使徒12:1-5 『使徒⑰ 教会が祈る時(上)』 2012/08/19 松田健太郎牧師

使徒12:1~5
12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

さて、ヘロデ王によるクリスチャンの迫害が始まりました。
ここで皆さんに質問したのですが、イエス様が誕生した時のイスラエルの王様は誰だったでしょうか?
そう、ヘロデ王ですね。
それでは、バプテスマのヨハネを殺し、イエス様が十字架にかけられた時に王様だったのは、誰だったでしょう?
そうです、ヘロデ王です。

こうしてヘロデ王がたくさんのところに出てきて神様の計画の邪魔をするわけですが、実はこの3人のヘロデ王はそれぞれ別の人です。
イエス様誕生の時のヘロデ王は、ヘロデ大王。
十字架にかけられ時のヘロデ王は、ヘロデ・アンティパス。
そして、今回出てくるヘロデ王は、ヘロデ・アグリッパ1世と呼ばれています。
それぞれ親子3代に渡って、神様に背くものとして登場します。

このヘロデ・アグリッパ1世は、教会を苦しめるためにヨハネの兄弟であるゼベダイの子ヤコブ(James)を殺します。
聖書の中には似たような名前ばかりがたくさん出て来て困りますが、このヤコブはヤコブの手紙を書いたヤコブ(イエス様の弟)とは別です。
福音書を書いたヨハネの兄弟ですね。
ヤコブは、ヨハネと共に「確かに、あなたもわたしの杯を飲む事になる。」と言われていました。
その預言が成就するような形で、ヤコブは殉教の死を遂げたのです。

しかし、迫害の手はそれだけにとどまらず、次には使徒ペテロの手にまで及びました。
ペテロもまた、このヘロデ王によって、囚われの身とされてしまうのです。

ペテロと言えば使徒であり、今やどんどん増え広がってきて影響を与えるようになっててきたクリスチャンたちの、リーダーとなって皆を束ねるような存在です。
そのペテロまでが捕えられて殺されてしまったら、この時点での教会は結束を失ってバラバラになってしまうかもしれません。

そのような危機の中、もしわたし達がこの様な場面に直面したらどうするでしょうか?
危機の時、わたし達クリスチャンにできる最善の事は何でしょうか?
それは、祈る事です。
今日は、祈りとは何かという事を共に考えながら、今週と来週2回にかけて、教会がこの難しい状況をどのようにして切り抜けて行ったのかという事を、共に見ていきたいと思います。

① なぜ祈るのか?
そもそも、私たちはどうして祈る必要があるのでしょうか?
神様は全知全能の方です。
別にわたし達が祈らなくたって、わたし達の必要を知っているはずじゃないですか?
だったら、僕たちが祈る前に僕たちの必要を満たして下さったらいいじゃないですか?
それどころか、そもそも問題が起る前にその状況を察して、そんな問題に直面しないようにして下さったらいいじゃないですか?
それなのに神様は、どうして問題が起るのを見過ごして、そして僕たちが祈るまで何もして下さらないのでしょう?

神様はどこか抜けてしまっているので、僕たちが思い出させてあげないといけないんですか?
それとも、神様は意地悪な方で、「土下座して頼むなら聞いてやろう。」みたいな事を言っているのでしょうか?
これは全て、私たちが祈りというものを誤解しているから起る勘違いなのです。

クリスチャンにとって、祈りというのは、神社に行って何かお願い事をするというのとは全く別の事です。
わたし達は、祈りを通して神様にお願いをし、神様を変えようとするかもしれません。
でも祈りというものは神様を変えるためのものではなく、私たちが変えられるためのものなのです。

よく言う事ですが、祈りというものは、神様との対話です。
僕たちが、神様に自分の思いを一方的に叩きつけるようなものではなく、自分の思いを神様に打ち明けながら、神様の声に耳をすませ、神様の御心と一致していくためのプロセスです。
だから祈りには、私たちが何を祈るかという事だけでなく、神様からの応えに耳をすませる時が必要なんです。
それがなければ、祈りは完成しません。
神様に自分の思いを伝え、神様の応答を聴き、今度はそれに対してわたし達が従っていくというわたし達の側の応答があって、初めてそれは祈りとなるのです。

そこに至るまで、神様とたくさんの対話をしなければならない時もあります。
時には、私たち自身の思いが強すぎて、神様の御心を聴く事がなかなかできなかったり、分っていても従えないという時もあります。
でも、そのような対話を何度も重ねていく中で、私たちの思いが神様の御心と近づいて行って、私たちはよりキリストに似た者として成長していく事ができるのです。

