黙示録21:1-22:21 『 黙示録㉑~天国への帰還 』 2012/02/19 松田健太郎牧師

黙示録21:1~22:21
21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
21:6 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
21:9 また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
21:11 都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
21:12 都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
21:15 また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
21:16 都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
21:17 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
21:18 その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21 また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
21:26 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
21:27 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。

22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。
22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」
22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。
22:15 犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。
22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

わたし達が生きていく上で、様々な困難に直面します。
僕たちはクリスチャンになったら何の悩みもなくなり、ストレスもなく、いつの間にかお金持ちになり、病気にもかからず、心配も何もないまま生涯を終えるわけではありません。
むしろ、多くの問題や困難と共に生きるのがわたし達ではないでしょうか。

この黙示録が書かれていた時代、クリスチャンたちは困難の真っただ中にいました。
自分を神とするローマ皇帝の支配の中で、クリスチャンたちは迫害を受け、自分がクリスチャンであるという事が分っただけで拷問にかけられ、殺されてしまう。
そんな人々にとって、ヨハネが手紙として7つの教会を始めとする全教会に宛てて送ったこの手紙は、多くの希望となり、励ましとなりました。

「今のこの状況は、今後もっと酷くなるかもしれない。
しかしそれは永遠には続く事がない。
悪は必ず裁きを受け、キリストにつながる者は必ずイエス様と再会する時が来るだろう。」
この言葉は、当時の教会の人々だけでなく、今の時代を生きるわたし達にとっても、大きな希望となる言葉かもしれません。
黙示録の最後を飾るのは、天国についての話です。
それでは、共に見ていきましょう。

① 天国のイメージ
皆さんは、天国に関してどのようなイメージをもっていらっしゃるでしょうか?
一言で天国と言っても、色んなイメージあると思うのです。
ある人達は、みんな頭に天使の輪がついて、雲の上で平和に永遠の時を過ごすと考えているかもしれません。
ある人は、天国に行ったらあれもやりたい、あの人にも会ってみたいと色んな事を計画しているかもしれませんね。
パチンコが好きな人にとっては、天国とはずっとパチンコをしている事ができるような世界こそが天国だと思うかもしれません。
しかし、天国にパチンコはあるでしょうか?
ないのだとしたら、パチンコ好きな人にとっては、天国は天国ではないという事でしょうか?

なぜこのような話をするかと言うと、僕はある人がこの様に言うのを聞いた事があるからです。
「天国にはパチンコはなさそうだから、自分は地獄に行く事にする。」
まぁ、本気で言った事ではないと思うのですが、天国がどのような所かという事によって、わたし達はどのように生きるかという事までも変わって来る事もあると思います。

天国で、わたし達はずっと神様を賛美しているという話を聞いた事がないでしょうか?
実際にそのような言葉が聖書の中にあるのです。
でも、ずっと歌を歌っているのが天国なのだとしたら、歌が好きではない人は、行きたいと思わないかもしれませんね。

ある人達は、天国に対して素晴らしい場所だというイメージを持っているでしょう。

21:4a 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。

と、聖書には書かれている。
また、とてつもなく大きく、様々な宝石で飾られているかのような美しい所だとも書かれています。

そうすると、そのイメージがあまりにも素晴らし過ぎて、「あ~天国はきっと素晴らしい所に違いない。早く天国に行きたい。」という人達も出てくるのです。
特に鬱を患っていたり、今の人生に苦しみを抱えている人達の中には、そのように言う人も少なくありません。
では、天国とは実際にはどのような所だと、聖書は教えてくれているのでしょうか?

② わたし達が求めるもの
先ほど読んだ、21章4節には続きがあります。

21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

悲しみも全てのものがなくなったのは、“以前のものが過ぎ去ったから”です。
以前のものとは、この世にあったもの全て、この世の価値観の全てです。
その中には、わたし達が素晴らしいものだと思っているものも含まれているかもしれません。
たとえば、富や物質主義的なものはないのではないでしょうか?
きっと、パチンコもないでしょう。

では、今のわたし達が求めているようなものは天国にないという事なら、天国とは面白みのない、つまらない所なのでしょうか?
いや、そうではなく、わたし達がいま求めているようなものに安らぎや執着を感じる必要がないという事なのです。
そして、そのようなものを必要としない新しい世界だからこそ、そこには全ての悲しみや苦しみもないという事もできるのです。

