出エジプト1:8-14, 2:1-10 『絶望の中にこそ』2007/04/15 松田健太郎牧師

出エジプト 1:8~14、2:1~10
1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。
1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」
1:11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。
1:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、
1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

2:1 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。
2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。
2:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。
2:4 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、
2:5 パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。
2:6 それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです。」と言った。
2:7 そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」
2:8 パロの娘が「そうしておくれ。」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んで来た。
2:9 パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
2:10 その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言ったからである。

物事がうまく動き始めていたのに、突然道が閉ざされて、にっちもさっちもいかなくなるという経験はないでしょうか?
もしかすると、皆さんは今まさにそういう時を経験していらっしゃるかもしれません。
今日のメッセージは、その様な方々に聞いていただきたいメッセージです。
これまでに何度もそういう状況を潜り抜けてきましたという方もいるかもしれません。
また、今はまだ経験がない方も、これから経験することになるでしょう。
そういう方には、やがてそのような苦難に立たされたときに、思い出していただきたいメッセージです。

今日から、メッセージはまた新しいシリーズに入っていきます。
しばらく新約聖書からのお話が続いていましたが、旧約聖書に戻る事になりますね。

「旧約聖書はなんだか怖い感じがする。」
「やさしいイエス様がいる新約聖書の方が好きだ」という人が多いようです。
そんな話をよくきくのですが、僕は旧約聖書からお話をするのが大好きです。

一見厳しい事ばかり並べ立てられているように感じる旧約聖書の中にも、恵みと赦しはあふれていて、それを発見した時の喜びはひとしおだからです。
何千年という大きな歴史の流れの中でこそ、私達は偉大な創造主、神様の高さ、長さ、深さをより理解し、その愛と恵みの大きさを知る事ができるのではないでしょうか。

しばらくは出エジプトからお話していく事になりますが、間にレビ記、民数記、申命記といった律法書にも触れながら進めていきたいと思っています。
もしかしたら創世記のシリーズより時間がかかるかもしれません。
何しろやってみないとどうなるかは全くわかりませんが、モーセの物語を通して、聖書の中にしみ込んでいる神様の恵みを惜しみなく抽出していきたいと思っています。

① 最悪の環境
さて、皆さんには創世記の最後の部分まで記憶を戻していただきたいのですが、話を覚えているでしょうか?

創世記の中で、神様はアブラハムにいくつかの約束を与えました。
それは、大きく言ってふたつの約束です。
ひとつはカナンの膨大な地が与えられるという事。
そして、アブラハムの子孫は星の数程に増やされ、それが神様に選ばれた契約の民となるという約束でした。

そのアブラハムからは、イシュマエルとイサクが生まれ、弟であったイサクにその約束は引き継がれました。
イサクからは、エサウとヤコブというふたりの子供が生まれ、弟であったヤコブにその約束が引き継がれました。
そしてヤコブが神様と出会ったとき、ヤコブの名前はイスラエルと変えられ、アブラハムに約束されていた契約の民族は、12人のイスラエルの子供達から始まる事になりました。

イスラエルの12人の息子達の中で、中心人物として描かれていたのは、11人目の息子だったヨセフという人物でしたね。
ヨセフは他の兄弟から嫉妬され、その憎しみがあまりにも大きかったために実の兄弟達から奴隷としてエジプト売られてしまいました。
その後ヨセフは数奇な運命をたどり、奴隷として売られた国であるエジプトの大臣として任命されるにいたったのです。

大臣としての権威を持ったヨセフは、それでも兄弟達に復讐をしようとはしませんでした。
それどころから、ヨセフは自分を奴隷として売ってしまった兄弟達と和解し、エジプトに迎え入れたのです。
そんな出来事が起こってから、数百年あまりの月日が経たのが、これから始まる出エジプトの舞台背景です。

この間に、イスラエルの子孫達は、ものすごい早さで増え広がっていきました。
それは神様の特別な祝福でもあり、計画でもありました。
ヨセフを初めとする12人の兄弟達から、イスラエルの12部族が始まり、子孫が星の数ほどになると言われていたアブラハムへの約束が、ここから現実のものとなっていくのです。

