黙示録19:1-10 『 黙示録⑱~小羊の婚宴 』 2012/01/29 松田健太郎牧師

黙示録19:1~10
19:1 この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
19:2 神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」
19:3 彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」
19:4 すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ」と言った。
19:5 また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」
19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。
19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

わたし達クリスチャンは、日々の生活の中で様々な苦しみや辛いときを経験する事があります。
クリスチャンが迫害されているような国々では、生きていくだけでも大変な事です。
わたし達が暮らしている日本では、そのような迫害は少ないかもしれませんが、それでも厳しく苦しい現実を垣間見る事があるでしょう。
ましてやクリスチャンとして愛を実践していこうとするなら、様々な困難もわたし達は経験するわけです。
たとえ、この人生が苦難の連続であっても、それでもわたし達が困難を乗り越えて生きていく事ができるのは、その先に天国があるという確かな希望があるからではないでしょうか。

前回までのところで、ついにその苦難にひとつの決着がつきました。
長い間、神の民を苦しめ、悩ませてきた反キリストは倒され、永遠に滅ぼされたのです。
その時天上には、大群衆による賛美の声が鳴り響きます。

黙示録 19:1 この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
19:2 神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」

「ハレルヤ」というのは、「主をほめたたえよ」という意味の言葉です。
これまでわたし達は、悪の力によって縛り付けられていましたが、神様によって反キリストが滅ぼされ、完全に解放されたのです。
今日は、その喜びのために開かれる祝宴を通して、やがてわたし達が見る事になる喜びを共に味わっていきたいと思います。

① 小羊の婚姻の時
6節をもう一度読んでみましょう。

黙示録19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。

「神をほめたたえよ」という賛美の声は、悪が滅ぼされたという事に対する喜びもありますが、それだけではありません。
万物の支配者であり、創造主である主を、真の王としてお迎えする喜びでもあるのです。

わたし達が今生きている世界でも、神様が王である事に変わりはありません。
しかし地上はわたし達の罪によって呪われた場所となり、わたし達の罪を温床として悪霊たちが力を発揮するのがわたし達の生きる今の世界です。(エペソ2:2)
しかし、その悪魔、悪霊たちが地上から一掃されると、神様が完全にこの世界を支配される時が来るのです。
その喜びを、聖書はこの様に表現しています。

黙示録 19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」
19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。

真の王をお迎えする喜びは、まさに結婚式の喜びです。
ぼく達の親戚や友人の結婚式に参加しても、幸せに包まれていて嬉しい気持ちになるのですから、小羊イエス様の結婚式なんてどんな喜びに溢れているでしょうか?
ましてやそれは、イエス様とわたし達との結婚式なのです。

そうは言っても、わたし達が本当にイエス様と結婚するわけではなく、これは象徴的な表現です。
イエス様は天国に結婚はないと言っていますし、本当に結婚したらイエス様は重婚となる上に同性とも結婚しなければならない事になってしまいます。
イエス様とわたし達教会との結婚というのはつまり、わたし達とイエス様との深くて完全な関係がここから始まるという事を意味しているのです。

② 婚宴に招かれた人は幸いである
天の御国と婚宴に招かれるという事に関しては、イエス様がこんなたとえ話をした事もありました。
少し長いですが一緒に見てみましょう。

マタイ 22:2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
22:3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
22:4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
22:5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
22:6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
22:7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
22:8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
22:9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
22:10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
22:11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

このたとえ話では、たくさんの人達がこの婚宴に招かれるけれど、実際に入る事ができる人は多くないという事が書かれています。
最初にこの婚宴に招かれていたのは、イスラエルの人々、ユダヤ人達です。
しかし、イスラエルの人々はキリストであるイエス様を拒絶しました。
そこで、神様は異邦人達もこの婚宴に招いたのです。
ところがそこで多くの人達は気にもかけず、「仕事があるから。」などと言って招きに応じませんでした。
さらに神様は、あらゆる人達を片っ端からその婚宴へと招きます。
しかし、その招きに応じて婚宴に足を運んだ人達は少なかったのです。

同じように、天の婚宴には全ての人達が救いの招きに応じて来るわけではありません。
全ての人達が招かれているので誰もがこの婚宴に来る事ができますが、実際に救いを求める人は少ないのです。

しかし、それでもたくさんの人達がその婚宴での幸いを味わう事ができるはずです。
その喜びは、それから後、永遠に続きます。
永遠に続く婚宴の喜びとは、一体どれほど大きなものでしょう。

③ 光り輝くウェディングドレス
さて、このたとえ話の最後に、礼服を着てこなかったひとりの人が描かれています。
これは何でしょうか?
この礼服は、イエス様が与えて下さる義の衣です。
ガラテヤ 3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

イエス様が十字架にかかって下さった事によってわたし達の罪が赦されたという事は、わたし達の罪がなくなった事を意味しているわけではありません。
わたし達自身はそれほど大きく変わっているわけではなく、まだ罪深く、失敗をする人間である事に変わりはありません。
しかし、イエス様の福音を受け入れた人には、キリストという義の衣が着せられるのです。
それによってわたし達は、神様の目から罪のない者として見なしていただく事ができます。
パウロはそれを、“汚れた罪人のわたし達が、キリストを身に着た”のだと表現しているのです。

黙示録で花嫁が着ている服も同じです。

19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」

ここで与えられている麻布の衣というのは、イエス様ご自身の義の衣であり、イエス様の血によって洗いきよめられたわたし達の心です。
わたし達自身は罪によって汚れた者ですが、こうして光り輝くキリストのウェディングドレスを着て、神様の前に立つ事になります。

自分がキリストの花嫁なんて、恐れ多いと思うかもしれませんが、それは当り前の事です。
イエス様の花嫁にふさわしい人なんて、誰もいません。
しかしわたし達は、この救いの恵みの大きさを思うべきなのではないでしょうか。
天の御国にあるこの素晴らしい約束があるからこそ、わたし達は今の苦難をも乗り越えてゆく勇気がわいてくるのですから。

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