ルカ4:1-13 『 ルカ8 荒野での試み(前) 』 2015/02/01 松田健太郎牧師

ルカの福音書4:1~13
4:1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、
4:2 四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
4:5 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
4:6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
4:7 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
4:8 イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」
4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
4:10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、
4:11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」
4:12 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」
4:13 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。

先週のメッセージでは、イエス様が洗礼を受けられたという話をしました。
洗礼は、私たちにとっては神様に背いていた自分の罪を悔い改めて、神様と向き合い、新しい命に生きる事を表すためのものでした。
しかし、神の子であり、救い主であるイエス様にとっては、私たちと同じ罪人の立場に立って、神様からの裁きを引き受けるために必要な時だったんだとお話ししましたね。

さあ、これからいよいよメシヤとしての働きが始まるのかと思いますが、その前にもう一つ通らなければならないものがありました。
それは、荒野に行って、悪魔からの誘惑を受けるという出来事だったのです。
イエス様はなぜ、悪魔からの誘惑を受ける必要があったのでしょうか?
何度かに分けて、この荒野での誘惑の話から学んでいきたいと思います。

① 悪魔の試みを受けるため
さて、イエス様がキリストとしての働きを始めるに当たって、イエス様はその前に40日間を荒野で過ごしたのです。
すぐに教えは始めるのではなく、どうして荒野に行かれたのでしょうか?
しかも40日間も。
ルカの福音書には、聖霊に導かれたとだけ書かれています。
イエス様はここで断食をして過したりしていますからキリストとしての活動を始める前に心を整えたりしたかったのかなぁと思えます。
でもマタイの福音書にはこのように書かれているのです。

マタイ 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

40日間荒野で過したのは、悪魔の試みを受けるためだったと言うのです。
荒野に行ったのに別の理由があったにしても、その目的は悪魔の試みを受けることにあったんですね。

どうして悪魔の試みを受ける必要があったのか、詳しい事はまた別の時にお話ししたいと思いますが、この出来事はわたし達に一つのことを教えています。
それは、聖霊に満たされ、聖霊に導かれていても、悪魔の誘惑を受け、悪魔からの試練を受けることがあるのだと言うことです。

わたし達はどうも、聖霊に満たされているなら、何も問題が起こらないのではないかと思ってしまいがちではないでしょうか?
そして、何か問題が起こったり、大変なことが起こってくると、何か失敗があったり、問題があるのかなぁと思ってしまいます。
でも、悪魔からの試練に関しては、何か問題があるから起こるのではありません。
むしろ、わたし達が神様に向かい、正しい道を歩もうとする時に起こるものなのです。
なぜなら悪魔は、わたし達を可能な限り引き離そうとしているからです。
わたし達が神様を見上げ、神様に近づいてしまうと、悪魔は困るのです。

そう考えると、わたし達が日々を歩む中で、何も問題が起こらず、神様から引き離そうとするような試練が何も起こらない時の方が、むしろ危ない時なのかもしれません。
それはわたし達が、悪魔にとって放って置いても大丈夫な状態だという事だからです。
そしてわたし達は、どんな時でも悪魔からの試練に備えている必要があるのです。

② この石をパンに
さて、悪魔はどんな試みをイエス様に与えたのでしょうか?
荒野で、悪魔は3つの試みをイエス様に与えるのですが、今日は最初の試練に焦点を当てて見てみましょう。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
それは、イエス様が聖霊に従って40日荒野をさ迷って空腹になった頃に起こりました。

悪魔は、わたし達が今最も弱い部分がどこかを知っていて、そこを狙ってきます。
そうは言っても、私たちが空腹の時に、悪魔がこのような誘惑を私たちにしてくることはないでしょう。
石をパンにするかどうかという事は、私たちには誘惑にはなり得ません。
私たちには石をパンにする事なんて絶対にできませんから。
悪魔は、私たちにできないような事を誘惑するほど、バカではありません。
これは、イエス様には誘惑になり得るから、悪魔はこのように言ってきたのです。

