イエス様は、その教えの総まとめとして、このように言ったのでした。

ルカ 6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

わたし達がどれほど聖書の教えをよく理解し、覚えていたとしても、それだけでは私たちの人生は何も変わりません。
イエス様が弟子である私たちに求めていたのは、単に「イエス様を信じます。」と言う事ではなく、その教えをよく知り、理解し、覚えるという事ではなく、その信仰に従って、イエス様が言ったように生きるという事だったんですね。
それは決して簡単な事ではありません。
神様に助けなしには、自分の力でできる事ではないでしょう。
でも、私たちがそのような生き方をし始めた時、私たちはどんな困難の時にも決して倒れる事がない、素晴らしい人生を手にする事ができるのです。

でもそこで、僕のようなひねくれた人間は思うのです。
「そんな奴、いるのかよ?!」・・・と。

今日から始まる7章では、イエス様が話したことの具体的な例として、信仰に生きた人々の事が描かれています。
今日登場する百人隊長は、イエス様をしてこのように言わせしめています。

7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」

神の子を驚かせる信仰と言うのは、そうそうあるものではありません。
イエス様をさえ驚かせる信仰とは、いったいどのような信仰でしょうか?
そして、彼の何にイエス様が驚いたのか、今日はそれを一緒に見ていきましょう。

① 百人隊長の謙遜
イエス様を驚かせたであろう第一の事は、この百人隊長が持っていた謙遜な心でした。

百人隊長は、イスラエルを支配していたローマ帝国の兵士ですから、普通はもっと偉そうにしているものなんです。
まして、百人隊長と言うのは文字通り百人の兵士をまとめる隊長ですから、地位も身分もそれなりに高かったはずです。
普通なら、支配されているユダヤ人対しては、命じればいい。
「おいお前、人を癒せるそうだな。俺のしもべを癒してみろ。」
これが普通です。

しかし彼は、そのようにはしなかったのです。
この百人隊長は、イエス様のもとに異邦人である自分が行くのは失礼だと感じて、ユダヤ人の長老たちをイエス様の元に遣わしました。
さらに彼は、しもべを癒すためにやってきたイエス様に友人を遣わして、自分にはイエス様を家に入れるような資格もないと伝えたのです。

そんな謙遜な心に、イエス様は驚きました。
何よりもこのような謙遜な心を持っていたのが、神様を知っているはずのユダヤ人ではなく、異邦人だという事がさらに驚きだった事でしょう。

実際、この百人隊長に遣わされたユダヤ人の長老たちは、このように言っていたのです。

7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。

長老たちのこの言葉は、百人隊長が彼らかだどれだけ慕われていたかを表す素晴らしい言葉でもあります。
それと同時にこの言葉が表しているのは、「異邦人だけど資格がある。」ということですよね。
彼らはユダヤ人の長老でしたから、当然自分にもその資格があると思っていたでしょう。
でも考えてみていただきたいんです。
そんな資格が、一体誰にあるというのでしょうか?
ユダヤ人であろうがなかろうが、どんなに素晴らしい人であろうが、神様に何かをさせる資格は誰にもないはずです。
長老たちは、そこに傲慢さがありました。
でもこの百人隊長は、自分にはそんな資格がない事を理解していた、謙遜な心の持ち主だったのです。

② 百人隊長の信仰
イエス様を驚かせた第二の事は、異邦人であるはずの百人隊長が見せた信仰でした。

彼の信仰は、この言葉の中に表わされています。

7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」

これは、兵士である彼らしい信仰の在り方ですね。
軍隊には秩序があり、上から命じられたことは絶対です。
そしてこの事を通してわかるのは、彼は異邦人ではあっても聖書の神様のことをよく知り、理解していたということです。
ユダヤ人の長老たちは、彼がユダヤ人を愛し、会堂を建てたと言っていました。
つまりこの人は、ローマ人ではあるけれど、神様へのはっきりとした信仰を持っていた人だったのです。
さらに驚くべきなのは、彼はイエス様こそが救い主であり、神様ご自身であるということを理解していたということです。
聖書を述べ伝えられてきたユダヤ人ではなく、信仰歴としてはそれほど長くない異邦人の彼がこのような確信を持っていたことに、イエス様は驚かれたのではないかと思います。

兵士が、隊長の言葉に対して絶対的に従うように、全てのものは神であるイエス様の言葉に従うという事を、彼は信じていました。
それは、言葉づらだけの表面的な信仰告白ではありません。
イエス様が家に来てくださらなくても、その言葉だけでしもべは治る。
百人隊長の行動は、正に自らの信仰告白と一致するものでした。

これは、岩の上に家を築く信仰。
イエス様というブドウの木に繋がれる信仰ですね。
高原の説教で話していたあるべき信仰のかたちを実現していたのは、ユダヤ人であったイエス様の弟子たちではなく、異邦人であるローマの百人隊長だったのです。

③ 百人隊長の人格
さらにもうひとつ驚くべき事は、百人隊長の人格でした。
この百人隊長が、わざわざ遣いを出してイエス様を呼び癒してもらったのは何のためだったのかと言えば、彼のしもべを癒すためだったという事です。

ローマ帝国でしもべと言えば、それは奴隷のことです。
この時代、奴隷は、人間として扱われることなく、家畜や、所有物として扱われていました。
常識的に考えれば、しもべが病気になって死んだとしても、他の奴隷を買えば良いだけの話です。
しかし、この百人隊長の価値観はそうではありません。
彼は、しもべを心から信頼し、愛していたのです。

また、彼の深い愛は、ユダヤ人たちにも伝わり、広がっていました。
だからこそユダヤ人の長老たちは、彼を心から慕っていたのです。

彼のこのような人格がどこから形成されてきたのか、聖書には詳細が書かれていません。
でも、このような状況での彼の行動屋、ユダヤ人との関係の持ち方、イエス様への態度などから考えると、ひとつのことが見えてきます。
それは、彼の中にはイエス様への確かな信仰があったという事です。

彼がいつからイエス様への信仰を持っていたのかはわかりませんが、話の流れから考えると、彼のこのような人格もまた、彼の中にあった信仰から育まれてきたものだということがわかるんです。

先週の話しをもう一度思い出しましょう。
悪い木である私たちは、そのままでは良い実をならせることはありませんでしたね。
しかしイエス様という良いぶどうの木に繋がった時、私たちを通してイエス様の実がなっていくのです。
この異邦人の百人隊長が、どれだけの間信仰を持っていたのかはわかりませんが、彼の内には、謙遜と愛という人格の良い実が確かに実っていのでした。

このような御霊の実は、確かに一両日中にできるものではありません。
しかし、何世代にも渡って神様を信じ伝えてきたユダヤ人ではなく、異邦人である百人隊長の中にこのような実りを見出すのは、私たちには大きな励みとなります。
大切なのは信仰の期間の長さではなく、信仰の質と、その深さなのだということがらかるからです。
みなさんの内には、どのような信仰の実がなっていくのでしょうか?
祈りましょう。

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