出エジプト18:13-26 『みんなで一緒に建て上げる教会』 2007/08/12 松田健太郎牧師

出エジプト 18:13~26
18:13 翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。
18:14 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」
18:15 モーセはしゅうとに答えた。「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。
18:16 彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」
18:17 するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。
18:18 あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。
18:19 さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。
18:20 あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。
18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。
18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。
18:23 もしあなたがこのことを行なえば、――神があなたに命じられるのですが、――あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」
18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。
18:25 モーセは、イスラエル全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた。
18:26 いつもは彼らが民をさばき、むずかしい事件はモーセのところに持って来たが、小さい事件は、みな彼ら自身でさばいた。

教会はビジネスではありません。
確かに、教会にたくさんの人が集まって欲しい、多くの人たちがイエス様の救いを受け入れ、体験し、共に礼拝を持つことができる教会になっていきたいという思いがあります。
人が集まるためには場所が必要です。
礼拝や集会をもつ場所を確保するという事は、それだけ経済的な負担も必要とします。
そのためには献金がある程度の額集まらなければならない。

でも人が集まり、献金が増えれば教会として大成功なのかと言えば、そうでありません。
社会で起こっている方法や法則を、そのまま移植すれば良いのではないのが教会なのです。

では、私達がこの世のものから学ぶべきものは何もないのでしょうか?
ある教会はそのように考えて、教会の伝統的なやり方だけにこだわってきました。
一軒一軒訪ねての個人伝道、それが伝道のあるべき形であるという方がいます。
あるいは、聖書には、ピアノやギターという楽器は出てこない。だから、賛美にそのような楽器を用いるべきではない。というような人もいるようです。
しかし、それはポイントがずれているように見えて仕方がありません。

実はイエス様がこの様な事を言っています。

ルカ 16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

このたとえ話しの解釈は少し難しいところなのですが、詳しい事は置いておいて必要な部分だけお話しするなら、この世的な方法論の中からも学ばなければならないとイエス様は言っているのです。

今日の箇所は、モーセが異教徒であったしゅうとのイテロから民を裁く方法を学びます。
人によっては、これはモーセの失敗であり、神様をないがしろにして異教徒に従ったのだと解釈する方もいますが、結果を見れば実に的を射ているアドバイスだと思います。

今日はイテロがしたアドバイスに私たちも耳を傾けて、教会のあり方について一緒に考えていきたいと思います。

① 牧師がではなく、みんなが建て上げる
モーセは、いつものように朝から夕方まで裁きの座に着き、人々はモーセのところにやってきては全てのことについて指示をうかがっていました。
それを見たしゅうとのイテロはびっくりしたようです。
モーセが、ひとりで全ての人々の問題を裁いていたからです。

18:14 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」
18:15 モーセはしゅうとに答えた。「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。18:16 彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」

神様の声を直接聞き、神様の御心を伝えるのは、預言者であるモーセの仕事でした。
モーセだけが神様の御心を知る事ができる。
正確に、正しい裁きを下す事ができるのはモーセだけだと、民もモーセ自身も考えていたのでしょう。
確かに、神様と顔と顔をあわせて話したのはモーセだけでしたから、この様なやり方が定着するのも当然かもしれません。
しかし、それは恐ろしく非効率的だったのです。

モーセは何百万もいた人々の問題に対してひとりで立ち向かい、裁いていかなければなりませんでした。
中には、本当に小さな問題のためにわざわざモーセのところにくるような人たちもいたでしょう。
「今日の晩ごはんは何にしたらいいでしょうか?」
「部屋の模様替えをしようと思うのですが、鉢植えはどこに移動したらいいでしょうか?」

まぁ、それは冗談としても、民の全ての問題と向き合ってしまうと、モーセは一日の大半をそのために用いなければならなくなってしまうのです。
結果として、なすべき他の事ができません。
モーセが家族と共に過ごす時間もなくなってしまう。
モーセが重荷を背負い過ぎて、やがてはつぶれていってしまう。
そして、イスラエルの人々は判断を全てモーセに委ねきってしまうわけですから、ひとりひとりの判断力は成長できない。
それどころかどんどん衰えていく事になるのです。

先日、ある教会のセミナーでこの様な話を聞きました。
「日本の多くの教会が、ボクシング型の教会となっている。」
つまり、牧師だけがリングの上で戦い、後の信徒は観客となっていると言うんですね。
信徒はリングの周りにいて牧師の応援をする。
ボクサーがそれだけ打たれてボロボロになっても、観客が交代したりはしません。
だから多くの牧師がノックアウトされて、そのままつぶれていってしまう。
モーセのやり方もこの様な導き方でした。

しかし、イテロはそのやり方ではダメだと言いうのです。

18:17 するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。
18:18 あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。

ひとりの人が全ての事を支えてしまう集団の中では、ほとんどの人たちが成長するという事がありません。
そうですね、ボクシングを見に行って体が鍛えられたという観客はいません。
「今日は良い試合だったなぁ。」で終わってしまうのです。

