マタイ25:1-13 『 たとえ話7~信仰の油を絶やさず 』 2010/06/27 松田健太郎牧師

マタイ25:1~13
25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

ある宣教師が、日本に来て間もない頃に日本語検定試験を受けました。
問題:次の言葉を使って、短文を作りなさい。
① あたかも・・・
“冷蔵庫に、牛乳があたかもしれない”
② まさか・・・だろう
“まさかりかついだきんだろう”
③ もし~なら
“もしもし、あなたは奈良県の方ですか”
④ どんより
“ぼくは、うどんよりそばが好きです”
⑤ うってかわって
“彼は、薬をうってかわってしまった”
中野雄一郎、岸義紘編集『必勝ジョーク202』(いのちのことば社)より

わたし達は言葉を読む事ができても、何となくわかったようなつもりで理解しようとすると、まったく違う話になって、おかしな結論を生んでしまう事があるものです。
聖書の言葉は、本来誰にでも読む事が許されている神の言葉ですが、一方で解釈が難しい一面もあり、ともすると間違えた解釈をしたまま読み進めてしまう事があります。
今日のたとえ話は、数ある中でも有名な話の一つですが、わたし達が読み違えやすい話でもあるのです。

皆さんはこの話を読んでどのように感じたでしょうか?
結論を先に言うとこれは、賢いクリスチャンが天国に入り、愚かなクリスチャンは天国に入れない、という話ではありません。
この10人の乙女たちとはクリスチャンの事であって、その半分は天国に入れるけれど、もう半分は入る事ができない、という話でもありません。
教会史の中で、この御言葉がそのように理解され、信徒が恐怖によって信仰に縛られていた時代があったのです。
しかしそれでは弱肉強食の世界、受験の世界、あるいは新興宗教の世界です。
イエス様の福音とは、決してそのようなものではありません。
ではイエス様はどのような事をわたし達に伝えようとしていたのか、ともに読み解いていきたいと思います。

① 10人のブライド・メイド
キリスト教式の結婚式には、花嫁の横にブライド・メイドと呼ばれる女性たちがいます。
花嫁の親せきや親友たちがブライド・メイドとなるのですが、この人たちは主人公である花嫁を引き立てつつ、花嫁の付き人となるのです。
この話に登場する10人の娘達とは、まさにこのブライド・メイドたちです。

今は結婚式が開かれようとしている時、花嫁を始め祝宴に参加する人々はみんな祝宴会場の中で待っています。
そこに花婿が迎えに来るというのが、当時の結婚式の習わしでした。

10人の娘たちは、会場の外で花婿を出迎えるために待っています。
娘たちは建物の外で花婿の到着を待ち、「よくいらっしゃいました。」と快く迎えるのが仕事なのです。
しかし、花婿の到着は遅れていました。
ちゃんとした交通機関もなければ、携帯電話もない時代です。
隣村やもっと遠くからこの花婿が来るのであれば、到着時間が大幅に遅れる事は日常茶飯事でした。
いつ到着するのかは、見当もつかない。
それでも、その場を離れるわけにはいかないので、彼女達はとうとう眠りこんでしまったのです。
これは、当時の人たちが聴けばだれでも情景が浮かんでくる、当たり前の光景です。

しかしイエス様の話には、その日常的な中にありえない話を入れて聞いている人々を驚かせるのでしたよね。
そしてそこがこの話のポイントでもあります。
聴いていた人たちが「ありえな~い!」「ウソでしょう!?」と反応したのはどこだと思いますか?

25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

ここがおかしい所です。
普通なら、予備の油など結婚式の主催者が用意しておくものでしょう。
賢いとか愚かだとかいう話の前に、娘達が自分たちで用意してくるものではないのです。

ありえない事はまだ続きます。

25:8 愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

油が足りなかった娘達が自分で買いに行き、戻ってきたら扉が閉められていた。
そんな薄情な話がありますか?
このブライド・メイドたちは彼らの親せきの娘達や親友なのです。
コンビニもないこの時代に、真っ暗な中油を買いに走らせて締めだしてしまう。
こんな事をしたら今後この新しい夫婦は、親せき付き合いや友達との関係をムチャクチャにしてやっていけなくなってしまうでしょう。
こんな事はありえない。
しかしそこに、イエス様のポイントがありました。

