ヨハネ16:16-24 『もう一度主に会う時』 2005/10/23

ヨハネによる福音書16:16~24
16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
16:17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」
16:18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。
16:19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
16:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

いよいよ、主が十字架に架けられる時が迫っていました。
あと何時間もすれば、ローマ兵達がやってきて、イエス様を捕らえ去ってしまいます。
イエス様はその時が迫っている事を知っていましたが、弟子達にはそのような事が迫っているなどとはとても信じられませんでした。
だからイエス様がなぜこの様な事を言うのか理解できなかったのです。
もう一度、そのイエス様の言葉を見てみましょう。

16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

私達は当事者ではなく、後の時代からこの出来事を見ていますから、イエス様が言おうとしていた事の意味が少しはわかります。
イエス様がここで、 「もはやわたしを見なくなる。」と言ったのは、これからイエス様が捕らえられ、十字架にかけられ、墓に葬られるということを言っているのでしょう。
ですがその後、「しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」と言っているのは、いつの事を話しているのかという解釈に関して、学者の間では意見が分かれています。
ここでどの学者の意見が正しいのかという事を論ずるのは、あまり意味がありません。
イエス様の話されることは、必ずしもひとつの意味とは限らず、多重構造ですから、その全てを意味しているとしても間違いではないだろうと思います。
そこで今日は、イエス様と再会する3つの時をそれぞれのポイントから一緒に考えていきたいと思います。

① 復活
まずひとつ目は、イエス様が3日後に復活したときの再会です。

皆さん想像して見てください。
弟子達にとって、イエス様は希望だったのです。
これまでの人生、漁師でしかなかった彼ら、娼婦だった彼ら、取税人だった彼ら、人々からは忌み嫌われ、さげすまれ、馬鹿にされ、自分が人に認められる存在だとはとても思えなかった彼らに、メシヤが声をかけて下さったんです。
「わたしについて来なさい。」というその声に従って、それまで持っていたものをすべて投げ捨てて、彼らはイエス様についてきました。
さあ、これからイエス様が王の中の王としてこのユダヤを治め、ローマ帝国を滅ぼすのだと思っていた矢先に、イエス様は十字架にかけられて死んでしまった。
我々がこれまで信じてきたものは何だったんだ?
メシヤが直々に選んで声をかけてくれるなんて、自分もそれほど捨てたものではないと思っていたのは、幻に過ぎなかったのか。
自分が命を賭ける事ができると信じていたキリストとは、インチキでしかなかったのか?
そのような絶望に暮れていた時、イエス様が復活したのです。
彼らは誤解していました。
死が終わりではなかった。
絶望と思っていたものが、希望の始まりだった。
そのような喜びを、弟子達はイエス様の復活を通して経験したでしょう。

わたし達にも同じ事が言えます。
私達は苦難にあうとき、そこに神様の奇跡を見ることができない時、それで終わりだとあきらめてしまうようなことはないでしょうか。
神様を信じているのに、クリスチャンなのになぜこの様な目にあわなければならないのかと、信仰を失ってしまうようなことはないでしょうか。
それで終わりではありません。
今のときは、これから来る喜びのための産みの苦しみでしかありません。

16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

わたしたちが、もう一度イエス様に会うときが来ます。
全てが逆転し、これまでの苦しみを思い出す事もない時がもうすぐ来ます。
その時には、私たちの心は喜びに満たされるのです。
弟子達は、イエス様が蘇るまでの3日間を待たなければなりませんでした。
それは、死んだ人間が生きをふき返すには絶望的な時間の経過でした。
わたし達も、全ての可能性が絶たれるまで、主の御業を見ることはないかもしれません。
その時が来るまで、私達は主を信頼し、待とうではありませんか。

② ペンテコステ
ふたつ目にあげられるのは、ペンテコステのときの聖霊としての再会です。

イエス様はこの章の7節でこの様な事を言っています。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

イエス様が私たちの元を去ってしまう事が、どうしてわたし達にとって益となるなどと言うのでしょうか?
それは、イエス様が去り、わたし達に聖霊が与えられた時から、主とわたし達との新しい関係が始まるからです。
イエス様がいらっしゃる時には、人々はイエス様に直接たずね、聞き、お願いすることができました。しかし、イエス様はひとりしかいませんから、百万人の人たちが一斉に話し掛けても、それに答えることができません。
聖霊は、信仰を持つわたし達ひとりひとりと共にいて下さいます。
現在世界に20億人のクリスチャンがいると言われますが、たとえ20億人のクリスチャンが一斉に祈ったとしても、神様は聖霊によって、わたし達ひとりひとりの祈りを聞き、それに答えることが出来るのです。
イエス様であれば、イエス様と会っている時は嬉しくても、イエス様の離れてしまっている時は信仰を失ってしまうかもしれません。
しかし、聖霊は私たちを離れることなく、いつも一緒にいて下さるのです。
だからわたし達は、いつでも喜びの中にいることができます。

