ダニエル1:1-7 『 ダニエル1 異文化の中で生きる事 』 2014/05/04 松田健太郎牧師

ダニエル1:1~7
1:1 ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した。
1:2 主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物倉に納めた。
1:3 王は宦官の長アシュペエナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。
1:4 その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。
1:5 王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした。
1:6 彼らのうちには、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。
1:7 宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。

今日からダニエル書のシリーズが始まります。
ダニエルは預言者のひとりですが、他の預言者とは少し違うところがあります。
それはダニエルが、イスラエルでもユダでもない、外国に仕えた預言者だったという事です。
まずは、ダニエルが活躍した時代と場所の背景を見ていきましょう。

ユダ王国で、最後から3番目の王となるエホヤキムの時代、バビロン帝国はエルサレムに攻め入り、第一回目の捕囚が行われました。
捕囚と言うのは、この当時大きな帝国によって行われていた占領政策で、占領した地域の人々を強制移住させ、他の民族と混ぜ合わせる事によって、民族としてのアイデンティティを破壊してしまうという、とても狡猾で強力な政策でした。
バビロン帝国の王ネブカデネザルは、エホヤキムの時代と、最後の王ゼデキヤの時代、少なくとも2回にかけてユダ王国の人々を捕囚して、強制移住させたのです。
このエホヤキムの時代、第一回の捕囚の時に囚われた人々の中に、ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤという4人の姿がありました。

この時、ダニエルたちはまだ少年と言えるほどに若い年齢でしたが、その優秀さが買われ、バビロン帝国の王に仕えるように命じられました。
このようにして、異国の文化、異教の信仰のただなかで預言者としての働きをするダニエルの働きは、クリスチャンの人口が1%未満と言われる日本に生きる私たちと重なります。
ダニエルたちを通して、私たちはどんなことを学んでいく事ができるのでしょうか?

① バビロン帝国に仕える事
さて、王に仕えるように命じられた4人に関して、聖書にはこのように書かれています。

1:3 王は宦官の長アシュペエナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。
1:4 その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。
1:5 王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした。

ユダという小さな国から捕虜として連れていかれ、バビロン帝国の王の元に仕えるというのは、人間的に見ればすごい出世のようにも見えます。
彼らはそれだけの美しさと、能力を兼ね備えていましたし、この役割が神様によって与えられた特別な働きだという事も確かな事でしょう。
でもそれは、おそらく私たちが考えている以上に過酷で困難な出来事でもありました。

ダニエルたちはまず、自分たちの名前が奪われ、バビロニア人としての新しいアイデンティティを与えられました。

1:7 宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。

これは、単にバビロニア風の名前が与えらえたという事ではありません。
彼らの名前の意味を考えてみると、バビロン帝国が彼らに何をしようとしていたのかが少しわかってきます。

ダニエルという名前は、“神が裁く”という意味の名前でした。
しかし彼に与えられたベルテシャツァルという名前は、“バアルが彼の命を守る”という意味の名前だったのです。
“恵み深いヤハウェ”という意味の名前だったハナヌヤは、“アクーの命令”という意味のシャデラクという名前に変えられます。
アクーというのは、バビロニア人たちが信じる偶像の神のひとつです。
“誰が神の様であろうか?”という意味のミシャエルは、”誰がアクーのようであろうか?”という意味のメシャクへと変えられます。
そして、“主が助け”という意味のアザルヤの名前は、これまた偶像の神にひとり“ネブーの召使”という意味であるアベデ・ネゴという名前に変えられるのです。

こうして彼らは、アイデンティティである名前を奪われ、それと同時に信仰的な土台を破壊されました。
彼らはさらに3年の間、日々の生活の中で、異文化と異教の教えを叩き込まれ、これまでとは違う教育を受ける事になりました。
これは、まだ少年と言えるような年齢だった彼らにとって、どれほど過酷な環境だったことでしょうか?
故郷から遠く離れた異国の地で、彼らはよそ者として孤独にさらされながら、バビロン帝国に属し、ネブカデネザル王に仕え、彼を神として崇める者となる様に、再教育されていったのです。

② 甘い誘惑のワナ
彼らが直面していたのは、そのような厳しい矯正としての教育だけではありません。
鞭があれば、飴もある。
若く、賢く、優秀な人材だったダニエルたちには、甘い誘惑のワナもしかけられていたのです。