イエス様がこの話をしたのは、3日もすれば十字架にかけられて殺されてしまうという時でした。
別れの時が近づいている。
その緊迫した中で、イエス様はこの厳しいメッセージを、どうしても伝えておきたかったのです。

② 花婿が来た!
この話の中で花婿としてあらわさえているのは、イエス様です。
つまり終わりの時が来て、イエス様の再臨が来る。
その時、天の祝宴に入る事ができるかどうか、というのがこの話です。
これは、別れの時が来る前に話さなければならない、重要な話でした。

では、10人の娘達は何を表しているでしょう?
これは、クリスチャンではありません。
そうすると、クリスチャンの半分は救われないという話になってしまいます。
ここで語られているのは、ユダヤ人です。
この話は異邦人であるわたし達にではなく、ユダヤ人に話されている話だという事を忘れないでください。

ユダヤ人は神様に選ばれた民族として、何千年もの間真の神様への信仰を守ってきました。
聖書の律法を伝え、メシヤが来るのを待ち望み、その信仰によって彼らは天の御国を相続してきたのです。
しかしイエス様が現れて、時代は新約の時代へと突入しました。
その時、神様は人々に告げました。

マタイ3:17b 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

待ち望んでいたメシヤが来た時、彼らは自分達の信仰を明らかにしなければなりませんでした。
旧約聖書に何度も約束されてきたメシヤ。
賢い娘が余分の油を持っていたように、このメシヤを受け入れて信仰を持つか。
それとも、愚かな娘たちが油を持っていなかったように、キリストを拒絶して天の祝宴を永遠に逃してしまうか。
そのような選択を、ユダヤ人達は迫られていたのです。

イエス様は別の時にこのような話をしています。

マタイ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

先ほども言ったように、ユダヤ人は、以前から真の神様への信仰を持っていました。
そして、偶像ではなく真の神様に向かって「主よ、主よ。」と呼びかけてきたのです。
しかし、「主よ、主よ。」という事が信仰ではなく、父なる神様のみこころを行う事が信仰なのです。
では、“父のみこころ”とは何でしょうか?
それは、イエス様を救い主として信じる、キリスト信仰です。

わたし達に問われているのは、選ばれた民族であるかどうか、神様の知識を持っているかどうかどうかではありません。
問題なのは、わたし達が信仰を持って神様の御心に従っているかどうか、つまりイエス様を救い主として信じたかどうかです。
もしその信仰を持っているなら、それがたとえからし種ほどであっても、その人は必ず天の御国に行く事が約束されている。
これが福音であり、聖書の約束なのです。

③ 信仰の油を絶やさず
異邦人であるわたし達に必要なのも、もちろんキリスト信仰です。
しかし、わたし達にとってありがたいのは、一度得た救いは簡単には失わないという事です。
世の終わりまでわたし達と共にいて下さると宣言して下さったイエス様は、たとえわたし達が手を放そうとしても、その手首を握ってわたし達を捕まえていて下さるお方です。
そんな私達が救いを失う事があるとしたら、それはよほどの状況でしょう。

しかし、聖書に預言されているように、やがて大変な迫害が起ります。
その大迫害の中で信仰の油を絶やさないでいる事が、難しい時代が来るでしょう。
この話は、そんなわたし達に向けたイエス様の言葉でもあります。

それとは逆に、繁栄の中で生ぬるい生活を送って平和ボケをしていると、誘惑の中で自分を見失って、信仰を保つ事が難しくなってきます。
現代とはまさにそのような時代なのかもしれません。
この話は、そんなわたし達に向けたイエス様の警告でもあります。
わたし達はどんな事があっても、決して信仰の油を絶やしてはいけないのです。

そのような試練の中では、信仰の油が少なくなって、明りがくすぶって来るような人も出てくるかもしれません。
その時、わたし達は何も、この娘達のように少ない油を確保するため、他の人たちを締めだす事なんて考える必要はありません。
確かに、誰かに信仰を貸してあげるわけにはいきませんが、信仰を回復させる手助けをする事はできるはずです。

イエス様は、ペテロにこの様に語り、彼のために祈りました。

ルカ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエス様は今、わたし達のためにも同じように祈っていて下さいます。
イエス様が守っていて下さるのですから、わたし達はきっと試練を乗り越える事ができるはずです。
最後まで互いに支え合い、祈り合い、励まし合い、助けあって、共に永遠の祝宴に入ろうではありませんか。

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