使徒8:26-40 『 使徒⑪~導く人がなければ 』 2012/06/24 松田健太郎牧師

使徒8:26~40
8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
8:28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
8:32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:37 [本節欠如]
8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
8:40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

今日も、使徒の働きから共に御言葉を読み解いていきたいと思います。
今日は、このお話しに登場する3人の人物に焦点を当てながら、それぞれのポイントでお話ししたいと思うのです。
この話にはどんな人達が登場したでしょうか?

ひとりは、先週からこの使徒の働きに登場してきたピリポです。
ピリポは迫害を逃れて隠れていたサマリヤで神様の言葉を伝えて、多くの人達がそこでイエス・キリストの弟子となったのでしたね。
その後ピリポは、御使いに示されて南に行き、エルサレムからガザに向かう道へと行きました。

ふたり目に登場するのは、エチオピアの女王(カンダケ)に仕える宦官です。
彼は、王室などで働く高官なのですが、宦官と言う事は、女王に仕えるため去勢された役人だったのです。

さて、最後のひとりは誰でしょうか?
それは、イエス様です。
ここでは名前も姿も現れてきてはいませんが、そこには確かにイエス様がいて、ピリポとエチオピア人の宦官二人の人生に大きく関わりを持っていました。
イエス様は、どのようにふたりと関わって行ったのでしょうか?

① イエス様は招く
イエス様が十字架にかかって、命を投げ出して私たちの罪を贖って下さり、3日後に蘇り、その40日後に天に帰られました。
しかし、イエス様は今も私たちとともにおられると言う事も出来るのです。
天に挙げられた後のイエス様は、何をしていらっしゃるのだと思いますか?

イエス様は、自分が十字架につけられて死ぬ前に、弟子たちを前にこの様に言っていたんです。
ヨハネ 12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

イエス様は、私たちをご自分の元に引き寄せられるのです。
どんな人達を引きよせるのでしょうか?
全ての人を引き寄せるのです。

自分たちは選ばれた民だと思っていたユダヤ人達にとって、外国人が救いの中に招かれるなどという事は考えられない事でした。
ましてや、この男性は外国人であるだけでなく宦官です。
ここで彼が宦官である事がわざわざ書かれている事には、特別な意味があるのです。
それは、律法の中にこの様に書かれているからです。

申命記 23:1 こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。

これまでは、穢れている、価値がないと思われていた人々の上にも、イエス様の確かな招きがあるという事が、次々と露わにされていきます。

私たちの周りに、救いの恵みからこぼれおちていると思われるような人たちがいるでしょうか?
こういう人は、救われないのではないかと思う人がいないでしょうか?
あるいは、自分自身が穢れていて、神様には愛されていないと感じている方がいるかもしれません。
しかし、神様の愛は全ての人の上に注がれています。
イエス様は、全ての人をご自分の元に招いておられるのです。

② ピリポは福音を伝える
さて、エチオピアは、イスラエルから1500kmも離れた外国です。
彼がどういう経緯でこの遠い距離を旅することになったのかはわかりません。
しかし、恐らく彼は高官という地位を捨ててエルサレムまでやってきたのでしょう。
そんな彼の心を激しく動かしたのは、イエス様の招きだったに違いありません。

しかし、それだけでは奇跡は起りません。
それを証拠に、このエチオピア人はがっかりして国に帰る途中だったのです。
彼は聖書を手にし、エルサレムに行きました。
でも、そこで彼が満足のいく話をしてくれる人は誰もいませんでした。
それは、彼が外国人だったからかもしれません。
あるいは、彼が宦官だったかもしれません。
何より、彼に真理を伝えてくれる人と出会う事ができなかったのです。
しかし、神様はそのままでは終わらせませんでした。
ここに一つの出会いがったのです。
それは、ピリポとの出会いでした。

その時、エチオピアの宦官は持ってきていた聖書、それもイザヤ書を読んでいました。
実は、この時代の人達は、本を読む時に声を出して読むのが普通だったんです。
声を出さずに読むという習慣が生まれたのは5世紀の頃だそうです。
それまでは、みんな小学生の様に声を出さなければ本を読む事ができなかったんですね。

