マタイ26:6-13 『最高の捧げもの』 2010/02/07 松田健太郎牧師

マタイ26:6~13
26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

ある女の子が、ふたりの男性から同時に告白されました。
ひとりの男性は、ラブレターとともに大きな花束。
もうひとりは、ラブレターと一緒に花を一輪だけ添えてその女の子にプレゼントしました。
その女の子が選んだのは、大きな花束をくれた男性でした。
どうしてそちらを選んだのか聞いてみると、大きな花束をくれた男性のほうが、より自分を愛してくれていると感じたからだそうです。

「物の大きさで愛を量るなんて」とわたし達は思うかもしれません。
でも、そこにはある程度の真理が含まれていると思います。
愛の大きさは、ある程度ですが、測ることができます。
それは、払うことができる犠牲の大きさによって測ることができるのです。

この女の子は、大きな花束を贈ってくれた男性のほうが、より大きな犠牲を払ってくれたと感じたから、この男性を選んだということなのです。

① 心からの捧げ物
わたし達は日々、愛する人たちのために色々な犠牲を払っています。
僕は基本的に、子供と共に過ごす時間は好きですが、他にもやらなければならない事はたくさんあります。
また、本を読んだり、楽器の練習をしたり、ゲームをしたり、時間があったらやりたい事は山ほどあります。
しかし、子供たちを愛しているので、他にやりたいことを犠牲にして、子供たちとの時間を持つことがあります。

妻のベスは、僕が神学校に行き始めるまでは自宅で英会話を教えていて、それを楽しんでいましたが、家計を支えるためにフルタイムでの仕事に就いています。
この数年間に嫌なこともたくさんありましたが、「私は仕事を辞めるから、あなたが牧師を辞めて普通の仕事をしなさい。」とは一言も言った事がありません。
それは、僕や家族を愛しているからですね。
だから犠牲を払って、彼女は働き続けることができているのです。

皆さんのご主人や奥様方もそうです。
仕事中毒的な所があったとしても、長年働いていれば嫌なこともあります。
そこで辞めないで男性が踏ん張ることができるのは、家族を愛する思いがあるからです。

やる事が当たり前のこととされて評価を受けられない家事をし続けることは大変なことです。
それでも掃除し、洗濯し、食事を作り、子育てをし続ける事ができるのは、家族を愛する思いがあるからなのです。

皆さんが、せっかくの休みである日曜日に教会に来ることができるのは、神様をしているからですよね。
せっかくの休みくらい昼間で寝ていたいし、つまらない説教を聞かされるよりは、家族で出かけた方が楽しんじゃないかと思います。
でも、皆さんが神様を愛する思いによって、教会に来て礼拝を捧げたいと思うのです。

このようにして、わたし達は日々の生活の中で、愛の表現である犠牲を、いろんな形で愛する人たちや神様に捧げています。

もし、愛しているといいながら、自分の好きな事しかしないで嫌な事は一切しないとしたら、その人が愛しているのは自分自身であって、相手のことではないのではないかと思います。
そういう人との関係は気をつけなければなりませんね。

もうひとつ気をつけなければならないのは、愛することに夢中になるあまり、一方的に犠牲になり続けてしまうということです。
それは必ずしも正しいことではありません。
時にはそれが必要な時期もありますが、それだけが続いていると必ずくたびれ果てて、鬱になったり燃え尽きてしまうことになります。

それにしても、どうせ捧げるなら、より良いものを捧げたいものです。
いやいや捧げるのではなく、喜びをもって捧げる時、その犠牲はただの犠牲ではなく、愛の行いとなります。
特に、神様に捧げるものは、いつでも喜びをもって最高のものを捧げていたいものです。

② 大きさではなく
さてそうすると、「お金持ちだったらもっと捧げることができるのに」とか、「もっと賜物があれば、神様のためにいろんな事ができるのに」と思う方がいるかもしれません。
また、“捧げたものの大きさ”だけで愛を測られたら、お金持ちや多くの賜物を持った人の方が愛が大きいということになってしまうではないかと思うかもしれません。
しかし、そうではないのです。

話に出てきた女の子は、もしかしたら花束の大きさだけで愛の大きさを測ったかもしれませんが、神様はそうではありません。
神様が見るのは、送られた物の大きさではなく、わたし達の心なのです。

イエス様は、大金持ちが捧げる大金よりも、やもめが捧げたレプタ銅貨2枚の方が大きいと言いました。
旧約聖書では、ただ穀物を集めただけのカインの贈り物ではなく、羊の初子を心から捧げたアベルの贈り物を神様はいけにえとして受け取りました。
また、神様はどんなすばらしい全焼のいけにえよりも、わたし達が神様に従うことを喜ばれるとも聖書には書かれています。
神様は、わたし達が何を捧げるかではなく、捧げる心を受け取られるのです。