しかし、大きな問題点も残されています。
今彼らがいるのは、エジプトです。
でも神様に約束されていた地は、遠く離れたカナンなのです。
そしてエジプトから出たいと思っても自由に出て行くことなどできない、奴隷になってしまっていたということです。

ヨセフはエジプトの大臣になったはずでした。
そして大臣の家族として招かれたヨセフの家族達は、大切な客人として招かれたはずです。
どうして大臣から、奴隷になってしまったのでしょうか?

出エジプト 1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

ただ単にヨセフを知らない王様が王位についたというだけなら、イスラエルが奴隷とされた事には説明がつきません。

その理由は、歴史的な背景の中にあります。

中国という広大な土地を、漢や清という多くの民族が統治してきたように、エジプトも多くの民族と王朝が起こり、支配権を争っていたという事です。
イスラエルがエジプトに移住してからこれまでの間に、エジプトは何度も別の民族によって奪われ、当時とはまったく違う王朝、支配体系の上に、彼らは置かれていたのです。

新しい支配者達は、イスラエルの民族を危険視しました。
パロはことさらに重労働を人々に課し、何とかして押さえつけてしまおうとしました。
しかし、押さえつけようとすればする程に強くなり、増えていくイスラエルに、パロは、とうとう恐ろしい命令を出すことになったのです。

パロは、へブル人(イスラエルの民族の別の呼び方)の助産婦を呼び出して、このように命令しました。
「へブル人の助産をする時、生まれてきた子供が女であればそのまま生かし、男であれば死産に見せかけて殺してしまえ。」

それは本当に恐ろしい命令でしたが、パロよりも神様を恐れた助産婦達がそれを拒むと、今度は他の全ての民に命令を下しました。
「へブル人が男の子供を生んだら、川に投げ入れて全て殺してしまえ!」というのです。
イスラエルはこうして、エジプトからの圧制だけでなく、虐殺という恐ろしい状況の中に置かれてしまいました。

出エジプトという神様の栄光にあふれた物語は、この様に暗く、絶望的なときから幕を開きます。

私達は自分が幸せで、調子のいいときに神様の祝福を感じ、幸せな時にこそ神様が私達の人生に関わってくださっていると実感します。
でも、実は大きな祝福というのは、大きな苦難、苦しみの後に訪れるものだと聖書は教えてくれているのです。

みなさんの中で、いま苦しい状況にある方はいらっしゃるでしょうか?
クリスチャンになってしまったがゆえに、今まではなかった苦難を経験しているというかたはいるでしょうか?
実は、それは何も驚くような事ではないのです。
神の民は、必ず苦しみを味わう。しかし、その後にその苦しみを上回る、はるかに素晴らしい恵みと祝福が備えられていると聖書には告げられているのだからです。

Iペテロ 5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

② モーセの誕生
さて、そんな困難な状況の中、イスラエルの中のレビ族の夫婦、アムラムとヨケベデという夫婦に、ひとりの男の子が授かりました。
男の子ですから、本来ならばパロの命令どおり、川に投げ捨てて殺さなければなりません。
しかし、夫婦はその子供があまりにもかわいいのを見て、殺すのに忍びませんでした。
彼らは3ヶ月間、その子を隠していたと聖書には書かれています。

しかし、赤ん坊というのは成長するものです。
3ヶ月もすると泣き声も大きくなり、とうとう隠し通す事はできなくなってしまいました。
彼らはついに、パロの命令どおり川に流す事を決断したのです。
それでも、溺れ死なせる事はとてもできず、最後の望みを託して、パピルス製のかごの内側にアスファルトと樹脂を塗り、それに赤ん坊を乗せて流す事にしました。
そんな事をして、何になるでしょう。
しかし、共に過ごしたわが子が目の前で死んでいくのを見る事は、彼らには耐えられなかったに違いありません。

