エペソ4:25-5:2 『 エペソ9~神にならうものとして 』 2013/10/13 松田健太郎牧師

エペソ4:25~5:2
4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

これまでわたし達は、エペソ人への手紙の学びの中で、キリストの体として生きることの大切さを学んできました。
わたし達がクリスチャンであるという事は、単にキリスト教という宗教に属していることでもないし、単に「天国に行けるからよかったね」という話でもなく、キリストの体として生きていくことが求められているんだという事ですね。
神様が創ってくださったわたし達は、もともとそういう役割を持った存在だったのです。
でも、神様から離れて、自分の思う正しいことを追い求めたので、世界はメチャクチャになってしまったわけです。

わたし達が、本来創られた自分に戻っていくところに、本当の幸せがあります。
わたし達が、本来創られた自分に戻っていくところに、世界の平和があります。
わたし達が、本来創られた自分に戻っていくところに、環境の回復があるのです。
だって、神様が最初に創られたわたし達とこの世界は、完ぺきだったのですから。

わたし達がそうなっていくために、わたし達はまず古い自分を脱ぎ捨てる必要がありますよという話を先週しましたね。
わたし達は罪によって歪んでしまっている自分の価値観や生き方を、まず脱ぎ捨ててしまう必要があります。
その時神様は、わたし達に新しい衣を着せてくださる。
その古い自分とはどのようなもので、着せられる新しい自分とはどのようなものなのかという具体的なところが、今日の聖書箇所のあたりから始まっているわけです。
本当はこのひとつひとつが深い言葉なので、もっと掘り下げて話行けたらいいのかもしれませんが、それをすると残り2章半のために丸一年くらいかかる事になりそうなので、皆さんにはそのヒントとなる部分だけお伝えしていきたいと思っています。
それでは早速みていきましょう。

① 偽りから真実へ
第一は、偽りを捨てて真実を語るという事。
これは、わたし達がキリストの体として機能していく上でかなり重要なことです。

4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。

わたし達、実はたくさん嘘をついていたりするじゃないですか?
特に、わたし達の中でありがちなのは、問題があるのに何の問題もないようなふりをしてしまう事です。
人間関係を円滑にはかっていくという事を考えると、嘘をついていた方が楽なんです。
問題なんて何もないふりをしていれば、煩わされることなんてないし、面倒はないように思えるかもしれません。
でも、何か問題がある時にそれを放っておいたために、問題はどんどん大きくなり、それが爆発した時には修復することができないというのが、わたし達日本人に起こりがちなトラブルではないでしょうか?
日本人の文化として、人に弱さを見せるものじゃないというものがあるのはわかります。
でも、わたしたちクリスチャン同士の間では、お互いに本音を言う事が出来る関係でいられたらいいなと思うのです。

わたし達が熱いものを触ったとき、指先が「わたし、大丈夫ですから」とか言って、「熱い」という信号を発しなかったらどうなるでしょう?
やけどは必要以上に酷くなり、その部分が壊死してしまったりします。
わたし達は、キリストの体を構成する部分なのです。
わたし達は、お互いの罪や問題を認め合うような関係を築き、お互いを赦し、励まし、祈りあう関係を築いていきたいものです。

② 怒りから赦しへ
次にパウロは、怒りから赦しへと変えられていく関係の大切さについて書いています。

4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。

一つ間違ってはならないのは、聖書は怒りそのものを否定しているのではないという事です。
怒りにも、正当な怒りや、怒るべき時というものもあります。
イエス様だって、律法学者やパリサイ人たちに怒りましたよね。
神殿の前で商売していた人たちの屋台をひっくり返した事もありました。
怒る事が悪いのではありません。
怒りが抑えられなくなって、怒りに任せて行動してしまうことが問題なのです。

さらにパウロは、日が暮れるまで憤ったままでいてはならないと言っています。
ここで言われている憤りとは、ただの怒りではなく、感情に任せた激しい怒りのことです。
怒りは持っていても、感情的になったままでいてはいけないという事です。

