ルカ2:8-12 『弱き者のためのクリスマス』 2006/12/17 松田健太郎牧師

ルカによる福音書2:8~12
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

信じられない方もいるかもしれませんが、世の中にはクリスマスが嫌いだと言う人が、思いのほかたくさんいるものです。

学校は冬休みだし、プレゼントがもらえるし、いろんなおいしい物も食べられるのに?
こんなに華やかで、きらびやかで、ハッピーな気分になれるのになぜ?
日本中がクリスマスの彩りに飾り付けられ、恋人達は愛を深め、家族がひとつになってクリスマスを祝うのに、どうしてクリスマスが嫌いなどと言う事がありえるのでしょうか?

最近流行っている嫌な言葉の一つに、“勝ち組”と“負け組”というのがあります。
クリスマスを恋人と共に過ごせる人が勝ち組で、ひとりで寂しく過ごすのは負け組だそうです。
負け組と呼ばれた人にとって、クリスマスはなんと不愉快な日になってしまうことでしょうか?

クリスマスが、ハッピーな日であればある程、孤独を感じている人たちは寂しさを強調されるようで、大変悲しいことですがクリスマス前には自殺する人も急増するそうです。

大好きだった彼にひどい振られ方をした少女、食べる事はできているけれど、みんなが顔を背けるホームレスの人たち、子供たちは独立し、家を出たまま連絡ひとつよこさず、妻にも先立たれ、4畳半一間のアパートで一人暮らしをする老人達。
キリストの誕生を祝うクリスマスが、人々を追い込むことになっていると言うのは何と悲しい現時でしょうか。

皆さんはいかがでしょうか?
皆さんの中に、クリスマスが嫌いだと言う方はいらっしゃるでしょうか?
あるいは、クリスマスが嫌いと言うわけではないまでも、孤独や寂しさを感じている方はいらっしゃるでしょうか?
孤独や寂しさはないものの、負け組扱いされて不愉快な思いをしている方はいらっしゃるでしょうか?

今日のメッセージを通して、ひとりでも多くの方々が、クリスマスを大好きになってくれたなら幸いです。

① 共感が愛を伝える
さて、ハワイにモロカイ島という島があるのを皆さんはご存知でしょうか?
19世紀の頃、この島はハンセン病患者の収容所として用いられていました。
この当時、ハンセン病の治療方法は見つかっておらず、また体が腐って崩れていくという醜い病気だったので、ハンセン病患者は差別を受け、ハンセン病に感染している事がわかると、有無も言わさず、モロカイ島に島流しされていたのです。
この島には患者しかいませんでしたから、当然世話をする人もおらず、ハンセン病にかかってしまうことは見捨てられ、孤独のままに死んでいくという運命を背負う事に他なりませんでした。

ダミアン神父として知られる修道士は、このモロカイ島の常駐司祭として始めて就任した神父です。
彼は単身モロカイ島に渡り、ハンセン病患者の手助けをし、看病をし、治療施設を整え、学校を作りました。
この世の多くの人々からは変人扱いをされましたが、ハンセン病患者達は絶大な支持を受け、こよなく尊敬されたのです。

しかし、ダミアン神父にはひとつ悩みがありました。
それは、ハンセン病患者達が決して教会に足を踏み込み、神様の話に耳を傾けようとはしなかったということです。
彼らの心はひどく傷ついていました。
このような運命を担わせた神を憎み、神の愛などという非現実的なたわ言に耳を傾けたくないというのが彼らの思いだったのです。
それが尊敬するダミアン神父からの言葉だったとしても、それは同じ事でした。

それでもハンセン病患者に寄り添い、手助けしていったダミアン神父は、やがてモロカイの英雄と呼ばれるようになり、一般の人々からも指示されるようになっていったのです。
しかし、悲劇は突然訪れました。
モロカイ島でハンセン病患者と共に生活する中で、ダミアン神父もハンセン病に感染してしまっていることがわかったのです。

