ルカ2:1-7 『 喜びの訪れ③~いる場所がなかった王 』 2012/12/09 松田健太郎牧師

ルカ2:1~7
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

先週のお話では、マリヤの元にガブリエルが現れ、彼女がイスラエルの人々が待ち望んでいたメシヤの母となると告げられました。
しかしそこには問題がありました。
マリヤは大工であるヨセフと婚約をしていて、二人はまだ結婚をしていなかったのです。
法律的にも、周りの視線としても決してよい状況とは言えないにも関わらず、彼らは自分達に課せられた運命を自分の事として受け止めて行ったんです。

さて、マリヤとヨセフはどこに住んでいる人達でしたか?
彼らはナザレという、誰も知らないような田舎に住んでいたんです。
しかし、そこには少し問題がありました。
紀元前700年頃、イスラエルでミカという預言者は、救い主は産まれる場所に関してこの様に預言していたからです。
ミカ 5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

メシヤはダビデの村と呼ばれているベツレヘムで生まれる。
ナザレではない。
この様な状況の中にも、神様の計画はありました。
その辺りから、今日はイエス・キリストの降誕の話を見て行きましょう。

① 完璧な神様の計画によって
医者であるルカが書いた福音書には、他の福音書にはない歴史的な背景を考えさせてくれる記述が記されています。

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

これは、ローマ皇帝アウグスト・オクタヴィアヌスの時代の事です。
彼は一世紀に渡るローマの内乱を平定し、最初にローマ帝国の皇帝となった人です。
彼はそこに住んでいる住民からどのくらいの税金を取り立てる事ができるかに関心をもち、人口調査をしました。
その人口調査のために、ヨセフとマリヤは自分の本籍地であるエルサレムに、160kmもの道のりを旅して、戻らなければならなくなったのです。

なぜこのような面倒な事が起ったのでしょうか?
メシヤがベツレヘムで産まれるなら、ナザレに住んでいるマリヤではなく、ベツレヘムに住んでいる誰かを最初から選べばよかったじゃないですか?
あるいは、マリヤがベツレヘムに産まれるようにすればよかったじゃないですか?

それは、この当時のユダヤの王、ヘロデ大王に問題があったからです。
2週間前にも登場しましたが、このヘロデ大王は嫉妬深く、残虐な王としても知られていました。
このヘロデ大王が、「イスラエルの王が産まれた」という東方の博士の言葉を聞いて、ベツレヘムの赤ん坊を虐殺するという事件もありました。
メシヤが地上に産まれてくる事を阻止しようとする悪魔の働きもある中で、ベツレヘムという場所は多くの人々によって警戒されていたのです。

赤ん坊という無力な存在として産まれてきたイエス様が、メシヤとしての活動を始めるまで、しっかりと守られる必要があったのです。
神様の計画はこのように、いつでも綿密で完璧なのです。

② 幼子として産まれた神
さて、クリスマスと言う事を考えた時、そこにある完璧な神様の計画とはどのようなものであったでしょうか?
わたし達の罪を贖うため、十字架にかかって死ぬために、まず人間の体としてお産まれになった。それも確かにこの出来事の目的です。

でも、それだけではありません。
神様はこうして人として産まれる事を通して、もう一つのメッセージをわたし達に伝えて下さいました。
それは、「神様が、人間として私達を同じ立場に立ってくださった。」という事なのです。

創造主であり、絶対的な義なる方であり、全知全能であられる神様。
それは素晴らしいけれど、しかしあまりにも偉大すぎて、わたし達にはとても遠く感じられます。
たくさんの試練を受ける中で、ヨブは「結局、神様にはわたし達の気持なんかわからないんだ。」とつぶやきました。
でも、人としてこの地上に産まれて来られたという事は、神様はもう、私達にとって何を考えているか、何をしているのかもわからないような存在ではなくなったという事です。

神様が、私達と同じ弱さをもって産まれてきた。
そして私達と同じように、罪にまみれたこの世界で成長していったのです。
それは神様が、私達と同じように、この世で生きる辛さを知っているという事です。

イエス様は、労働して賃金を稼ぎ、生活するということがどれ程大変な事か知っています。
イエス様は、嫌な上司や同僚と一緒に働く時のストレスを知っています。
イエス様は、柱の角で足の小指をぶつけた時の痛みを知っています。
イエス様は、自分の主張を理解してもらえない時の寂しさや苛立ちを知っています。
イエス様は、私達がどの様な時に憎しみを持ち、高ぶり、誘惑を受けるのかをよく知っています。
イエス様は、もっとも信頼する友から裏切られる悔しさと悲しさを知っています。
イエス様は、誰からも顧みられず、孤独に死んでいく恐さを知っています。
神様は、わたし達の気持を理解していると伝えるために、この地上に来て下さったのです。

