使徒2:1-11 『 使徒②~聖霊が臨まれる時 』 2012/04/22 松田健太郎牧師

使徒 2:1~11
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

今日は五旬祭(ペンテコステ)の話です。
今年のペンテコステは5月27日ですね。
本当はその日にこの話をする事ができればよかったのかもしれません。
今日も先週に引き続いて、聖霊の事を中心にしてお話ししていくことになるんです。

使徒の働きについてお話ししていく上で、聖霊について語る事は避ける事ができません。
少しお勉強的なお話しで退屈かもしれませんし、皆さんがすでにご存じの話も多いかもしれませんが、聖霊の事について初めて聞くという人もいますのでお話しする必要があると思います。
また、僕がここでお話しするのとは違う意見の方もいらっしゃると思います。
聖霊については、まだわたし達の認識が追い付いていない所もあって、神学によってさまざまな立場で捕えられています。
どれが正しいのかという事に関しては、僕自身もまだはっきりと結論が出せないでいますが、聖書はどのように言っているかという事を、なるべく公正にお話ししていければと思っています。
では早速、一緒に考えていきましょう。

① ペンテコステ
聖霊の注ぎは、ペンテコステの日に与えられました。
ペンテコステというのは過ぎ越しの祭りから50日後にある、収穫のお祭り何です。
イエス様が十字架に架けられてから次のペンテコステの日、突然天から激しい風が起り、集まっていた弟子たちの頭上に炎のような舌が現れました。

炎のような舌ってどんなものなのでしょうね?
それは、かつて契約の箱の上が輝いていたような、神様の臨在のようなものだったかもしれません。
イエス様が洗礼を受けた時に、聖霊が鳩の形でイエス様の元に臨んだように、この時聖霊は、炎のような舌として弟子たちの頭上に現れました。
そして、そこにいた弟子たちは外国語で福音を語り始め、多くの人達がそれを聞きました。
外国から訪れていた人々は、エルサレムでユダヤ人達が自分たちの国の言葉を話しているのを聞いて驚きました。
また、その言葉を理解しない人達は、彼らが朝から酔っ払ってしまっているように見えたと書かれています。

この時、イエス様が天に上る前に弟子たちに伝えていた、聖霊のバプテスマが起り、イエス様への信仰をもつ人々の上に聖霊が注がれたのです。
これを体験した全ての弟子たちも、自分達の身に何が起っているのかという事を聖霊によって理解する事ができました。
ペテロは人々にこの様に説明しています。

使徒 2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

ここで、少し聖霊のバプテスマという言葉についてお話ししておきたいと思います。
聖霊のバプテスマというのは、聖霊がわたし達に与えられ、わたし達の内に住んで下さる事を意味していると僕は考えています。(違う考えをしている方もいると思いますが)

ペンテコステの日に聖霊のバプテスマが与えられるまでは、人々は旧約時代の人達と同じように、聖霊が内にはいない状態で信仰をもっていたのです。
だからそれまでの弟子たちは、使徒たちでさえ、イエス様の事がよくわかっていませんでした。
でも、ノンクリスチャンの人にも聖霊の働きが起り、導きがあるように、ペンテコステ以前のイエス様の弟子たちも聖霊の助けを受ける事がたびたびありました。
しかし、本質的には聖霊を通して神様の声を聞く事はできないので、その信仰にも一貫性がなかったんですね。

実は、ペンテコステが起る数日前、弟子たちはユダが死んで抜けたポジションを埋めるため、マッテヤという人を新しい12番目の使徒として任命しています。
その時彼らは、くじ引きによってマッテヤを選びました。
「そんな大切なポジションを選ぶのに、くじ引き!?」とわたし達は感じます。
しかしこれは、自分達の意思ではなく、神様の御心が現れるようにとモーセの時代から行われていた正当な方法なのです。
現代の教会では、例えば役員を選ぶためにくじ引きでは選びませんよね。
それは、わたし達には聖霊が与えられているからなのです。
何かを決める時、わたし達は神様に直接訊ね、聖霊によって導きを受けて答えを得る事ができます。
ですから、聖霊を与えられるという事そのものが大きな出来事なのです。