その事実に彼は愕然としました。
神様に与えられた働きだと信じて続けてきたのに、神は守ってくれなかったのか?
せっかく島の外の人々からの理解を得られ始めたばかりなのに、今ここで私が倒れてしまったら、ハンセン病者たちへの扱いはまた元に戻ってしまう。
彼は絶望的になり、打ちのめされました。

しかしその週の日曜日、いつもの様に礼拝堂に行くと、彼は驚くべき光景を目にしました。
誰も来ないはずの礼拝堂に、人の姿があったのです。
彼がハンセン病に感染した事を知った人々が、彼を励ましに来てくれたのでした。

その後、週を追うごとに、少しずつですが人の数が増えていきました。
やがて彼の体が徐々に崩れ始めると、不思議な事に礼拝に参加し、その教会で信仰を持つ人々が次々と起こされていきました。
ある時ダミアン神父は、これから洗礼を授けるひとりの信徒に質問しました。
「これまで、私がどれだけ神の愛を伝えようとしても、あなた方は決して耳を傾けようとしなかったのに、どうして今になって教会に来て、信じようと思ったのですか?」
その人はこの様に応えました。
「これまであなたは、私たちを哀れみ、助けてくれる方でしたが、今は私達の仲間だからです。同じ苦しみを負うあなたが伝える愛の神様を、私も信じます。」

人々の心を動かしたのは、正論ではなく、憐みでもなく、共感でした。
共感によって、ダミアン神父の愛は始めて人々に伝わり、心を動かしたのです。

皆さんにも、「あ、この人はわかってくれてるな。」と実感した経験がありませんか? その時に、皆さんはすごく嬉しい気持ちになったのではないでしょうか?
その“わかってくれている”という感覚こそが力なのです。
この人は私を知ってくれている、わかってくれてる、私と共感してくれている。
共感によって、愛は伝わるものなのです。

② わたしたちのひとりとして
さて皆さんは、神様がすごく遠い存在のように感じてしまう事がないでしょうか?
神様は世界の創造者、全知全能、主の主、王の王、栄光の神、永遠の支配者、三位一体の神。
その全てのイメージは、あまりに大きすぎて私たちからかけ離れています。
聖書には、神様があまりにも聖過ぎるので、私達人間は近づく事も出来ない。不用意にその御顔を見てしまえば、私達は決して生きている事ができないという神様の強烈なまでの聖さが描かれています。

そんな神様のみ前で、私達の存在がどれ程のものなのでしょうか?
私達が祈るちっぽけな悩み事の何を神様は理解し、考えてくれるというのでしょうか?

会社で上司に虐められているという悩みに対する神様の答えは、「あなたの敵を愛しないさい。」という一言だけで終わってしまう。
でもその答えからは、何も解決したように思えない。
もしかしたら正しい答えなのかもしれないけれど、たとえそうだとしても現実味がない。
その様な答えに対する私達の態度は、あきらめか、絶望か、ふたつにひとつです。

聖書の中にも、同じ思いをもった人物が登場します。

ヨブ記 9:32~33
9:32 神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。
9:33 私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。

ヨブは、自分が正しい生きた方をしてきたはずなのに苦しみを背負う人生を与えられた事を呪い、神様は人間でないから私たちと人間という存在を理解する事はできないのだと訴えたのです。

自分がどのような存在なのか、自分がどれほど罪深い人間なのかという事実を理解すれば理解するほど、私達は神様が遠く離れてしまうような気がしてしまいます。
私達が神様の事を本当に理解する事などできるはずがない。
そして神様に、私達の何がわかると言うのでしょうか?

