ガラテヤ2:1-10 『 ガラテヤ3~私たちの持つ自由 』 2013/05/26 松田健太郎牧師

ガラテヤ2:1~10
2:1 それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
2:2 それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。
2:3 しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。
2:4 実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
2:5 私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。
2:6 そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。
2:7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
2:8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。
2:10 ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。

かつてイエス様は、この様に言いました。

ヨハネ 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

福音は、わたし達を自由にするものです。
パウロ達もまた、その自由をもたらす真理である、福音を述べ伝えていました。

それまでユダヤ人たちが信じていたのは、神様から与えられていた律法というルールを守る事がもっとも大切であり、それによって救いを受ける事ができるという事でした。
それは律法を第一とする、“律法主義”と呼ばれるものです。
でも、このような律法主義的宗教に自由はありませんし、救いもありません。

今日は、ガラテヤ人への手紙から、真理から来る自由と言うものがどのようなものなのかという事を一緒に考えていきたいと思います。

① 人々に届くための根回し
パウロは、救われてから三年後に、一度エルサレムを訪れていました。
その時、パウロの働きを知った人々は、クリスチャンを迫害していたパウロが、今は熱心に福音を伝えているのを見て喜び、神様を讃えたのです。
そこまでが、前回の話でしたね。

その後も、パウロは熱心に福音を述べ伝え続けていました。
その中で彼が得意としていたのは、異邦人への伝道です。
やがてパウロの周りで、たくさんの異邦人達がイエス様を救い主として受け入れ、クリスチャンとなって行きました。

しかし、パウロの活躍を喜ばない人々もいました。
保守的なユダヤ人クリスチャンたちです。
彼らは、その状況を喜ばず、むしろ危険な事として受け止めたのです。
なぜなら、律法の知識もなければ守りもしない異邦人クリスチャンたちの行動は、彼らにとって神様への冒涜であるように思えたからです。

やがて、保守的ユダヤ人クリスチャンたちからの風当たりが強くなってくると、パウロは14年ぶりに、もう一度エルサレムに上る事にしました。
自分たちが述べ伝えている福音が、使徒たちによって述べ伝えられているものとはずれてしまっているのかどうかを確認するためです。

しかしエルサレム教会の人々は、温かくパウロ達を迎えました。
そして、彼らが述べ伝えている事に関しては何も付け加えたり指導したりすることなく、使徒ペテロやヨハネ、そしてイエス様の弟であるヤコブは、友情のしるしとしてともに握手を交わしたのです。

パウロが何度も繰り返しているように、彼は自分に与えられている使徒としての役割も、福音のメッセージそのものも、全て神様から預けられているものだと確信しています。
彼自身は、他の人達の保証を必要としているわけではありませんでした。
でもこれは、彼に敵対しようとする保守的ユダヤ人クリスチャンたちに対して、相手を黙らせるほど有効な保証となりました。

わたし達は、正々堂々真正面から戦う事ばかり考えて、案外こういう根回しの様な事を敬遠しがちだったりするかもしれません。
でも、どんな手段を用いても、時にはプライドなんてかなぐり捨てて相手の心に届こうとするパウロの心から、わたし達は学べる事がたくさんあるのです。

② キリストにある自由
しかし、このエルサレムへの旅の時には、少なからぬ危機的状況もありました。
パウロに敵対するような、保守的ユダヤ人クリスチャンたちは、エルサレム教会の中にもいたのです。
この事によって、異邦人であり割礼を受けていなかったテトスが、割礼を強いられる可能性もありました。
パウロはその時の出来事をこの様に書いています。

2:3 しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。
2:4 実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
2:5 私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

保守的ユダヤ人クリスチャンたちが主張していたのは、律法を守らなければ救いはない、クリスチャンではないという事でした。
律法は割礼を受ける事を求めているので、救いを受けるためには割礼を受けてユダヤ人にならなければならないと考えていたのです。
しかし、救いはイエス様によってなされ、完成されたのです。
救いを受けるためには、割礼を含めた律法を守らなければならないとする信仰は、むしろイエス様の十字架での死をムダにするような事であり、与えられた自由を放棄する事に他なりません。

