ルカ2:1-7 『闇の中に輝く光』 2007/12/16 松田健太郎牧師
ルカによる福音書2:1~7
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
皆さんの人生で、色々なところで夜を過ごしてきたと思いますが、一番ひどいのはどんなところでしたか?
僕はアメリカ留学時代、グレイハウンドバスを使った貧乏旅行をした事があります。
その時に入ったユースホステルは夏場だったためもあり、あまりにも臭くて、ここでは寝られないと思ってシャワーだけを浴びて出てしまったという経験があります。
同じ旅行中には、宿が見つからなくて、マーク・トウェイン(トム・ソーヤーの冒険の著者)が住んでいたという家の前のベンチで一晩を過ごしました。
目の前の通りで黒人が大喧嘩を始めて、すごく怖かったという経験があります。
また最近では、キャンプに行って大雨に見舞われ、寝ている間に床下浸水したという事もありました。
どれも大変な経験でしたが、今は楽しい思い出です。
2000年前、ヨセフさんとマリアさんの旅路も大変な経験でした。
彼らは住民登録のために、ナザレという田舎町から故郷であるベツレヘムにやって来たのです。
しかし、臨月のマリアを連れての長旅は本当に大変なものだったでしょう。
この時期はみんな住民登録のためにどの宿もいっぱいです。
妊娠しているマリアを気遣ってゆっくり旅をしてきた彼らは、ベツレヘムに着いても泊まる宿を見つけることができませんでした。
いつ子供が産まれてもおかしくないマリアが一緒だったという事も、もしかしたらマイナスに働いていたかもしれません。
今晩産まれるということになれば、きっと周りも大騒ぎです。
医者を呼んでと言う事にでもなれば、この忙しい時にさらに仕事が増えてしまう。
大きな宿であればあるほど、トラブルを避けるためにふたりを追い出してしまったとしても、不思議のない事だっただろうと思います。
そんな中で、彼らがやっと泊めてもらう事ができたのは、暖かい部屋ではなく、家畜小屋でした。
神の子、王の王、私たちの救い主イエス様が産声をあげたのは、そんなひどい場所だったのです。
① 主が来てくださったところ
当時のイスラエルの家畜小屋というのは色々な形のものがありました。
洞窟のようなところであったり、離れになったものだったり色々なものがありましたが、いくらなんでもあまりに酷いところに妊婦を送ったりしないでしょうから、ヨセフとマリアが一晩過ごす事を許されたのは、住居と一体型になっている家畜庫だっただろうと思われます。
人が住んでいるところと繋がっているわけですから、私達が一般的に想像する家畜小屋よりは多少ましだったかもしれません。
そうは言っても、家畜小屋は家畜小屋です。人が住むところではない。
そこはとても衛生的といえるような場所ではなく、寒い場所だった事でしょう。
でも考えてみてください。
この世界の創造者である神様にとって、私達が罪で汚してしまったこの世界に来るというのは、ひどい場所で産まれるなんていう言葉では生やさしいほどに、酷い状況だったのではないでしょうか。
それは天皇陛下がスラム街で住む事を決心するような、あるいは浜崎あゆみやキムタクのような有名芸能人が公園のベンチで生活するような事だったかもしれません。
神の子、キリストが家畜小屋で生まれたという事は、神様がこの世に来るという事がどれほどの事なのかを象徴しているようです。
そのキリスト・イエス様は、産まれて間もなく飼い葉おけに寝かされたというのです。
みなさん、イスラエルの飼い葉おけってどんなものだか見た事がありますか?
僕は写真でしか見た事がないのですが、向こうは日本のように木の文化ではなく、石の文化ですから、飼い葉おけも石でできているのです。
硬く、冷たく、汚い飼い葉おけの中に、産まれたばかりで弱々しいイエス様は寝かされたのです。
私達は、イエス様が私達の内にお招きするとか、来てくださると表現する事があります。
それは文字通り、神様が私達の心の内に住んでくださるということですね。
しかしイエス様が住まわれる私達の心はどうでしょうか、この飼い葉おけの様に硬く頑固で、冷たく冷え切っていて、色々な罪に汚れてしまっているのではないでしょうか?
神の子イエス様が、こんな私達のところに、頑なで、冷たくて、汚れている私たちのところへ来てくださったのだと言うことを、私達は喜んで感謝したいですね。
② 闇の中に輝く光
絵画で描かれたり、私達が一般的に想像するイエス・キリストの姿というのは、どこか超人的で、近寄りがたい聖人であり、私たちとは明らかに違う存在というイメージかもしれません。
みなさんのイエス・キリストとはどんな方でしょうか?
しかし、このクリスマスのストーリーの中で教えられるのは、私達の救い主である神の子イエス様というのは、私たちからかけ離れた存在なのではなく、もっと身近な存在なんだという事なんですね。
どこか上から目線で私たちを見るというのではなく、イエス様は私達の痛み、悩み、苦しみを私たちと同じ目線で経験し、知ってくださっています。
だからこそ、イエス様の言葉は私たちひとりひとりの心の直接響き、その存在の中に希望を見出す事ができるのです。
人類の歴史上、もっとも多くの人の人生に影響を与えたのは、疑う余地もなくこのイエス・キリストをおいて他にありません。
聖書には、イエス様の事を描写して、この様に書かれています。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:4~5)
どんなに絶望的に深い闇であっても、光に照らされればそこに闇が存在し続ける事はできません。
嘆きを踊りに、悲しみを喜びに変えてくださるのが神様です。
闇に光を、絶望に希望を与えてくださるイエス様が、私たちとともにいて下さる。
イエス様は、病に苦しんでいる人を癒し、死んだ人に命を与えました。
宗教的な差別を受けていた人を群れに戻し、希望を与えたのはイエス様でした。
娼婦や取税人など、社会的に阻害されていた人々と友になり、勇気を与えたのはイエス様でした。
イエス様を裏切り、自分に絶望してしまったペテロを立てあげたのは、イエス様です。
そのイエス・キリストが、私たちとともに今いて下さるのならば、私たちは何を心配する必要があるのでしょうか?
