ルカ10:25-37 『 たとえ話5~愛の宝を天に積む 』 2010/06/13 松田健太郎牧師

ルカ10:25~37
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

先日、このような話を聞きました。
アメリカのある大手ラジオ局が、毎朝“今日の教訓”という番組を流しているそうです。
いつもと言うわけではありませんが、時にはその番組の中で、聖書について取り上げられる事もあります。
ある朝、リチャード・エバンズという語り手のこのような言葉が述べられました。
「父親たちよ、子供たちを怒らせてはなりません。主にあって教育し、諭しながら育てるのです。それが子供たちの重荷となってはいけません。父親である自分の益になるようにではなく、子供たちの益になるように育てなさい。」
「今日職場に着いたら、主に仕えるように上司に仕えなさい。自分のために働くのではなく、主に仕えるように働くのです。自分の利益ばかり求めてはいけません。」

聴いていた多くのクリスチャンが「アーメン!その通りだ!」とうなずいた事でしょう。
しかし、このリチャード・エバンズには大きな問題がありました。
それは、リチャード・エバンズはクリスチャンではなかったという事です。
この人は、あるカルト集団のリーダーだったのです。

聖書は、クリスチャンでなくても読む事ができます。
そして時には、クリスチャンでなくても聖書から良い話をする事ができます。
しかし、誰もが聖書を正しく読み、解釈するのではないのです。

どうしてたとえで話をするのかと聞いた弟子たちの言葉に、イエス様はこのように答えています。

マタイ 13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

聖霊によってたとえを理解した時、その言葉は良い地に蒔かれた種のように、わたし達の内で30倍、60倍、100倍へと成長してわたし達の心を満たします。
「あ~。やっぱり聖書は、ちゃんと勉強している牧師でないとわからないものなんだ。」という事ではなく、わたし達ひとりひとりが、福音的な聖書理解を個人的にする事ができるように。
僕のメッセージが、皆さんにそのヒントを提供できるものであれば嬉しいなと思います。

① 良きサマリヤ人のように愛する
あるイスラエル人がエルサレムからエリコに向かう途中で強盗にあいました。
そこに、宗教的にえらい祭司が通りかかりました。
しかし祭司は、この人に触れる事もなくその場を去って行きました。
同じように、聖なる人たちとして知られるレビ人もその場を通りましたが、同じように触ろうともせず去って行きました。

そこに、汚れた存在として知られるサマリヤ人が現れ、その人を助けました。
サマリヤ人は彼を治療し、解放し、自分の泊っていた宿へ連れて行きました。
サマリヤ人は次の日、旅立つ前に宿屋の主人に2万円を渡し、これでしばらくこの人の面倒を見てやって下さいと頼みました。
そして、費用がもっと必要だったら、帰りに不足分を払いますと言ったのです。

この話は、“良きサマリヤ人”としてよく知られている話です。
そして、「わたしたちもこの良いサマリヤ人のように、愛する人になりましょう・・・。」と教えられる事が多いのです。
特に子供の話のときには、そのような話のテーマとなりがちな話です。
しかし、イエス様は本当にそのような話をしたかったのでしょうか?
本当に、“良きサマリヤ人のようにになりなさい。”というのがこのたとえ話のテーマなんでしょうか?

② このサマリヤ人のように愛する事はできない
先週もこんな話をしましたが、たとえ話を理解するためには、その話が誰に話されているのかというバックグラウンドが大切です。
このたとえ話は、イエス様と律法学者の話の中から出てきた言葉だという事を、わたし達は思い出す必要があります。

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

ここだけ取れば、イエス様は神様と隣人を愛するならば永遠のいのちを得られるという話をしているようにも聞こえます。
でも、そんなはずはありませんよね。
人が律法に従って生きる事ができるなら、イエス様が十字架にかかる必要はなかったはずです。
イエス様が言おうとしているポイントは、「神を愛し、隣人を愛する事は律法の根本である事は間違いがない。しかし、それは実行できるものではない。」という事です。
イエス様が「それを実行しなさい」と言ったのは、この人が律法に従う事が出来ない事を前提に、「できるものならやってみなさい。 」と言ったのです。

そうすると、このサマリヤ人の話は「この人のようになりなさい。」という話をしているのではない事がわかるはずですね。
このサマリヤ人は“ありえない話”なのです。
先週も、イエス様はあえて“ありえない話”をしてそこにポイントを置くという話をしました。
まさにここは、聴いている人たちが「それはないでしょう!」とか、「ありえな~い。」と突っ込みを入れたところなのです。

わたし達は、それを読み違えて、“このサマリヤ人のようになりなさい。”とモラルの話をしてしまいがちなのです。
考えてみれば、イエス様が絶対になれない例として出している人のようになりなさいというのは、かなりムチャな話ですよね。

このように、聖書の話はモラル的な話として理解される事が多いのです。
では、モラルの何がいけないのでしょう?
いえ、別に何も悪い事はありません。
聖書からモラルを語っても、別に間違いではないのです。
ただわたし達が忘れてはならないのは、モラルというのは律法だという事です。

イエス様は、律法を廃止するために来たのではなく、完成するために来たと言いました。
律法には何の間違いもありません。
間違いがあるのは、罪があるのは、わたし達の方なのです。

わたし達は罪があるので、律法に従う事をどれだけ厳しく命じられても、それを全うする事ができません。
だから、自分たちにできもしない律法を押し付けるパリサイ派の人々や律法学者のことを、イエス様はいつでも怒っていたのです。
それは、律法主義の世界なのです。

わたし達が聖書から話をして、「この良いサマリヤ人のようになりましょう。」という所で終わるなら、それもまた律法主義の世界です。
「このように人を愛する事は正しい。
でも、できないのが人間なのだ。
だから正しい事ができないあなた達は、神様の救いを必要としている。
あなたにも、贖われなければならない罪があります。
自分は大丈夫だと思っているあなたも、神様が補わなければならない大きな穴があるのです。
だから私はあなたのために、十字架であなたの身代わりになるのです。」
それが、福音の世界であり、イエス様がこのたとえ話の中で言いたかった事です。

③ キリストの愛がわたし達を変える
さて、その福音をわたし達が心から受け取った時、わたし達の心の中に変化が起こり始めます。
わたし達の中に愛の宝が積まれた時、わたし達の内に神様の愛が満ちた時、わたし達が自分の王座を退いてイエス様を主として生き始めた時、わたし達が心の重荷を置いて、イエス様のくびきを負い始めた時、わしたちの心の中に愛が生まれ始めるのです。
ムリだったはずの良きサマリヤ人が、神様の愛を受けた時、現実のものへと変わっていくのです。

Iヨハネ 3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

天に宝を積むという事、それはわたし達が、神様の愛を心から理解する事です。
わたし達が行いによって、報酬として愛を勝ち取ろうとするのを止め、神様の愛を大きさをより多く理解して受け止める時、わたし達は隣人を愛するための力を得る事ができるのです。

どうか、神様の愛を思って下さい。
天のお父様は、わたし達を本当に愛して下さっています。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

Iコリント 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。

Iヨハネ 4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

皆さんとともに、イエス様がいます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です