わたし達は、自分のした何かによる報酬として救いを受けるのではなく、ただ神様の憐れみによる一方的な恵みによって救われている。
これが福音です。
わたし達にできるのは、それを受け取るか、拒否するかです。
ここに、クリスチャンの自由があるのです。

③ 愛という秩序
それでは、クリスチャンはただ恵みによって救われているのだから、何をやっても良いし、何もしなくても良いという事でしょうか?
「わたし達にはキリストにある自由が与えられているのですから、好きなようにさせていただきます。」というのが、クリスチャンとしての生き方なのでしょうか?
それではクリスチャンは、わがままばかりで自分の好きなようにふるまう人達の集まりになってしまいます。
それでは全くの混沌(カオス)であり、無政府主義(アナーキー)です。

アナーキーというのは、一見自由であるようでいて、全くそうではありません。
力のあるものだけが自由を行使し、自分勝手な行動がふるまわれて、多くの人達は暴力と恐怖に支配される事になるでしょう。
しかし、秩序の中で人々は自由にスポーツを楽しみ、秩序の中でこそ美しい音楽が自由に奏でられるように、わたし達の本当の自由のためには、秩序が必要なのです。

律法について、イエス様はこの様に言っている事に注目する必要があります。

マタイ 5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

わたし達が十字架による救いを信じて、福音の中に生きると言う事は、決して律法なんてどうでもいいんだという生き方なのではなく、むしろ律法を成就する生き方へと変わっていくというのです。
それでは、律法主義と福音的な生き方の何が違うのでしょう?

律法主義による信仰はこうです。
① 主イエスを信ぜよ。
② そして律法を守れ。
③ そうすれば、救われる。

一方で、福音による信仰はこうなのです。
① 主イエスを信ぜよ。
② そうすれば、救われる。
③ それによってあなたは、律法を全うするようになる。
この②と③の順番の違いが、律法に対しての見方を大きく変えるのです。
律法主義的信仰にとって律法とは救われるための条件ですから、具体的に何をするのか、してはならないのかという事が大きな問題となってきます。
そしてそこには、それを絶対に守らなければならないという拘束感が伴います。

でも、福音的信仰の中では、律法を守る事は条件ではないのです。
律法を守る事ができなかったとしても、救いは無くならないという事です。
しかしわたし達は、神様の愛を受け、赦しという恵みに預かっている喜びを受けます。
私達は、すでに赦され、愛されているからこそ、自発的に神様が喜ばれる事をしたいと思うし、その喜びの中で生きたいと願うようになるのです。
また、律法は救われるための条件ではないのですから、何をするかとかしないかという表面的な事ではなく、神様が求めている本質の部分、心の部分が大切になってくるのです。

例えば、「殺してはならない。」という律法があります。
律法主義的に考えるなら、殺さなければオッケーなわけです。
半殺しにしたり、相手を精神的にズタボロにしたとしても、「殺していない」のだから律法を破った事にはなりません。
でも、福音の信仰に生きるなら、わたし達はその律法の意味と本質を探るでしょう。
つまり、「殺さない」という事だけが大切なのではなくて、わたし達が互いに憎みあったり、傷つけあう事が神様には哀しいのだという事がわかってくるのです。
だからイエス様はこの様に言いました。

マタイ 5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

秩序の中にある自由、自由と共にある秩序は、どのようにしてもたらされるでしょう?
それは愛であると、聖書は断言しています。

ローマ 13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

わたし達に与えられているのは、恵みによる無条件の救い、そして神を愛し、隣人を愛する中で生まれる自由な秩序です。
わたし達は、このような本当の自由の中に生きて行きたいものです。
イエス様という真理の中に、その自由はあります。
皆さんがイエス様との関係の中に入り、その自由の中で生きることができますように。

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