そんなわけで、彼が聖書を朗読する声を聞いて、ピリポには自分が声をかけるべき人が誰なのかという事がすぐにわかりました。
ピリポはその場所に駆け寄ると、そのエチオピア人の宦官に話しかけました。
「読んでいる事がわかりますか?」
エチオピア人は答えました。
「導く人がいなければどうしてわかるでしょう。」

驚くべき事に、その時彼が読んでいたのは、イザヤ書53章でした。

イザヤ 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

53章は、イザヤ書の中でも間違えようのないほどにイエス様の事について書かれているとしか思えないような箇所です。

それは、救い主がどのようなお方かとして地上に来るかを話している箇所でした。
救い主は人々からさげすまれ、人の痛みを知る人である事。
罪という私たちの病を代わりに背負い、罪の痛みを私たちの代わりに引き受けて下さるお方である事。
彼は私たちの代わりに、私たちが受けるべき罰を一身に背負って下さる事。
彼は死の間際、苦しみの中で自分を弁明しようとせず、いけにえの羊の様にして弾かれていくという事。
そしてその全てが、神様の御心であるという事について書かれているのです。

700年も前に書かれたイザヤ書に、つい先頃十字架に架けられて死んだ人の事が書かれているという事は、それだけで衝撃を与える事だったでしょう。
しかしそれは、信じるに足りるほど真実な言葉でもありました。
そうしてこのエチオピア人は、ピリポから洗礼を受けるにいたったのです。

このように、イエス様はご自分の招きを、その弟子を通して完成させようとします。
当然の事ながら、イエス様は現代では私たちを用いて、人々をその身もとに引き寄せようとするのです。

もし、ピリポが福音を伝える事をしなければ、その人はイエス様と出会う事ができませんでした。
ピリポが異邦人であり、汚れた存在である宦官に対して差別的な感情をもっていたら、やはり彼には福音が伝わらなかった事でしょう。

私たちは、福音を伝える準備ができているでしょうか?
また、イエス様がわたし達に命じるなら、どんな人に対しても偏見を持たずに福音を伝える事ができるでしょうか?
その相手は、私たちが嫌っている相手かもしれません。
社会的にはマイノリティであったり、受け入れがたい文化を持った人達かもしれません。
でも、私たちがその人達に伝える使命を帯びているかもしれないのです。

そのためには、まず私たち自身が福音をよく知り、理解し、福音的な価値観の中で生きていく必要があります。
私たちが神様の愛をいっぱいに経験するなら、私たちはそのままの愛を他の人達に伝える事ができるのではないでしょうか?
私たちは、愛されたように、人を愛する事ができるのですから。

③ エチオピアの宦官は応える
さあ最後に、イエス様の招きを受け、福音を伝えられる当人の問題です。
全ての人をイエス様は招き、御元に引き寄せようとしていますが、全ての人がクリスチャンになるわけではありません。
私たちが福音を伝える全ての人達がそれを受け入れるのでもありません。
なぜでしょうか?
それは、招かれている私たちの側が応答する必要があるからです。

私たちは神様に逆らう事さえできる、自由意志を持つ存在として創造されました。
私たちが自由意思を持っている以上、私たちが救いを受取らない限り、神様は勝手に私たちを救う事ができないのです。

このエチオピア人は、最初の招きに応えて高官としての仕事を辞め、1500kmの距離を旅してエルサレムに行きました。
そこでは、思っていたような答えを何も得る事ができませんでしたが、その帰り道、彼はピリポと出会い、福音を聞いたのです。
そして彼は、イエス様の招きに応答しました。

8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」

私たちとこのエチオピア人の宦官との間には、たくさんの共通点があります。
異邦人である事、祝福に値しない汚れた罪人である事、そしてイエス様の招きを受けているという事・・・。
イエス様は、私たちすべての人を、救いのために招いています。
そしてイエス様は、私たちひとりひとりに祝福を与えたいと招いておられます。

私たちは、その招きに応答する必要があるのです。
今日、この時を、イエス様への応答の時としませんか?
イエス様は、私たちが応えるのを待っています。
祈りの時を持ちましょう。

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