マタイ5:10-12 『義のために迫害されている者は幸いです』 2007/03/04 松田健太郎牧師

マタイ 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

さて、山上の説教というイエス様のメッセージの中の、幸いシリーズが今日でいよいよ終わります。
私たちクリスチャンに与えられている、色々な幸いがありましたね。

マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

そして今日は8つ目の幸い、義のために迫害されるものの幸いです。
これまでお話してきた7つの幸いの、どれひとつとして、私たちが生まれつき身につけている要素はなく、自分の努力だけで到達することは不可能なものばかりでした。
しかし今日は、その極め付けです。

みなさんは、迫害を受けたことがありますか?
迫害にも色々ありますし、少なくとも現代日本では、クリスチャンであるために命を奪われてしまうような大きな迫害は、そうそうないでしょうが、それでも迫害されるのは気持ちのいいことではありません。

それでもイエス様は言うのです。
「あなたは幸いです。喜びなさい。喜び、踊りなさい!」
今日はこの8つ目の幸いについて考えながら、神様の恵みを共に受け取っていきましょう。

① 義のために迫害される
みなさん、義のために迫害されるというときの、“義”とは何でしょうか?
義とは、正しいことという意味でしたね。
「正しいことのために迫害される人は幸いである。」確かに、この様な意味もあるのかもしれませんが、ここで言われている義の本当の意味は、別の言葉で言い換えた次の節に答えがあります。

マタイ 5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

イエス様のために迫害される。
イエス様の正しさのためにののしられたり、迫害されたり、悪口を言われる。
あなたがたが、クリスチャンであるがために迫害されるとき、あなたがた幸いです。

気をつけなければならないのは、この箇所を曲解して、迫害を受けていなければ本当の信仰ではないという考え方にはまってしまうことです。
特に目立った迫害を受けない環境にいるということも十分にありうることですし、信仰と関係のない部分や、自分の不注意から迫害を受けてしまう事だってあります。
自分がとった失礼な態度や、不必要なところでのこだわりが迫害を生むのなら、その責任は自分自身にあるのであって、イエス様の義のために迫害を受けているとはとても言えません。

イエス様の一番弟子、ペテロは手紙の中でこの様に言っています。

Iペテロ 3:13 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
3:17 もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。

私たちがクリスチャンになるということは、キリストの愛の中に生きということです。
私たちの心が変えられて、人を愛し、正しいことのために生きようとするなら、どうして人々が危害を加えることなどがあるでしょう。
しかし、それでもなお、私たちには妥協してはいけない時がるのです。
私たちは時に、自分の信仰を問われ、旗色をはっきりさせ、真理のために立ち上がらなければならない時があります。
私たちは十分に注意していても、それでも迫害を経験することがあるのです。
私たちの信仰生活は必ずしも平坦で、喜びだけしかないわけではありません。
私たちは迫害や反対を受ける心備えをして、覚悟を決めておかなければなりません。

② 迫害の理由
過去を振り返って見てみれば、キリスト教の歴史は、迫害の歴史です。
これまでクリスチャンは、いく度とない迫害を経験してきました。
日本でも、江戸時代の迫害は恐ろしいものがありますし、世界大戦中もひどいものだったそうです。
しかし、迫害というのはそのような特別なときにだけ起こるものではなく、いま私たちの身の周りにも起こりえることでしょう。

私たちは、クリスチャンとして生きる中で、何らかの迫害を受けることがあります。
クリスチャンとして洗礼を受けてしまったばかりに、会社の同僚や友人に陰口を言われたり、家族の反対を受けている方は、この中にもいらっしゃるでしょう。
僕の友人にも、クリスチャンになったために親から勘当されたという人がいます。

私たちは、誰よりもイエス様ご自身が、ひどい迫害の中で生きられたということを忘れてはなりません。
イエス様ほど愛と優しさにあふれ、善を追求し続けることができた人はいません。
それでもなお、いやだからこそ、人々はイエス様を迫害し、十字架にかけて殺したのです。
ならば、イエス様に連なる私たちが、同じような迫害を受けても不思議はありません。

どうして人々は、義なるもの、正しいもの、善なるものを排除し、迫害しようとするのでしょうか?
表面的な理由としては色々あげることができるでしょうが、本質的には、そこに二つの理由があるだろうと思います。

