エレミヤ6:10-19 『 エレミヤ3 平安だ、平安だ 』 2014/01/26 松田健太郎牧師

エレミヤ6:10~19
6:10 私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。
6:11 私の身には主の憤りが満ち、これに耐えるのに、私は疲れ果てた。「それを道ばたにいる子どもの上にも、若い男の集まりの上にも、ぶちまけよ。夫も妻も、ともどもに、年寄りも齢の満ちた者も共に捕らえられ、
6:12 彼らの家は、畑や妻もろともに、他人のものとなる。それは、わたしがこの国の住民に手を伸ばすからだ。―主の御告げ―
6:13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。
6:14 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
6:15 彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる」と主は仰せられる。
6:16 主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。
6:17 また、わたしは、あなたがたの上に見張り人を立て、『角笛の音に注意せよ』と言わせたのに、彼らは『注意しない』と言った。
6:18 それゆえ、諸国の民よ。聞け。会衆よ。知れ。彼らに何が起こるかを。
6:19 この国よ。聞け。見よ。わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らのたくらみの実。彼らが、わたしのことばに注意せず、わたしの律法を退けたからだ。

エレミヤ書から3回目のメッセージです。
エレミヤ書は、神様から離れてしまったユダ王国に向けて、預言者エレミヤを通して語られた神様の言葉です。
その中心となるメッセージは、一言でいうならば「このままではあなた達は滅びるから、私の元に帰りなさい。」という事でした。

現代も、この時代のイスラエル(ユダ王国)と同じような状況に陥りつつあります。
人々は神様から離れ、自分の欲望を満たす偶像崇拝に走っているように思います。
私たちは、単に歴史的な出来事としてこの預言の言葉を読むのではなく、今もなお、私たちに語られている神様の言葉を、エレミヤ書から受け取っていきたいと思います。

① 閉ざされた耳
さて、「悔い改めて私の元に帰ってきなさい。」という神様の言葉に、ユダの人々はどのように答えたでしょうか?
実は、それに対して何も答えなかったのです。
答えるどころか、エレミヤの言葉に耳を傾ける事すらしなかったのです。
このように書かれています。

6:10 私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。

人々は、なぜエレミヤの言葉に耳を貸そうとしなかったのでしょうか?
それは、第一に自分が罪人であることを認めなくないからです。
エレミヤが伝えた神様の言葉は、優しさもありますが厳しい言葉でした。
「悔い改めて帰りなさい。」という事は、自分の罪を認めて、罪から離れ、神様から離れていたことに気づき、帰ってくる必要があるという事です。
でも、彼らはその罪を認めようとしませんでした。
「自分たちはちゃんと神殿に行って、生贄を捧げている。ちゃんと礼拝を守っている。他人に罪人だなどと言われる筋合いはない。」
それが、エレミヤの言葉を受けてユダの人々が感じた事だったのです。
自分は正しいことをしている。
間違ったことなんてしていない。
ユダの人々の中にあったこの思いは、やがて悔い改めを迫るエレミヤへの怒りと憎しみに変わっていきます。

私たちの中にも、「自分は正しい」と思っていたい気持ちがあるのではないでしょうか?
しかし、自分は正しいと思っている人は、十字架も必要としないのです。
ちょっとくらい悪いところはあるかもしれないけれど、わざわざイエス様が命をかけるような事ではないだろうと思ってしまうのです。

そのように考えている人たちに対して、「罪の赦し」を宣言する福音は、むしろ災いの言葉でしかありません。
「人を罪人扱いするなんて、何と失礼な! あなた達こそ寛容に欠けた、愛のない人々じゃないですか!」
福音を伝えるとき、多くの人たちがこのような反応を示します。
そして、福音の言葉には耳を貸そうとはしないのです。

② 平安がないのに
「あなたには罪がない。」
これが、多くの人たちが言われたい言葉です。
「そのままで良いんだよ。」
「あなたが悪いんじゃない。理解してくれないあなたの親や、周りの人たちが間違っているんだ。」
心理学やカウンセリングの世界では、このような言葉ばかりが投げかけられます。
それこそ、人々が聴きたい言葉だからです。
そして、そのように言ってくれる人のところに、人々は集まっていきます。
心理学などなかったエレミヤの時代にも、まさにそれと同じことが起こっていました。

6:13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。
6:14 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。