その代わりにあるのは、花婿たるイエス様との深い関係です。
これまではおぼろげにしか感じる事ができなかった、父なる神様との密な関係です。

そこに何の魅力も感じないという人もいるかもしれません。
「そんなのツマラナイ。そんな退屈な所は天国じゃない。」と思う方もいるでしょう。
しかし、わたし達がそのように感じてしまうのは、今のわたし達が神様との関係が断絶された状態にあるからなのです。
罪びとであるわたし達には、その素晴らしさがちゃんとはわからないという事なのです。
しかし、エデンの園の時代より失われていたその関係の回復は、わたし達に本当の喜びをもたらすものとなるのです。

わたし達は、この神様との関係に欠けがあるから、心に何か空虚な部分を持っていて、それを埋めるために色々なものに執着をするのです。
その欠けが完全に埋められた後は、わたし達の喜びの形、楽しみの対象は大きく変わる事でしょう。
わたし達は今執着しているものを、もう必要とはせず、まったく新しい世界で永遠を生きるのです。

そこにはもう、苦しみはない。
悲しみの涙は、もう流れない。
流す必要がない。
わたし達は、主によって完全に満たされるからです。
罪がなくなり、いつでも満たされた状態にあるわたし達にとっての楽しみがどのようなものになるのか、今のわたし達には想像もできないようなものが、天国には溢れている事でしょう。

③ 死後の世界観がわたし達を変える
天国というところがそのようなものであれば、天国に住まう前の状態である今のわたし達には、どのような影響があるでしょうか?
まずわたし達は、今求めるべきものも変わって来るんじゃないかと思うのです。

イエス様はこの様に言いました。

マタイ 6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

地上にあるものはやがて朽ちてなくなってしまいます。
この世の富、栄光、家や車、それがどんなにきらびやかなものであったとしても、それは永遠に続く者ではありません。
しかし天の宝は、永遠にわたし達と共にあるのです。
わたし達は地上の宝ではなく、永遠に残るものを宝として蓄えるべきです。

今わたし達が蓄える事ができ、天国にも持って行く事ができる者が3つあります。
ひとつは、自分自身の個性と品性であり、ふたつ目は自分自身と神様との関係、そしてみっつ目はわたし達の大切な人達です。
わたし達は地上で、自分という人間を建て上げ、深い神様との関係を築いて行く事によって、神の国への期待を更に増やす事ができます。
そして、わたし達はひとりでも多くの人達と天国で再会する事ができるように、地上で福音を述べ伝えるべきです。
天国に知っている人が誰もいなかったとしたら、それは何と残念な事でしょうか?

更にわたし達は、天国がどういうところかを知る事によって、どうすればより快適な人生を地上で送る事ができるかを考える事ができます。
イエス様は、天の御国は今すでにわたしたちの内にあるとも言っているからです。

天国での喜びは、わたし達と神様との関係の深さによって起るものです。
ならばわたし達は、神様との関係を深める事によって、より天の御国に近づく事ができるはずです。
天国のような喜びを、わたし達が今体験するために必要なもの、それはお金ではありませんし、立派な家や車、服やカバンではありません。
また、何か善行を積んだり、たくさんの奉仕をする事によって天国の喜びを得るのでもありません。

わたし達が神様との関係を深めていくならば、全てのものが喜びへと変わって行くのです。
なぜなら、わたし達は天の御国へと近づくのですから。

④ 黙示録のまとめ
さて、いかがでしたでしょうか?
アルファでありオメガである方、世界の初めからいて、わたし達を愛して下さるイエス様から7つの教会を代表とするわたし達全ての教会に宛てられた手紙を、半年間かけて呼んできましたが、それも今日で終わりです。

世界の終わりと聞くと、わたし達は内心穏やかではいられないという事もあるかもしれません。
しかし、わたし達にとって終末は決して恐怖の時ではなく、花婿イエスをお迎えする素晴らしい時だという事が少しでも伝わっていたら幸いです。

最後に、主の再臨を待ち望んで、聖書の最後の2節を皆さんと一緒にお読みしたいと思います。

黙示録 22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

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