ひとつは、キリストの義が人々の悪を照らし出してしまうからです。

ヨハネ 7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。

自分の中の罪を、誰も認めたくはありません。
だから、「あなたは罪びとです。」と断言するイエス様の言葉を、なかなか認められない。
認めたくないのです。
聖書への否定、キリストへの否定、真実への否定が、それに属する私たちへの迫害に結びついています。

もうひとつは、人々が愛を信じることができないからです。
私たちは、心の奥底ではずっと愛されることを求め、飢え渇きを感じていながら、これまでの人生ではことごとく裏切られてきました。
信じているのに裏切られるほど傷つくことはありません。
だからもう、絶対の愛なんて信じたくはないのです。
そんなものは存在しない。神など否定してしまった方が、こういう人達には楽なのです。
そして神の存在を信じ、絶対の愛の中にいる人々を自分自身と投影させて、許せないと感じてしまうのです。

こういう人たちの迫害は、罪や、心の傷に由来しているものですから、時として異常なほどに激しくなることがあります。
この様な迫害を家族から受けるのは、本当に辛い事でしょう。

しかし、それが私たちクリスチャンの身に起こることです。
私たちが、どっちつかずで、はっきりしない信仰を持って、周りの人たちの顔色を伺いながら信仰生活を送っているなら、義のために迫害を受ける様なことはないでしょう。
しかし、私たちが主イエス・キリストの旗をふり、キリストに似たものとなる信仰を持つならば、いつか必ずこの様な迫害を受けることになるのです。

イエス様はこう言っています。

ヨハネ 15:18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
15:19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

何事もなく、平和でいることができたらどれだけよいでしょうか?
しかし、悪魔の支配を受けているこの世界において、キリストの義が明らかにされるとき、必ずそこに分裂が起こり、迫害が起こってしまうのです。

ルカ 12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」

③ 迫害の中で喜ぶ
私たちは誰も、迫害を受けるから嬉しいなどということはできません。
迫害を受けたからよかった、迫害を受けていないなら、一人前の信仰者ではないなどということができるはずがありません。

私たちの教会には、このような御言葉が額縁に入れて飾られていますね。

Iテサロニケ 5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

これは「どんなに苦しくても、悲しくても、痛くても、クリスチャンたるものはいつでもニコニコして喜んでいなければならない。むしろ神様から与えられている痛みや苦しみを喜びなさい。」と、そのような意味ではありません。

私たちは、どんな苦しい時も、どんなに悲しい時も、どんなに痛いときでも、全てを益とすることができる力を持った、神様が私たちと共にいてくださる。
だからどんな時でも、私たちが主に信頼し、そこに主の栄光が現されることを願って、全てを委ねるなら、私たちはもう何も心配する必要はありません。
だからこそ、私たちはどんな状況においても感謝し、キリスト・イエスにあって喜んでいることができるということです。

それは、私たちがひどい迫害の中にあるときでさえ、同じです。
今私たちが経験している痛み、苦しみ、これを喜ぶことなんて私たちにはできない。
しかし迫害の中にあってもなお、私たちは主に感謝し、幸いだと言う事ができます。
なぜなら、私たちには天の御国が与えられているからです。

私たちの宝は、地上にはありません。
それは、決して地上では幸せになってはならないとか、可能な限り貧しく生きなければならないということではありませんが、私たちがもっとも大切にし、喜びを持って受け取ることができるものは地上にはなく、天国にこそあるということです。

例え地上においての私たちの生涯が苦しみにあふれ、涙が枯れる事のないようなものであったとしても、私たちの報いは、天の御国において永遠の命の中にあります。
しかし、今を喜び、楽しんでいる人たちの中には、私たちとは逆に永遠の苦しみの中に入らなければならない人たちがいます。
彼らが受けなければならない報いの重さを考えるなら、迫害者を憎んだり、復讐を考えるよりもむしろ、私たちが哀れみ、祈るべき対象となっていくのです。

イエス様と似たものとなったゆえに迫害されている人は幸いです。
喜びましょう。喜びおどりましょう。
真の幸せは永遠の命の中にこそあり、私たちはすでにそれを手にしているからです。
預言者やキリストの弟子たちが経験した迫害を私たちも経験しているなら、
神様は間違いなく、私たちにも報いてくださるからです。

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