③ 家畜小屋に産まれた王
さて、神様が私達のうちのひとりとなって下さった。
王の王が、私達よりも身を低くされた。
その事実を知ってもまだ、「いや、そうは言っても、イエス様は素晴らしい方だった。自分のような心の醜い人間の事なんて判るはずがない。クリスチャンは、清くて正しい人たちのためにあるものだ。」そのように思われる方がいらっしゃるものです。
その様に思われる方は、イエス様が生まれる時、どんな場所で生まれたのかという事をもう一度考えてみて欲しいのです。
イエス様はどこに生まれたのでしたか?
イエス様は家畜小屋の中で生まれ、飼い葉おけに寝かされたのです。

皆さんは家畜小屋に入った事がありますか?
今でもちょっと田舎に行くと、近所に牛小屋があったりしますけど、1kmくらい離れた所からでも匂いでわかったりしますよね。
ある程度は衛生的かもしれませんが、家畜小屋とは人が住むところに比べると、ずっと臭くて汚い所です。
“臭くて汚い。”あ~、私達の心みたいだなぁと思いませんか?(笑)

私達は、表面的にはどれだけ取り繕ってきれいに見せていても、心の奥底には臭くて蓋をしたいところ、汚い所がたくさんあるものです。
たとえ蓋をしても、1km先からでも匂ってくるような醜さが、私達の中にはあるのではないでしょうか?

さらに言うと、イエス様が産まれて間もなく寝かされたのは、飼い葉おけでした。
この当時の家畜小屋は、わたし達がイメージするような基の小屋ではなく、ほら穴を利用したものでした。
飼い葉おけも、わたし達が考える木で作った桶ではなく、ほら穴の中の岩が出っ張った所を削って作ったような、岩作りのものです。
堅くて、冷たい岩の上に、イエス様は生まれて間もなく寝かされたのです。

“堅くて冷たい。”これもまた、私達の心のようではないでしょうか?
もっと柔軟に考えられればいいんだけど、頑固で、頑なで、融通が利かなくて。
優しさとか温かさがあればいいのだけれど、実はとても冷たい人間だったりして。
その様な所にも、イエス様は来てくださるのだという事です。

クリスチャンになるためには、いい人でなければならない。
クリスチャンになるには、いつでも清く、正しくなければならない。
イエス様は、その様な人にだけ来てくださるのではありません。
イエス様は、臭くて汚く、堅くて冷たい心をもった私達のような心の内に来てくださる。
それもまた、イエス様の誕生の中に表されている神様の計画でした。

④ いる場所がなかった
しかし、それが神様の計画だったのであれば、どうして全ての人の内にイエス様はいないのでしょうか?
イエス様は、すべての人々の心に訪れて下さるのではないでしょうか?

それは、この様な言葉によって表されています。

ルカ 2:7c 宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

世界中の人々が待ち望んだ救い主、王の王の誕生が近づいているのに、誰もそれに気が付かず、迎え入れようとしなかった。
それは、私達の心が別のもので埋め尽くされて、イエス様のおられる場所がなかったという事でもあるのです。

ヨハネの福音書の中には、この様にかかれています。

ヨハネ 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

私達がイエス・キリストを王として自分の心に迎え入れるという事は、私達が自分の王であり、神であり、支配者であることを止めて、自分の全てをイエス様に委ねる事を意味しています。
しかし、それは私達にはとても怖い事でもあります。
自分が自分の王となっていた間は、自分の好きなように生きてきたのに、イエス様を王として迎え入れたら、もう自分の好き勝手な生き方ができないからです。
ヘロデ大王も、それが根本的な恐れとなって、ベツレヘムの幼児達を殺させました。

しかし、考えてみていただきたいのです。
わたし達を本当に満たす事ができるのは、神様です。
わたし達が自分を満たそうとする、表面的な楽しみや、喜びではありません。
しかし、私達が他のもので心を満たそうとし続ける限り、私達はイエス様を自分自身の中から追い出して、王として来る事を拒絶する事になるのです。

今、この時も、イエス・キリストは私達の心の扉を叩き続けています。

黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

私達がそれに気づかなかった時から、イエス様は私達の心の扉の前にいて、私達がその扉を開いて、王として中に迎え入れる事を待ち続けています。
救い主を、心の内に受け入れてみませんか?
神様は、汚く、冷たく、頑固なわたし達の内にも主は住んで下さり、そこを天国へと変える事ができるお方なのですから。

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