マタイ9:9-13 『マタイの召命』 2009/02/22 松田健太郎牧師

マタイ9:9~13
9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

クリスチャンにもいろいろなタイプの人がいます。
最近はそうでもありませんが、一昔前の日本のクリスチャンは、どうも気難しいタイプの方が多かったようです。
教会のジョークとして、こんな話があります。

ある教会が牧師を招聘しました。
教会の青年が駅までその牧師を迎えに行ったのだけれど、誰も新しい牧師の顔を知らない。
それなのにその青年は、たくさん降りてくる乗客の中から一発で牧師を当てたんです。
「わたしが牧師だとよくわかりましたね。」と驚く牧師にひと言、
「一番顔色が悪くて、眉間のしわが深い人を選んで声をかけたんです。」

色んなタイプの方がいるのはいいと思うのですが、これが典型的なクリスチャン像とうのでは、何だか残念な気がしてしまいます。
さて一方で、それとは逆に明るくて、喜びに満ちていて、いつでもイエス様の事を人に伝えないではいられないというタイプのクリスチャンの人たちもいます。
こんな人達が典型的なクリスチャンと呼ばれるようになるといいんですよね。

ところがそういう人たちは、最初からそういうタイプの人だったとは限らないんですね。
イエス様と出会ったときに、変えられたという人が少なくはありません。
今日のメッセージの中心となっているマタイも、イエス様との出会いによって変えられた人のひとりです。
彼は最終的に、4つある福音書のひとつの著者となるほどまでに、イエス様の事を話したくて仕方のない人間になったのでした。

マタイの身に、一体何が起こったのでしょうか?

① マタイの召し
マタイという人は、もともと取税人だったと聖書には書かれています。
取税人というのは税金を集める人たちですが、この当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、ローマ帝国のために税金を集める人々のことですね。
彼らは、ローマ帝国の手先となった売国奴とみなされていました。
事実、本当に必要な税金よりも多く徴収して、差額を自分のものとして私腹を満たすような人たちも多かったようです。
さらに、彼らはローマ帝国の権力をかさに着て、冷酷非道に税金を取り立てていたのです。
映画『マリヤ』の中で取税人の様子が描かれていますから、少し映像で観てみましょう。

“映画『マリヤ』より1シーン。取税人が人々から搾取する様子。”

その頃のユダヤ人たちが、取税人をどの様に見ていたか理解できるのではないでしょうか。
誰もが、あんなヤツは地獄に落ちた方がましだと思うような、そんな連中だったのです。
マタイもまた、そんな取税人のひとりでした。
さて、そんなヤツにイエス様は目を留めました。
そして「わたしについて来なさい。」と、シモン・ペテロたちに声をかけたように、取税人マタイにも声をかけたのです。

何か不思議なものを感じませんか?
イエス様は、どうしてこんな取税人、冷酷非道な守銭奴を弟子にしたのでしょうか?
それは、イエス様がマタイの心を見ていたからだと思うのです。

この時彼はガリラヤ湖畔のカペナウムという町の収税所で税金を徴収していたのです。
カペナウムの収税所は、ガリラヤ湖で商売をしている船や、この町を通過する人々から徴税するわけですから、彼らは取税人の中でももっとも嫌われていたと言われています。
そんな中でマタイは仕事をしていました。

しかし、長年そのような仕事をしている中で、おそらくマタイは虚しさを感じていたのではないでしょうか。
この仕事をしていれば、確かに裕福にはなる。
しかし友もなく、家族からも嫌われて孤独ばかりが増していく。
暮らしばかりが豊かになっていく一方で、彼の心はどんどん渇いていきました。
そんな時、彼の前にイエス様が現れたのです。
そしてイエス様は、こんな自分に「わたしと一緒に来なさい。」と言ったのです。
マタイは全てを投げ出して、イエス様の弟子となりました。
漁師などと違って、取税人はローマ帝国に雇われているわけですから、一度辞めてしまえばそう簡単に復職できるものではありません。
彼は正に、全てを捨てる覚悟をもってイエス様の弟子となったのでした。

マタイは、良い人間だったからイエス様の弟子として声をかけられたわけではありません。
マタイは元々自らの思いで取税人になったはずですし、取税人として人に顔向けできないような事をしてきた事も事実です。
しかし、そんな罪人をも決して見捨てることなく、イエス様は愛してくださるのです。
とは言え、この仕事に就いていた全ての人がイエス様に声をかけられて、弟子となったわけではありません。
そこには、自分の罪を認めてそこから離れたいと思う、悔い改めの精神が働いていました。
そしてわたし達が悔い改める所に、イエス様が必ず来てくださるのです。
それは、先週も読んだこの聖書箇所に書かれている通りです。