② どうしてみんなで祈るのか?
祈りに関して疑問に思う、もう一つの事も考えてみましょう。
わたし達は、どうして皆で祈る必要があるのでしょうか?
今日の聖書箇所でも、教会がみんなでペテロのために祈ったというように書かれています。

でも、皆の前で祈るのは苦手だという人もいますよね。
中には、この様な聖書箇所を思いだして、皆で祈る事はおかしいと思う方もいます。

マタイ 6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

「人前で祈るな」って書いてあるじゃないですか?
でも、この様に書いてある所もありますよね。

マタイ 18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

これは、2~3人じゃないといけないという事ではありませんよ。
例え、2~3人しかいなくてもという話しですから、何人でもいいんです。

先に問題とされているのは、神様に話す祈りではなくて、人に聴かせるための祈りです。
「自分はこんな素晴らしい事を祈っている。」と見せびらかすような祈り方はやめなさいというのがポイントなのです。

2番目の箇所で語られている大切な事は、「心をひとつにして祈る。」という事です。
祈りが単なる願い事ではなく、私たちが神様の御心に近づくための対話なんだという事がわかれば、みんなで心を一つにして祈る事の必要性もわかってくるのではないでしょうか?

教会は、キリストの体です。
先週も聖餐式を通して、私たちはその事を確認しました。
しかし、ひとつの体であっても、私たちはついつい自分の事ばかりを考えて、バラバラになってしまう傾向があります。
だからこそ私たちは、心をひとつにして神様と対話し、教会の中に一致をもたらしていく必要があるのです。

③ 心をひとつにして
神様が、ヘロデ王にヤコブを殺させ、ペテロを捕えさせたわけではありません。
この事件その自体は、決して神様の御心ではありません。
しかし、この状況を通して、教会はひとつとなって祈りました。
ものすごい勢いで増え広がり、まとまりがなくなってきた教会が、この出来事を通してひとつとなったのです。

深刻な状況は、私たちを祈りに導き、私たちの中に一致をもたらす事があります。
以前にもお話しした事がありますが、フィジーで起ったリバイバルについてお話ししたいと思います。
フィジーという国は、つい最近まで人食い人種がいるような国で、政治的にも不安定な国でした。
麻薬や殺人が横行し、オカルトや偶像崇拝があふれて手のつけられない状況でした。
そのような中で、それぞれに信仰形態も違って中が悪かった教会同士が、ひとつになって祈り始めたのです。
そんなある時、教会をひとつにつなげようとしていた働きの中心となっていた牧師が殺されてしまったのです。

それをきっかけにして、教会は変わったのです。
教会は、お互いに愛がなく、否定的な態度をとってきた事を悔い改め、和解しました。
するとそれは、次の新たな力に変わり、フィジーにはリバイバルが起ったのです。
それは、単に信仰復興が起ってみんながクリスチャンになったというだけでなく、自然環境までが変わり、荒れた土地に巨大な作物が成り、サンゴ礁は蘇り、汚染されて汚かった川には魚が戻るような、奇跡的な回復をフィジーにもたらしました。

日本にはなぜ、リバイバルが起らないのでしょう。
実を言うと、僕は「日本のリバイバルは始まっている」という話を色んなところでしています。
日本の教会だって捨てた物ではなく、何人ものやくざが牧師になったり、帰国者や若者の中でもたくさんの人達が救われ、今までになかった面白い事がたくさん起っています。
でも、国全体のリバイバルには繋がらない。
それは、教会間に一致がないからだと、僕は思います。
わたし達、日本の全教会が神様の前に心をひとつにして祈っていないからだと思います。

2011年の3月11日に起った大震災によって、東北地方ではすでに教会間の一致が始まっています。
そして、共に心をひとつにして祈っている所では、すでにたくさんの人達が救われて、リバイバルが起っています。
そのために神様が震災を起こしたわけではありませんが、神様はそのような悲劇さえ用いて、私たちの心をひとつにしたいと願っているのです。

心をひとつにして、祈りませんか?
まずは、私たちの教会が心をひとつにして祈る所から。
そして、日本中の教会が心をひとつにして祈り、互いに悔い改め、和解し、キリストの体として一致していく事が出来る事を、共に祈って行きたいと思います。
これからしばらくの間、共に祈る時を持ちましょう。

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