この時代、多くの預言者や祭司が、このようなメッセージを伝えていました。
その方が、人気が出るからです。
人々は、確かに礼拝を捧げていました。
神様に仕えているように、ふるまってもいました。
しかしそれと同時に、彼らの心は欲望の中にあり、欲望を満たしてくれる偶像から離れようとはしませんでした。
彼らは主の神殿の中で、まことの神々を礼拝すると同時に、偶像の神々に対しても礼拝を捧げ続けていたのです。

そのような事実を棚に上げて、「私たちは正しい。私たちは大丈夫だ。」というメッセージを、人々は信じていました。
本当の救い、本当の平安はそこにはないのに、『平安だ。私たちは安全だ。』と言っていたのです。

しかし、「そうではない。」と神様は言うのです。
聖書は、私たちに二つの事が必要であると教えています。
一つは、私たちが自分の『罪を認める事』です。
「自分に罪はない」と言い聞かせれば、一時的には気持ちが楽になるかもしれません。
でも、罪があるなら、その刈り取りを必ずする事になるでしょう。
そこに、本当の平安はないのです。
私たちはまず、自分は救いが必要な罪人だという事を認め、神様の前に出る必要があるのです。

二つ目に必要なのは、『キリストがその罪を負って下さった事を信じる事』です。
私たちのその罪のために、イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さった。
それによって、私たちの罪は赦されたのです。
それを信じる信仰の中に、私たちの本当の平安はあります。
イザヤ書の中にこのような言葉があります。

イザヤ 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たち日本人は、自罰的な文化を持っているので、なかなかこの罪の赦しを受け取ることができなかったりします。
だからクリスチャンになっても、自分の行いによって罪を償おうとしたり、自分のためにイエス様が死んで下さったことが申し訳なくて、罪悪感から奉仕をしようとしたりしてしまいます。
でも、そこには平安がありませんね。

私たちが、まず自分の罪を認め、イエス様の十字架によってその罪が赦された事を心から信じるなら、私たちはそこに得ることができる平安と喜びによって、自分の人生を捧げたいと思えるようになります。
それこそ、信仰から生まれる平安であり、喜びによる奉仕なのです。

③ この民に災いをもたらす
こうして神様は、私たちに救いの道を示して下さいました。
私たちが、心から神様を求め、幸せを求めるなら、神様は惜しみなくその道を示してくださるお方なのです。
しかしそれでも、多くの人たちがその福音を受け取ろうとしないという現実があります。

6:16 主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。
6:17 また、わたしは、あなたがたの上に見張り人を立て、『角笛の音に注意せよ』と言わせたのに、彼らは『注意しない』と言った。

神様は、幸いの道を示してくださいます。
繰り返し、何度も、何度も神様は伝えます。
しかし、ほとんどの人は、それを受け取りません。
神様からの和解を受け入れず、手をりほどき、背き続けようとするのです。

なぜでしょうか?
救いを受け取るためには、まず自分の罪を認めなければならないからかもしれません。
あるいは、罪の赦しを与えて下さるという神様を、信頼することができないからかもしれません。
それが何であれ、ユダは神様に戻ることを拒み、滅びの道を歩み続けたのです。

6:18 それゆえ、諸国の民よ。聞け。会衆よ。知れ。彼らに何が起こるかを。
6:19 この国よ。聞け。見よ。わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らのたくらみの実。彼らが、わたしのことばに注意せず、わたしの律法を退けたからだ。

神様が、どれだけ幸いの道を示しても、私たちがそれに耳を傾けず、従おうととしなければ何の意味もありません。
そして事実、多くの人たちが神様の声に対して耳を塞ぎ、決して従おうとしなかった事を、私たちはイスラエルの歴史の中に見ることができます。

マタイ7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
と、イエス様は言いました。

命に至る門が小さいのは、そこに入ることができる人が少ないという事ではありません。
そこには誰でも入ることができるのに、門が小さく道が狭いので、多くの人たちがその道を選ばないのです。
全ての人が招かれ、誰でも入ることのできる門がそこにあります。
私たちは、その道を進み、命へ至る門をくぐろうとするでしょうか?
それとも、多くの人たちが進もうとする、滅びに至る道を歩み続けるでしょうか?
狭いけれど神様に至る命の道を選び、本当の平安を手に入れませんか?
祈りましょう。

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