ルカ6:1-11 『 ルカ17 安息日の主 』 2015/05/03 松田健太郎牧師

ルカの福音書6:1~11
6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
6:2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
6:3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
6:4 ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
6:6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。
6:7 そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
6:8 イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
6:9 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
6:10 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
6:11 すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。

 

信仰生活を守る事は、私たちクリスチャンにとって大切な事です。
なぜなら、信仰生活とは、私達が神様との関係をどのように考えるかという事でもあるからです。
私たちが信仰生活をいいかげんしてもいいと言うなら、それは私たちが神様との関係をいいかげんにしてもいいと思っているという事です。

でも熱心で、信仰生活を大切にする人が陥りがちな問題もあります。
パリサイ派の人々や、律法学者たちが陥ったのが、まさにその問題でした。

先週は、新しい革袋についてお話ししました。
福音を本当に理解するためには、これまでのような宗教的価値観という古い革袋を捨てて、新しい価値観で考える必要があるという話です。
私たちはユダヤ人ではありませんが、私たちの中にはユダヤ人たちと同じような表面的、律法的、宗教的に考える古い価値観があったりします。
福音を知ってクリスチャンとなった私たちも、ちょっと油断をするとその価値観にはまってしまい、パリサイ派や律法学者と同じような考え方になってしまうのです。

今日の聖書箇所のテーマは、安息日です。
この安息日の問題を巡って、パリサイ派や律法学者たちはイエス様への怒りを露わにし、ついにイエス様を殺そうという思いを持ち始めるのです。

1. 安息日とは?
安息日とは何でしょうか?
安息日というのは、十戒の中にもある律法のひとつですね。
このように書かれています。

出エジプト20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も―
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

ユダヤの暦は日曜日から始まりますから、7日目である土曜日が安息日です。
土曜日には毎週仕事をせずに、神様に捧げる日としなければならないのです。
この日は「仕事を休んでいいよ」という事ではなく、6日間は働き、一日は休んで神様に捧げなければならないというのが、安息日の律法のポイントです。
他のところでは、この律法を守らない者は部族から追放されなければならないと書かれていて、とても厳しい律法だった事もわかります。

なぜこの律法が大切だったのでしょうか?
それは、私たちは放っておくと、怠けて何もしなくなってしまったり、貪欲さに火がつくと際限なく仕事をして財力を溜めようとしてしまうからです。
もともと7日に1度は休むように創られているのに、成功や経済的な安定、競争に勝つために仕事はどんどんエスカレートしていき、本来果たすべき働きもできず、体を壊してしまうのは、私たち日本人が持っている傾向のひとつですね。

しかし、安息日の本来の目的は、時代の移り変わりとともにどんどん変えられてしまいました。
「働いてはならない。」と言われても、何もしないわけにはいきませんから、「働く」とはどういう事かという定義をしなければならないという事になったのです。
そこで律法学者は、何は働く事であり、何は労働にならないかという事を細かく決めました。
火をつける事は労働になるとか、安息日には1.2キロ以上は歩いてはならない、しかし休息を挟めば大丈夫という規則が付け加えられていったのです。
やがて彼らは、表面的なルールを守る事に熱心になるあまり、その律法の本来の目的を見失ってしいってしまいました。

2.  安息日の主
さてある安息日の日、イエス様の弟子たちが麦の穂を摘んで食べていました。
収穫する事は仕事ですから、麦を摘んで食べる行為は仕事です。
彼らは、安息日に仕事をしているという事で、非難されてしまいました。

でも、この出来事には少し疑問を持ちませんか?
イエス様の弟子たちは、誰のものかわからない畑に勝手に入って麦を採っていました。
でもその事は咎められることなく、安息日を守らない事が問題とされたのです。

それは、律法にこのように書かれているからです。

申命記23:24 隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。
23:25 隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。

畑に勝手に入って、収穫物を家に持ち帰ったら、それは窃盗になります。
でも、その畑の中で食べる分には、どれだけ食べても良い事になっていたのです。
これは、旅人や、貧しい人々を守るための律法です。
神様は私達を愛していますから、単に人の生活を制限して、苦しめるのではありません。
あるいは、多くの人たちが誤解しているように、律法を破ったら神様が怒って罰を与えるのでもありません。
私たちを守り、幸せにするために律法を与えたのです。

パリサイ派の人々や律法学者たちが、この律法を知らなかったはずはありません。
でも彼らは、律法を守るという事、自分を聖くする事に一生懸命になって、律法の本来の目的を見失っていたのです。
そこでイエス様は、彼らにこのような話をしました。

5:3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
5:4 ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」

これは、サムエル記の中にある話ですね。
ある時ダビデは、命を狙うサウル王から逃れて、空腹のまま主の宮に入ってきました。
それを見た祭司は、ダビデを気の毒に思い、供え物のパンを食べさせます。
供え物のパンは、律法によれば祭司だけが食べる事を許されたものでした。
祭司が、愛ゆえに律法を破ってダビデを助けたのです。

祭司もダビデも律法を破りましたが、神様はその事を咎めませんでした。
それは悪い事ではなく、神様の御心に適ったことだったからです。
聖書に詳しいパリサイ派の人々や律法学者たちが、これを知らないはずがありません。
これこそが神様の愛に即した律法との向き合い方であり、神様が喜ばれる事なのです。

律法のために人があるのではなく、人のために律法はあります。
ましてやイエス様は律法に縛られる人ではなく、律法を定められた方。
全てのものの主、安息日の主なのです。

3.
別の安息日の日、パリサイ派の人々はイエス様を訴えるためにイエス様を見はっていました。
安息日に何かをしたら、すぐさま訴えてやろうと思っていたのです。
それを知ったイエス様は、このように言っています。

5:9 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」

神様の御心がどちらにあるのかは明らかです。
でも、パリサイ派の人々や律法学者は、律法を守る事に熱心になるあまり、神様の御心を見失ってしまいました。
でも、聖書にはこのように言われていますね。

ホセア6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

私たちも、熱心になる時、同じ失敗をしてしまう事があります。
そんな時私たちは、自分が何に対して熱心になっているのかという事を考えてみる必要があるかもしれません。
私たちは神様を愛していると言いながら、宗教的な規則に熱心になってはいないでしょうか?
あるいは、その逆もあり得る事です。
「神様を愛しているという感覚」に熱心になって、神様ご自身を見失ってしまってはいないでしょうか?
私たちが心から求めるのは、神様なのであって、宗教的な儀式や戒律ではありません。
私たちが熱心になるべきなのは、心から神様を愛する事と、隣人を愛する事であって、宗教や伝統に対してではありません。
それを間違えると、私達は本質を見失って、神様の御心から外れる事になってしまうのです。

安息日について、もうひとつ分かち合いをして今日のメッセージを閉じたいと思います。

へブル4:10 10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

自分のこだわりや、自分の満足を求めるなら、そこにあるのは私たちの力、私たちの業であり、私たちの計画でしかありません。
私たちが本当に神様とともに歩むことを望むなら、私達はもう自分たちの業を休む必要があります。
こだわりや自己満足を手放し、神様の御心だけを求めていく時、そこには神様の力、神様の業があり、私たちは神様が与える安息の中に生きる事になるのです。

儀式ではなく、形式ではなく、あるいは感情でもなく、永遠の安息を手にしませんか?
それは、何もしないという事ではありません。
自分の業を休んで、いつでも神様の導きに従って働く事です。
その時私たちは、神の国を体験する事になるのです。

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