しかし私達は、現実的な問題を前にして尻込みをし、容易く追い詰められてしまうのではないでしょうか。
イエス様には現実的な問題を解決できないのではもちろんありません。
問題なのは、そんなイエス様を、私達が無視して、心の中から追い出してしまっているという事なのです。
イエス様が私たちを癒し、力づけ、希望を与えて下さろうとしているのを、私達が拒否してるのです。
あるいは、せっかく迎え入れたイエス様という光に、私達が覆いを被せてしまっているのです。
私達がまずしなければならないのは、イエス様を心の中にお迎えするという事です。
そして、心の内にいてくださるイエス様に、私達のすべてのことをさらけ出して、そこに光を当てていただくことなのではないでしょうか。
③ ある日曜学校でのはなし
ある教会の日曜学校で、クリスマスの降誕劇を行う事になりました。
マリア、ヨセフ、天使、博士たち、羊飼いたちと自分の役が決められていきました。
そして、その教会にいた知恵おくれのノボルくんにも大切な役が与えられました。
それは、宿屋の主人2の役です。
ノボルくんのせりふはたったひとつ、「ダメですダメです、どの部屋ももういっぱいです。」
それは、ベツレヘムの町中で宿を探すヨセフとマリアが、宿屋の主人に冷たく断られるシーンでした。
先生達がノボルくんに、「ダメですダメです、どの部屋ももういっぱいです。」と言うんだよと教えると、本番までの数週間、ノボルくんは何度もその言葉を繰り返して練習しました。
何しろ劇に出ることができるなんて、ノボルくんにとっては生まれて初めての経験です。
ノボルくんは来る日も来る日も、一生懸命に練習したのでした。
「ダメですダメです、どの部屋ももういっぱいです。」
お風呂からなかなか出てこないなと思っていると、中から「ダメですダメです、どの部屋ももういっぱいです。」
トイレから出てこないなと思って心配して声をかけると、「ダメですダメです、どの部屋ももういっぱいです。」
そしてとうとう本番の時となりました。
何しろ生まれて初めての経験でしたから、ノボルくんはガチガチに緊張していました。
それでも、何が起こっているのかわからない内に劇は進み、いよいよノボルくんの出番となったのです。
先生に押されるようにしてノボルくんは舞台に出ると、ヨセフ役の男の子が不安そうな顔をして、ノボルくんに言いました。
「すみません。私たちを一晩泊めてください。」
舞台の袖口から先生が合図をすると、ノボルくんは何度も練習したように、大きな声でセリフの言葉を言いました。
「ダメですダメです、どの部屋ももういっぱいです。」
<やれやれ、よかった。じょうずにできた。>
みんなが胸をなでおろしたその時です。
あまりにも悲しそうなヨセフとマリアを見たノボルくんは、思わずもうひとつセリフを付け足してしまったのです。
ノボルくんはさっきのセリフよりも、もっと大きな声で言いました。
「でも、僕の部屋なら空いてるよ!」
そのクリスマス、ノボルくんの家はイエス様が放つ光で輝かされた事でしょう。
黙示録の一節にこのような言葉があります。
黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
今日この時、イエス様ご自身が、私達の心の扉の前に立って、その扉をたたいています。
私たちは宿屋の主人達のように、客間には部屋がないと言って追い返してしまうのでしょうか?
それとも、ノボルくんのように自分の部屋にお迎えできるでしょうか。
お祈りしましょう・・・。
お祈りの姿勢のままお聞きください。
今日お越しくださっている皆さんの中で、信仰告白をしたり、洗礼も受けたけれど、何だかイエス様は心のうちにいてくださるという実感がなかったという方がいらっしゃるかもしれません。
皆さんのためにお祈りしたいと思いますので、今日もう一度イエス様を心の内にお迎えしたいと言う方はいらっしゃいますでしょうか、手を挙げて知らせていただけますか?
また、今まで信仰告白とか、洗礼もしたことがない。
それどころかキリスト教がどういうものだかもよくわからないし、自分がクリスチャンになるという実感も何もないけれど、今、イエス様に心の内に入っていただきたい。
イエス様と食事を共にしたいと言う方はいらっしゃいますでしょうか、心の闇をイエス様の光で照らして欲しいと言う方はいらっしゃるでしょうか。
そういう方がいらっしゃるなら皆さんのためにも特別にお祈りしたいので、手を挙げてお知らせいただけますか?
ありがとうございます。
それではお祈りします。
み恵み深い天の父なる神様、今日このようにして、この教会でともにクリスマスをお祝いできる事を心から感謝いたします。
あなたが私達のためにこの地上に来てくださった事、私達の罪を贖うために十字架にかかってくださった事を、本当にありがとうございます。
私たちは、家畜小屋のように、飼い葉おけのように冷たく、頑なで、汚れています。
しかし、そんな私たちにあなたが触れてくださり、私達の内に入ってくださるとき、私たちの心の闇が振り払われ、あなたが与えてくださる希望によって打ち震えます。
今日、何名かの方々が、心の内に主をお迎えしたいと告白しました。
どうかそのおひとりおひとりにあなたが力を与えてくださり、その心の闇をあなたの光で照らし出して下さい。
私達があなたの愛によって生かされ、喜びをもってあなたに仕えていくことができますように、心から願い、この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。