教会のあり方は、ボクシングのような個人競技ではなく、野球やサッカーのようなチーム競技です。
ゲームに出場する9人や11人だけでなく、限りなくいるメンバーを監督が鍛え、訓練し、整えていくわけですね。
牧師の役割は選手ではなく、監督なのです。
牧師が戦うのではなく、皆さんが戦いの中にあるのです。


イテロはモーセに対し、この様なアドバイスをしました。

18:19 さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。
18:20 あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。
18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。
18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。

人々が自分自身で神様の御心を判断し、決断する事ができる土台を作ること。
さらにそれぞれを取りまとめるリーダーを何人ごとかに立て、その小リーダーを中心にして、互いを導く事ができるようにするという事です。

この時代に、人々が神様の御心を知る手がかりになったのは律法でしたから、モーセがおきてと教えを指導する事を通して、人々はなすべき事を自分で判断する事ができるようになったわけです。

聖霊が与えられている、現代の私達の戦いはそれだけに留まりません。
パウロはそれよりもう少し上のことを、信徒たちに求めています。

Iコリント 12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

エペソ 4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

私達が、教会での“奉仕”という言い方をする時、そこにはなんとなく、教会での仕事とか、ボランティア活動というようなイメージがあるのではないでしょうか?
しかし、日本語で“奉仕”と訳されている言葉は、英語では“ミニストリー”という言葉が使われています。

ミニストリーというのは、神様に与えられた使命に従った特別な働きです。
それは礼拝の中に具体的にかかわりをもつ積極的な奉仕だけの事ではありません。
会計も、礼拝堂の掃除も、愛餐会の食事の準備も、あるいは名前すらついていないような、例えば新しく来た人に声をかけたり、最近来ていないメンバーに連絡して様子をうかがってみたり、教会の皆さんに本やイベントを紹介する働きも、全てミニストリーの一部です。

ミニストリーは、教会の中だけのことですらありません。
私達が教会の外で、他の人と接するとき、私達は地の塩であり、世の光となります。
それもまた、大きなミニストリーなのです。

私達はベテランだからとか、聖書の知識を十分に身につけたからという理由でミニストリーに携わるのではありません。
だから、「もう少し色々学んでからミニストリーに入ります。」というのは間違っています。
私達がクリスチャンであるという事は、私たちにはすでに使命が与えられていて、そのミニストリーの只中に置かれているという事なのです。
そして、その働きを通して、私達は成長していくのです。

皆さんが加わる事を招かれているミニストリーは何でしょうか?
まずはそれを祈り求めるところから始めてみてはいかがでしょうか?


最後に、もう一つの事をお話しして今日のメッセージを締めくくりたいと思います。
私達教会は、キリストを頭とする一つの体であると、聖書にかかれています。
体には不必要な箇所などひとつもない、というのが主旨なのですが、私達は小指のつめの先のような自分の働きより、心臓のようなあの人の働きの方が重要だと考えてしまったりしないでしょうか?

あるいは、タラントのたとえ話があります。
お金持ちの主人が自分の家をしばらく離れるとき、ある僕には5タラント、あるしもべには2タラント、そしてあるしもべには1タラント預けたという話です。
私達は、どうして神様は、あの人には5タラントなのに、自分には1タラントだけしか預けなかったんだろうと思ってしまうかもしれません。

そんな時、ひとつの事を思い出していただきたいのです。
タラントを預けた主人が帰ってきたとき、5タラント預かったしもべはそれを元手に10タラントに増やし、2タラント預かったしもべは4タラントに増やしました。
1タラントしか預けられなかったしもべはそれを土の中に埋めて、そのまま主人に返しました。
私達は勘違いしてしまうのですが、ここでのポイントは、しもべ達がどれだけ増やしたのかという事ではありません。
この話しのポイントはここにあります。

マタイ 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

大切なのは、わずかな物に忠実であるという事です。
私たちに今預けられている神様からの賜物は、ほんの小さな、わずかなものなのかもしれません。
これでは大きな働きなどできるはずがない。

そう、大きな働きなど、初めから求められてはいないのです。
私達は、今与えられている小さなことに忠実でありましょう。
私達が他の人たちをうらやまなくても、今与えられているものに忠実ならば、今度はもっとたくさんのものを任されるようになるのです。
しかし、他人と比較ばかりしてふてくされてしまい、自分に与えられているものを見ようともしないのなら、あるいは自分の働きなんて重要ではないから、適当にやっていれば良いのだと思っているなら、私達に大きな働きなどできるはずがないのです。

マタイ 25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

私達が与えられている小さなものに見向きもしないなら、私達はやがてそれをも失うことになるでしょう。

今、みなさんに与えられているものを手にとって見てください。
そして、その賜物にあったミニストリーを求めて祈り、始める事です。
自分のなすべき事が見つからないなら、一緒に祈りもとめましょう。
また、自分に与えられたミニストリーが見つかったなら、やはり共に祈りましょう。

ひとりで祈る必要はありません。
共に祈り、励ましあうのが、私たち主にある兄弟姉妹にできる最善の事なのですから。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です