王の元で仕えるダニエルたちには、それなりの権威も与えられ、素晴らしい暮らしが保証されました。
おいしい食べ物に、美しく着心地の良い着物、素晴らしい住まいが与えられました。
そして、地位も、名誉も、権威も、お金も、あらゆる力を手にする事ができるチャンスを与えられていたのです。
そのために必要なのは、過去の信仰や価値観をすべて捨て、バビロニア人として王に仕えるという事でした。
「我々のようになれば、幸せな人生を送ることができる。しかし、背くなら死あるのみ。」
このような、バビロン帝国のプレッシャーの元で、ダニエルたちは生きていかなかければなりませんでした。

さて、ここからがダニエルという預言者のすごいところです。
ダニエルたちは、バビロン帝国がしようとした洗脳を全て退け、自らの信仰を守ったのです。
彼らがどれほど徹底してバビロン帝国の影響を避けたかという事を、彼らが食べ物や飲み物にも気を配っていたことに伺う事ができます。

ダニエル1:8 ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。

ダニエルたちは、どうして王の食べるごちそうや葡萄酒を避けたのでしょうか?
ひとつには、それがすべて偶像に捧げられたものだったという背景があっただろうと思います。
そして、王と同じものを口にするという事は、彼らと価値観を共有することになるという事を知っていたのかもしれません。
一度その“味”を覚えてしまったら、そう簡単に離れる事はできないのです。
“清い”という言葉は原語では“分ける”という意味の言葉ですが、ダニエルたちは正に、自分たちをバビロニア人の文化から分ける事によって、清さを保ったのです。

ダニエルたちは、たくさんの覚悟をしなければならなかったでしょう。
自分たちを他の人々と分け、ますますよそ者として扱われる覚悟。
おいしい食べ物を退け、貧しい食事で我慢する覚悟。
目に見えるぜいたくや祝福を退ける覚悟。
人の権威に背き、神様に従う覚悟。
神様に信頼し、神様が助けて下さると最後まで信じる覚悟。
そのような覚悟とともに、信仰によって彼らは野菜と水だけを口にしました。
しかし、彼らの顔色は王のごちそうを食べていた誰よりも顔色がよく、からだも肥えていたと聖書には書かれています。

③ 私たちの戦い
さて、私たちもまた、ダニエルたちが直面していたのと同じようなプレッシャーや、誘惑の中で生活しているのではないでしょうか?
私たちが生きている世界は、神様が求めているものから離れた価値観を私たちに強要しようとします。
この世の価値観は、神と言う目に見えないものに自分の人生を委ねる事は愚かな事で、自分が道を切り開いていく事こそ素晴らしい生き方だと伝えます。
他人を助けるなどという事は後回しで、自分の権利を追求することが大切だと教えます。
自分がどのような人間として創られたかという事よりも、社会の歯車として他の人と同じようになる事を求められます。

しかしこの世界でお金を持ち、権力を持ち、力を持つならば、全てが自分の思いのままになると、私たちに信じさせようとします。
何かを持っている事、外見がどのようであるかという事、どのようなライフスタイルを送っているかという事が大切で、それがあれば幸せであるかのように教えます。

そんな世界の中にあって、神様は私たちに何を求めているのでしょうか?
神様は、ダニエルたちがバビロン帝国に反逆を起こし、戦う事を求めた…のではありません。
神様が求めていたのは、彼らがバビロン帝国の中で生き続ける事、しかしその価値観の中に飲み込まれず、神様の助けによってそこで輝きを放つことでした。

私たちは、今生きるこの世界から逃げ出したり、社会を破壊するように求められているのではありません。
神様が私たちに求めているのは、私たちもまた、この汚れた場所で生き続ける事。
しかし、その価値観に飲み込まれることなく、私たちがイエス様の光を輝かせて生きていくという事ではないでしょうか?

ダニエルがしたように、自分自身を守るために何かを避ける事も役に立つでしょう。
メディアを遮断したり、マテリアリズムに踊らされないように、テクノロジーから距離を置くことも有益かもしれません。
しかし何よりも大切なのは、私たちが神様を見上げ、神様が与えて下さる祝福を喜び、そこから目を離さないでいるという事です。

私たちがそのようにして、神様とともに道を歩むとき、
私たちクリスチャンがこの世界で生きていくために必要な知恵と力を、神様は与えて下さるのです。
ダニエルが、たくさんの知恵を力を与えられたように、私たちも神様により頼んで生きていこうではありませんか。
祈りましょう。

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