私達は、今の状況にしがみ付いてはいけません。
わたし達が今手にしているものは素晴らしいものかもしれない。
それは、神様からの大きな祝福に見えるでしょう。
きっと、それはその通りです。
健康や、財産や、家族や、仕事を持っていて当然のようにわたし達は思っています。
あるいは、今の生活スタイル、人々から注目される喜び、豊かな知恵や知識が与えられていることを、神様に感謝しているかもしれません。
でもやがて、それらを失う時が来ます。
その時神様は、私たちを離れてしまうように感じるかもしれません。
だが、そうではない。
それらを失う時に、新たな祝福が始まろうとしているのだと言う事を覚えていて下さい。

断言しますが、私達は失う時、感謝する事なんてできません。
その痛みや苦しみを喜ぶ事なんてできないでしょう。
でも、神様が決して、あなたから離れたのではないことを、どうか覚えていて下さい。
そのような苦しみの中でも、わたし達が天にいる主を見上げ、信頼する時、神様との新しい関係がそこから始まるのです。
そのような新しくされた関係こそが、イエス様と再び出会うということの2つめの意味です。

③ 再臨
最後は、主が再び地上に来られる時の再会です。
私達は、それを主の再臨と呼びます。
それはこの世界の終わりの時に、イエス様がかつて地上にいた時と同じ姿で、再び私たちの元に現れる時です。
その時には、わたし達もイエス様に似たものとして、復活させられます。
姿かたちが似るということではありません。人格が同じになって、個性がなくなってしまうということでもありません。
わたし達がわたし達自身の個性を持ったまま、すべての傷、病、罪が取り除かれた状態で復活するということ。それが、イエス様に似た姿として蘇るということです。
罪が完全に取り除かれた自分を想像する事ができるでしょうか?
今、私たちが神様の存在を見ることも感じることもできないのは、罪のためです。
聖書の御言葉を完全に理解する事ができないのは、罪が邪魔をしているからです。
自分自身や、隣人を愛する事ができないのも、私たちの中にある罪のためです。
わたし達が復活する時には、今私たちが抱いている疑問や不満が、本当に馬鹿馬鹿しいものだと思う事でしょう。
わたし達が、再臨のイエス様と再び出会う時には、そのような想像を絶する喜びに満たされ、もう誰もそれを奪い去る事はできないと、イエス様は約束してくれたのです。

ここでイエス様が意味しているのが、どの再会の事であったとしても、わたし達にとって3つの再会があるということに変わりはありません。
そして、わたし達がもう一度主に会う時には、大きな喜びに満たされるということなのです。
最後に、16章の23、24節を一緒に読んで見ましょう。

16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

イエス様ともう一度会うということは、私たちが今イエス様と出会い、知っているということです。皆さんはイエス様と出会われたでしょうか?
まだ出会っていないのなら、あるいは出会ったという確信を持っていないのなら、それは今まで求めた事がないからです。
イエス様の名によってわたし達が求めるなら、わたし達は救いを受けます。
求めるなら、わたし達はイエス様と出会うことができるのです。
求めて下さい。そうすれば受けるのです。
それは、私たちの喜びが、満ち満ちたものとなるためです。

祈りましょう。

ハレルヤ、主よ!
あなたの御名を崇めます。
理屈ではなく、知識ではなく、教義や、教理ではなく、今、生きておられる主イエス様と出会う、経験を通した信仰を、どうかわたし達に与えて下さい。
今日ここに、まだあなたとの出会いを経験した事がない方がいらっしゃるなら、主よどうか、あなたと出会い、個人的な交わりの中に入ることができますように。
また、クリスチャンではあっても、まだ確信を持つことができていない方がいらっしゃるのであれば、まさに実体験を持って真実を知ることが出来るように導いて下さい。
やがてわたし達が、あなたを見失う時、もう一度主に会う時を信じ、期待して、待ち望む事ができるように私たちひとりひとりを強めて下さい。
絶望が希望に、嘆きが踊りに変わるその時まで、わたし達があなたとの再会を待ち望んでいることができましように。
崇めます、主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン。

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