Iヨハネ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

② マタイの招き
彼のように、人生がまったくひっくり返ってイエス様に仕えるようになる人たちは現代にもいます。
皆さんも、ミッション・バラバと呼ばれている人たちの事は聞いたことがあるかもしれません。
彼らは、元ヤクザのクリスチャンたちの集まりです。
僕はその中の吉田芳幸さんという方とお会いした事があります。
彼は、有名なヤクザ映画『仁義なき戦い』や『極道の妻たち』のモデルとなった有名なヤクザの親分でした。
そんな彼が、もう一度映画のモチーフとなる機会がありました。
それが、『親分はイエス様』という映画です。
彼の人生は完全に変わり、彼はいま喜びに満ちてイエス様を伝える人になっています。

また、アイルランドの元IRAテロリストだったヒュー・ブラウンという人がいます。
彼はいま、日本で牧師となって、福音を人々に伝える人となっています。

それまで悪の道に生きていた彼らを、何がそんなに変えるのでしょうか?
どうして、それ程までに大きな転進が可能なのでしょうか?
それは、この言葉に尽きると思います。

ルカ 7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。

自分の罪がよくわかっているからこそ、その罪が赦されたことの喜びは大きいのです。
そして、喜びが大きいからこそ、神様への愛もより大きなものになるのです。
マタイは、自分の経験を通してその事をよく理解していました。
そこでマタイは、さっそく仲間の取税人や罪人たちを、イエス様との食事に招いたのです。

9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

しかし、その食事の場にはパリサイ派の人たちも共にいました。
そしてパリサイ派の人々はイエス様が罪人たちや汚れた人々と共に食事をしているのを見て驚いたのです。
罪人と共に食事をするなんて、自分もその仲間であり、汚れた人間だという事を認めるようなものだったからです。

③ 罪人を招くために
それを聞いたイエス様は、このように言いました。

9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

自分が丈夫で病気などないと思っている人は、医者のところには行きません。
以前、自分は秘密の国家機関から命を狙われているという方と話をした事がありました。
その方は統合失調症で、その経験は彼女の妄想でしかないのですが、自分が病気であるという自覚がないので病院に行こうとせず、ムリに連れて行こうとすると「お前たちもわたしを殺そうとしているんだろう。」と騒ぎ始めて大変だったそうです。
そういった幻覚や妄想は、薬さえ飲んでいればずっと楽になるのに、自分が病気だと認めることが出来ない限り、断固として医者には行こうとしないのです。

わたし達の中にも罪があり、罪がわたし達を苦しめています。
しかし、イエス様の元に行けば全ての罪が赦されるとどれだけ聞かされても、わたし達が自分は罪人だという事を認めない限りは絶対にイエス様の元に行こうとはしないのではないでしょうか?

パリサイ派の人々は、自分を高め、正しい行いをしていると信じている人たちでした。
しかしその行いは表面的な行いでしかありません。
どれだけ宗教的な教えを守り、規律に従っていても、彼らの本質が変わっているわけでは全くありません。
そんなパリサイ派の人々に、イエス様はこのように言いました。

9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

旧約聖書には、宗教的に守るべきこととして生贄をささげる儀式のことが数多く書かれています。
しかし、それは自分にとって大切なものを神様に捧げるという気持ちの方が大切なのであって、いけにえそのものではありません。
形ばかりどれだけ素晴らしくても、中身が伴わなければ何の意味もないのです。

これはわたし達にも言えることです。
わたし達がどれだけ人に見せる表面的にはクリスチャンらしい生活をしていても、あるいは形式的には洗礼を受けていたとしても、だからと言って神様に喜ばれるわけではありません。
神様はむしろ、その様な形だけのものは好まれないのです。

イエス様は言われました。
「わたしは(自分が)正しい(と思っている)人を招くためではなく、(自分が)罪人(だと認める人)を招くために来たのです。」
それは、自分が正しいと思っている人は決して神様を見上げる事をしないからです。

イエス様は、罪人の友となるためにわたし達の元にいらっしゃいました。
それは、無事な99匹の羊たちを牧場にふさせておいて、迷子になった1匹の羊を探すように、わたし達の元へと来て下さったのです。

自分を罪人だと認めた人は、そこから恵として受け取る赦しの大きさもひとしおなので、喜んで主の下に行き、主に従う者となります。
マタイがかつてそうだったように、罪人の頭だったパウロが変えられたように、元ヤクザや、テロリストだった人達が牧師となったように。

わたし達はどうでしょうか?
主に罪を赦され、主と共に生きる復活の人生を喜びをもって迎えられているでしょうか?
クリスチャンであるという事に喜びがあまり感じられないなら、もしかしたらわたし達は、自分を正しいものだと思っているからかもしれません。
神様がわたし達に恵を与え、わたし達を祝福するのは当然だと思っているのかもしれません。
わたし達は罪人です。
そんなわたし達を神様は愛し、わたし達を救うためにいのちを捨てられたのです。
皆さんが、その喜びをもっともっと味わう事ができますように。

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