感情というものは、とても強い力を持っているものですが、その中でも最も大きな力を持っているのが怒りではないでしょうか?
そのエネルギーを、ただ我慢して抑えつければいいというものではありません。
それでは、いつか爆発してしまうでしょう。
必要なのは、感情に振り回されるのでなく、うまく乗りこなすことではないでしょうか。
そして理性をもって、対応していく必要があるのだと思います。

③ 盗む事から分け与える事へ
第三に、盗むことをやめて、与える側になるという事です。

4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。

多くの方は、これを聞いて自分は大丈夫だと思うのではないでしょうか?
自分は盗むことなんてしないし、募金だってすると思っているかもしれません。
確かに、この手紙が書かれた時代の人々と比べたら、
でもわたし達は、実は日本という先進国で暮らしているというだけで、貧しい国々から搾取しているのです。

世界では貧困や飢餓がまだまだなくなりません。
その原因は、実はわたし達が作っていたりするのです。
日本の食料自給率は、40%未満になったといわれています。
多くの食料を、わたし達は外国から輸入しているのです。
そして、輸入した毎日何万トンもの食料が食卓に並ぶこともなく廃棄されていることをご存知でしょうか?
それは、国内で質のいいものを作って売るよりも、海外から大量に買い取って売れないものを捨ててしまった方がコストが安いからです。
その結果、貧しい国からは食料がなくなり、あるいは価格が高騰し、その国に住む人たちには買うことができなくなります。
それによって、世界の飢餓が起こっているのです。

豊かなわたし達が、より豊かになっていくために犠牲となっているのは、貧しい人たちの生活であり、命なのです。
わたし達は、彼らから盗んでいるのです。

わたし達はまずその事実を知り、生活を見直し、また富を彼らと分かち合っていくこともできるのではないでしょうか?
世界中が一つの家族であり、神の体の一部なのですから。
聖書はわたし達に、盗む者ではなく、与える者になりなさいと教えているのです。

④ 悪い言葉から恵みの言葉へ
第四に、パウロは悪い言葉を使うのでなく、恵みの言葉を使いなさいと教えています。

4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

ここで“悪い言葉”と書かれている言葉は、悪い言葉使いという事ではなく、原文では“腐った言葉”という意味の言葉だそうです。
腐った言葉は、人を貶め、心を折り、やる気を奪ってしまうような言葉です。
使っている本人は、そういう意識をもって言ってはいないのかもしれません。
しかし、「親切心から言ってやっている」くらいのつもりでいる批判や忠告の言葉が、実は害にしかなっていない言葉だったりするのです。
愛ではなく、正しさを優先するとき、わたし達の言葉はこのような腐った言葉になっているのではないでしょうか。

わたし達が自分の思う正しさよりも愛を優先して人と接するとき、わたし達の言葉は人を励まし、立て上げ、勇気と力を与える恵みの言葉となります。
このような恵みの言葉を交し合う環境の中でこそ、人は成長し、喜んで生きることができるのではないでしょうか?

さて、こうして学んだ今日の言葉が、わたし達の新しい律法になっては意味がないのです。
それでは、わたし達は表面的に新しい自分を着たように振る舞うだけになってしまいます。
これは、守らなければならないルールなのではなく、わたし達が心から求めて、近づいていくものであるはずなのです。

パウロはこのように言っています。

5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

わたし達は、神様から愛されています。
わたし達は、愛されるために変わる必要があるのではなく、愛されているから変わることができるのです。
変わらなくても愛されているけれど、変わりたいと思うようになるのです。
その事を心から知り、実感するとき、わたし達の生き方は変わります。
愛されている子供が、親のする事を真似ていき、親と同じような生き方をしていくように、わたし達は神様というお父さんにならう者になりたいと願っていくようになるのです。
もちろん、すぐにキリストの似姿になれるわけではありませんが、今すぐに変わり始めることができるはずです。

偽らない関係を築き、赦し合い、分かち合い、恵みの言葉によって立て上げられるキリストの体を、共に築き上げていきませんか?
救われただけでは味わえない、本当の喜びが、その関係の中にこそあります。

祈りましょう。

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