では、イエス様が石をパンにする事の何が問題なのでしょうか?
それによって誰が傷つくわけでもなく、特に問題なんてないようにも思えます。
それどころか、イエス様が石をどんどんパンに変えていったら、飢餓問題だって解決できるし、多くの人たちがついてくるのではないかとさえ考える事ができるでしょう。
イエス様この誘惑に乗ってしまったら、一体何が問題だったと言うのでしょうか?
イエス様に突き付けられていた一つの誘惑は、不自由な生活をしなければならない人間として生きる事を諦め、神様として生きるという事です。
でもそうすると、イエス様が何のために地上に来て、人間として生まれたのかがわからなくなってしまいますね。
それが、悪魔の狙いだったわけです。

そしてこの誘惑のもう一つの狙いは、神様の御心よりも、目先の食べ物や生活を優先させるという事にありました。
実は、多くのクリスチャンが、こういう信仰の状態にあるのではないでしょうか。
「私たちにとって必要なのは、何よりも食べる事であり、生活だ」と思っているのです。
そして、「必要なものが全て満たされてから、神様について考えればいい。」と考えるのです。

 

でも私たちがこのような信仰の状態である限り、私たちの信仰には力がありません。
お金や食べ物の方が大切だと言っているのですから、その程度の信仰だという事です。
宗教によって生活が制限されることを恐れているのですが、実は「あれも必要、これも必要」と、返って色々なものに縛られるようになってしまいます。
それはもう福音ではなく、単なる宗教しかないのです。

③ パンだけで生きるのではない
そんな悪魔の誘惑に対して、イエス様はこのように答えています。

4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

これは、旧約聖書の申命記に書かれている御言葉です。
悪魔の誘惑に対抗するには、自分の力や、理屈によって戦う事は逆効果です。
悪魔と戦うために最も有効なのは、御言葉の剣をもって戦う事なのです。
では、イエス様が悪魔の誘惑に対抗するために答えたこの言葉には、どういう意味があるのでしょうか?
実はこの言葉、クリスチャンじゃなくても聞いたことがあるくらい有名な言葉なのですが、誤解されている事が多い言葉のひとつでもあるのです。
この言葉が引用される時、多くの場合は「人間は食べ物だけで生きているのではない。趣味や宗教など、精神的な事も必要なのだ。」というような意味で使われています。
でも実は、この言葉には続きがあるのです。
では、申命記に書かれている元々の言葉を見てみましょう。
申命記8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

趣味とか宗教の話ではなく、「主の口から出る全てのもの」つまり、神様の言葉によって生きているという事ですね。
しかし、それでもまだ間違った理解になってしまう事が多いのです。
皆さんはこの言葉、どのような意味の言葉だと理解していますか?
多くの人は、「私たちはパンだけで生きているのではない。神様の言葉も大切だ。」というくらいの意味で理解しているようです。
でも、だったらイエス様はパンも作ったらいいじゃないかという話になってしまいます。
そういう意味の言葉ではないんですね。
『パンだけで』と書かれていますから、確かにそのように聞こえるかもしれません。
でもこれは、『神様の言葉“も”大切だ。』と言っているのではありません。
『神様の言葉“が”大切だ。』と教えられている言葉なのです。

はじめに言葉がありました。
そして、その神様の言葉によって天地が創られ、全てのものがあるのです。
ここで言われている“パン”とは、“マナ”の事であり、マナはイスラエルが荒野をさ迷っている時に神様から与えられた不思議な食べ物で、自分たちで作ったのではなく、神様が直接与えたものでした。
それもまた、神様の言葉によっていて、神様の言葉そのものを象徴しているものです。
全てのものは、神様の言葉によるのです。
私たちが生きるためもの、食べ物であるパンもまた、神様の言葉によって創られ、神様が私たちに与えて下さるものだというのが、この御言葉の意味なのです。

イエス様は言います。

マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

私たちは、なかなかこの言葉を信じる事ができません。
つい色々と考えて、何を食べるか、何を着るかと心配ばかりします。
でも、私たちが神様に仕えきらず、また物質にも仕えきる事がない、どっちつかずの状態に留まるなら、私たちはそのどちらも十分に受ける事ができなくなるでしょう。

私たちが神様の御心に従って歩んでいく時、必要なものはちゃんと与えられるというのが、神様の約束です。
そしてイエス様が歩んだ人生は、まさにそのような信仰の上に立った人生だったのです。
私たちも、その約束を、心から信じてみませんか?
その時私たちは、神の国を体験することになるはずです。

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