また、今あるものを捧げることを、神様は求められています。
タラントのたとえ話を覚えているでしょうか?
お金持ちが、あるしもべには5タラント、別のしもべには2タラント、そして三人目のしもべには1タラントを預けて旅に出ました。
主人が帰ってきたとき、5タラント預けられたしもべは、そのお金を10タラントにしまし、2タラント預けられたしもべは4タラントにして主人に返しました。
その時主人は、このように言ってしもべたちを褒めたのです。

マタイ 25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

わたし達が、今あるものに忠実になる事ができないなら、大きなものが与えられても忠実であることはできないでしょう。
しかし、小さなものに忠実であれば、もっと大きなものを任せられるようになるのです。

今自分が持っているものが大きいか小さいかではなく、役に立つかどうかではなく、それを捧げる時に、主はその心を喜ばれるのです。
冒頭で読んだ聖書箇所をもう一度見てみましょう。

ここにいたひとりの女性(マリヤだと言われています)は、香油を頭からイエス様に注ぎました。
香油というのは、高価な香水です。
彼女にとっては大切な財産でした。
それだけでなく、貧しい暮らしをしている彼女がこのような高価な香油を持っていたのは、彼女が売春婦だった事を表してもいます。

イエス様を前に、彼女は捧げる事ができるものを何も持っていませんでした。
自分は、本当は人前に出る事もはばかられるほどの穢れた存在。
しかし彼女はイエス様に、自分が今もっている最高のものを捧げました。
イスカリオテのユダが言うように、売ればかなりの大金になったでしょうから、献金という形で彼らの宣教を助ける事もできたでしょう。
しかし、彼女はその全てをイエス様に注いだのです。
それは恐らく、彼女がこれまでしてきた売春の仕事から足を洗うという事も意味していたのではないでしょうか。

イエス様は、一見無意味にも思えるような彼女の捧げ物を受け取りました。
そしてイエス様は、この事が人々に延べ伝えられるだろうと言われたのです。
わたし達が神様に捧げられるものは、わたし達の目には小さくてつまらないものかもしれません。
でも、わたし達が捧げる心をこそ、主は喜んで下さるのです。

③ 神様が捧げてくださったもの
しかし、わたし達が何を捧げるかという事よりも、もっと大切な事があります。
それがなければ、わたし達は何も捧げる事ができなかったでしょう。
それは、わたし達のために神様が何を捧げてくださったのかという事です。

神様は、わたし達のために何を捧げてくださったでしょうか?
神様はそう、わたし達のために、ひとり子を犠牲にして下さいました。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

払える犠牲の大きさによって、愛を測る事ができるという話をしました。
神様はわたし達のために、何と大きな犠牲を払ってくださったことでしょう。

親として、子供が苦しむのを見ることなんて耐えられない事です。
ましてや、他の人のために自分の子供を犠牲にするなんて事は、絶対にありえません。
神様がわたし達の罪のためにイエス様を地上に送られたこと。
イエス様がわたし達の罪を贖って十字架で死んでくださったこと。
そこには、神様がわたし達に向けられた愛がどれ程大きいものだったかという事があらわされています。
わたし達がこれまで、神様を無視し、敵対し、自分が神に成り代わろうとしていたにも関わらず、反逆するわたし達を、神様はひとり子を与えるほどに愛して下さったのです。

わたし達が神様のこの愛を豊かに味わい、実感するとき、わたし達はこの方のためにもっと多くのものを捧げたいと願うようになります。
しかし、その時わたし達は改めて思い知るのです。
神様が与えてくださったものに比べて、わたしが捧げる事ができるものは何と小さいのだろう。
大きさではなく、その心を喜んでくださると言うけど、神様の手となり足となるわたし達の力は、あまりにも小さい・・・。

男性だけで5000人もの人々がお腹をすかせている時、何が起こったのかを思い出して下さい。
彼らが持っていたのは、2匹の魚と5つのパンだけでした。
しかし少年が信仰をもってそれを捧げたとき、そこにいた人々はたった2匹の魚と、5つのパンだけでお腹がいっぱいになり、余り物で12のかごがいっぱいになりました。

神様の計画は時としてあまりにもスケールが大きく、わたし達が持っているものはあまりにも小さくて何もかも不可能のような気がします。
しかし、わたし達が2匹の魚と5つのパンを捧げるなら、神様がその不足を埋めてくださるのです。
わたし達が、信仰を持って、心を込めて何かを捧げるとき、主はそれを喜んで受け取り、主が御業をあらわして下さいます。

今わたし達が持つ最高の心を、神様に捧げましょう。

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