もうすぐクリスマスが近づいていますね。
この教会では、少し早めに今日クリスマスの礼拝を行っています。
私達は、このクリスマスの意味をもう少し深く考える必要があるのです。
私達は、どうしてキリストの誕生をこれほどまでに祝うのでしょうか?
ハッピー・バースディの歌を歌って終わりではなく、キリストの誕生を喜ぶ歌がこれ程たくさんあるのはどうしてなのでしょうか?
それは、このとき、神様が私達のひとりとなって下さったからです。

その時神様は、上からものを言うだけの存在ではなくなりました。
正論を吐いて私達の無力さを思い知らせるだけの神様ではなくなりました。
私たちを救ってくれる素晴らしい存在ではあるけれど、私たちからかけ離れていて、近づき難いお方ではなくなったのです。

それは健康な人がハンセン病に冒されたようなものでした。
いや、それは人間が蛆虫になってその気持ちを理解しようとするほどに、想像を絶する出来事だったのです。

神のひとり子と呼ばれ、神ご自身でもあるイエス様は、人としてこの世界に生きる事がどれ程大変で、苦しい事なのかを知っています。
イエス様は、労働して賃金を稼ぎ、生活するということがどれ程大変な事か知っています。
イエス様は、嫌な上司や同僚と一緒に働く時のストレスを知っています。
イエス様は、柱の角で足の小指をぶつけた時の痛みを知っています。
イエス様は、自分の主張を理解してもらえない時の寂しさや苛立ちを知っています。
イエス様は、私達がどの様な時に憎しみを持ち、高ぶり、誘惑を受けるのかをよく知っています。
イエス様は、もっとも信頼する友から裏切られる悔しさと悲しさを知っています。
イエス様は、誰からも顧みられず、孤独に死んでいく恐さを知っています。

私達が傷つき、苦しむ時、イエス様は私達のことをわかってくれます。
「あなたの痛みは、私にもよくわかるよ。」

世界の創造主である神様が、私たちに共感して下さるということを受け取る事が出来たとき、私達はそこに大きな喜びを得、新たな力を受けることができるはずです。
私達がその愛を受け、神様に信頼するとき、私達は苦しみや絶望を乗り越えてもう一度立ち上がり、歩いてみようと思えるのです。

③ 私達の中で愛が輝く
ダミアン神父がハンセン病になった時、神の愛が人々に伝わったように、
宇宙の創造主が、弱々しい赤子となって地上に降り、人間という限りのある存在として生きる事を通して、その愛が人間に伝わったように、私達の弱さの中にも意味があるはずです。

私達は、なかなか自分の短所や弱さを愛する事ができません。
もっと自分自身を愛しなさいと言われても、その弱点が明確にある以上、自分の事を好きなることなんてできないように思います。
私達の弱さは、そのままでは単に罪の表れであったり、ただの弱点でしかありません。
しかし私達は、自分の弱さや失敗を神様の元にもっていき、その罪を聖めていただく時、弱さや失敗の中にも神様の愛が輝く事を知ることができるのです。

イエス様が十字架にかけられる前の夜、使徒ペテロがイエス様を見捨てて逃げてしまうということを預言してイエス様は言いました。

ルカ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロは、イエス様を裏切って逃げ去ったからこそ、自分の罪深さに酷く傷ついて落ち込んだからこそ、同じように打ちひしがれている人々に共感し、彼らを励まし、寄り添い、神様の愛が彼らの上にも注がれていることを伝える事ができたのです。

使徒パウロがこの様に言っています。

IIコリント 12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

私達の中には、弱さがあります。
しかし、私達は弱さがあるからこそ、ほかの人たちと共感し、他の人々に共感を与える事ができるのです。

弱さの中に、神様の力があります。
弱さの中にこそ、神様の愛が輝きます。

どうか、覚えていて欲しいのです。
クリスマスは弱いものが忘れ去られ、嘲られ、虐げられる日ではありません。
むしろ、クリスマスが来るたびに思い出して欲しいのです。
宇宙で最も力強い方が、もっともひ弱い赤ん坊となったことを祝うのがクリスマスであり、弱さの中にこそ神様の強さが現れるのだと言う事を。

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