② 聖霊の満たし
しかし、このペンテコステの日には、ただ聖霊が与えられただけというのではない、奇蹟的な出来事が伴いました。
この時には、聖霊が注がれた人々が、習った事のない言葉を話し始め、それを聞いていた人達が自分たちの生まれ故郷の言葉として理解し、心を動かされたという事です。
しかし、わたし達がクリスチャンになって聖霊が注がれた時、全ての人がこのような奇蹟的な出来事を経験するわけではありませんよね。
これは何なのかと言えば、これは“聖霊の満たし”と呼ばれるものなのです。

わたし達の内側に主を招き入れ、聖霊が内に住んで下さるという状態は、言ってみればガス栓に種火が灯されたというような状態です。
あるいは、自動車のイグニッションキーが回されて、エンジンがかけられたような状態と考えてみたらいかがでしょう。
それは、火がなかった時とは明らかに違いますが、それによって水は温かくなりませんし、車はアイドリング状態で、少しずつしか前に進みません。

しかしわたし達が聖霊に満たされるなら、ガスの栓がひねられ、力強く燃え上がり、水を沸かしてお湯にする事も出来るようになります。
あるいはアクセルが踏まれ、車が早く走る事ができるのです。

このペンテコステの日、聖霊のバプテスマによって聖霊が人々に与えられました。
そしてそれとともに、聖霊の満たしが同時に起ったのです。
多くの場合、わたし達は聖霊を受ける経験と、聖霊の満たしとを別々に体験するでしょう。

最初に聖霊を受けた時には、その事を実感しないという事も珍しくはありません。
僕自身、いつから聖霊がいて下さるのかという事がはっきりとはわかりません。
しかし、聖霊に満たされる時は違います。
その時は、わたし達を通して神様が働いて下さっているのを実感する事ができるのです。


この時、聖霊の満たしによって起った聖霊の働きとは何でしょう?
異言、弟子たちが外国の言葉で話し始めたという事でしょうか?
それも、確かにそうでしょう。
そして、それが素晴らしい事である事に間違いはありません。
でも、それよりもっと重要な聖霊の働きがあります。
それは、むしろそれを聞いていた人達に起った変化ではないかと思います。

そこでどのような事が起ったにしても、その驚くような奇蹟以上に、その後に語られたペテロの言葉が語られるための布石として起った奇蹟でした。
そして、人々はそのペテロの言葉に耳を傾け、聞いていた人達の心は動かされたのです。
その時決心した人達について、聖書は驚くべき記録を残しています。

使徒 2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

三千人ですよ。
日本では、三千人の人達が集う教会さえほとんどありません。
この時、イスラエル中から集めても、イエス様を救い主として信じる人達がどれくらいいたかはわかりませんが、決して多くはなかったでしょう。
それが、たった一日で三千人も増えてしまったのです。
こんな事は、これまで使徒たちが経験した事のない事です。
強いて言うなら、イエス様がいた時にさえ、起らなかった事です。
でが、ペテロはイエス様よりスゴイという事でしょうか?
そうではなく、これが聖霊の力なんだという事なのです。

イエス様はこう言っていましたよね。

使徒 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

わたし達には、この力が必要です。
この日本という国で福音を述べ伝えていくために。
わたし達の周りにいる、まだイエス様を知らない家族や、友人たちにイエス様の愛を伝えるために。
そうではないでしょうか?

この聖霊の満たしの話は、これまでにお話ししてきた神の国の話しと重なります。
神の国は、わたし達が聖霊に満たされない限り実現する事がなく、聖霊の満たしを得るなら、そこに神の国のあらわれもあるのだという事です。

聖霊の満たしを受けるために必要こと、つまり神の国を体験するための条件をもう一度復習しましょう。
それは第一に、わたし達が自分自身という器を空っぽにして、全てを神様に明け渡すことです。
そして第二に、わたし達が心から信仰をもって求め続ける事です。
聖霊の満たしがいつ、どのような方法で起るかは神様次第ですが、その条件と環境が整わない限り、わたし達が聖霊の満たしを経験する事は難しいと言わざるをえません。
神様は、わたし達を強制的に動かすのではなく、わたし達が整えられるまで待たれるお方だからです。
わたし達がそのような聖霊の満たしを経験する事ができるように、またそのために整えられるように、これから少し祈る時間を持ちたいと思います。
祈りましょう。

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