実はここでかごと訳されている言葉は、ノアの箱舟の箱舟と同じ言葉が使われています。
これを書いたモーセは、あえて同じ言葉を使ったのでしょうね。
赤ん坊を救う事になったそのかごを、洪水からノア達を救った箱舟と見立てたのでしょう。

こうして、赤ん坊を乗せた箱舟は解き放たれ、ナイルの川を下り始めました。
その傍には、赤ん坊のお姉さん、ミリヤムが箱舟の行方を可能な限り見届けようと、後を追っていました。
まだ幼かったミリヤムは、自分の弟が誰かの手で救われる事を信じて、それを見届けようとしていたのかもしれません。
あるいは、川に潜むカバやワニから赤ん坊を守ろうとしていたのかもしれません。
しかし赤ん坊を乗せた箱舟は、程なく高貴な人々が使う水浴び場に入っていきました。
そしてそこには人影があったのです。

ミリヤムは息を飲んだことでしょう。
拾ってもらえるチャンスではあるかもしれませんが、パロが命じたお達しから考えれば、それがヘブル人の男の子だと知れた途端に殺されてしまう可能性のほうが、圧倒的に大きかったはずです。
ミリヤムは、固唾をのんで様子を見守りました。

その水浴び場にいたのは、なんとパロの娘でした。
そしてその時、神様がこの王女の心に働きかけたのです。
侍女の拾い上げたかごに入っていたのがヘブル人の男の子だと知った王女は、泣いているその子供を見てかわいそうに思いました。
そして、その子供を自分が引き取る事にしたのです。

パロは、ヘブル人の男の子を皆殺しにするように命じていたのです。
しかしその娘が、哀れみによってこの子供を救い出しました。
これがパロの娘でなかったら、同じ決断をしても、事が知れるやパロに罰せられ、この子が死ぬ運命に変わりはなかったかもしれません。
また、男の赤子を皆殺しにしろと命じたパロの娘が、この様な哀れみをもった人物だと誰に想像できたでしょうか。
さらに、この時王女の心が動かされなければ、彼女は見てみぬ振りをすることだってできたでしょう。

この時、この赤ん坊が助かる方法はこれしかなく、それは万にひとつの可能性もないような出来事でした。
神様の計画がなる時は、このようなものです。
今の私達にはとてもありえないと思えるような事があります。
しかし、それが神様の計画であれば、必ず現実のものとなるのです。

箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。


さて、自分の弟が拾い上げられたのを見たミリヤムは、とっさに飛び出していき、大胆にも王女に向かってひとつの提案をしました。

出エジプト 2:7 そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」

ある資料に寄れば、当時のエジプトの婦人は外国人のためには乳母にならないという話もあります。
だとすれば、へブル人の子供はヘブル人の乳母に育てさせるというのが理に適っているかもしれません。
そうは言っても、突然現れた奴隷の娘の話を一蹴して、別の乳母を見つけさせる選択も王女にはあったはずです。
ここでも、神様の摂理は王女の心を動かしたのです。

2:8 パロの娘が「そうしておくれ。」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んで来た。
2:9 パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。

水の中から引き出したその子供を、王女は「引き出す」という意味の「モーセ」と名づけました。
これから80年後、このモーセがイスラエルの民を引き連れて、このエジプトから脱出する事になるのです。
この様にしてイスラエルの指導者モーセは、驚くべき出来事をもってその生涯を始めました。

新しいパロからの圧制を受け、奴隷となり、男の乳児を皆殺しにしろという恐ろしい命令まで受けた絶望的な状況に彼らは置かれていたはずでした。しかし、
・ この時に生まれたこのひとりの赤ん坊は、その様な状況の中、3ヶ月間両親のもとに守られた置かれたこと。
・ それが絶妙なタイミングを作り出し、その後かごに乗せられてナイルに流された時、たまたま水浴びに出ていたパロの娘がその子と出会えた事。
・ 男の乳児を殺せという残虐な命令を出したパロの娘が、あわれみをもってモーセを拾い上げ、自分の息子として育てる決断をした事。
・ その子供が乳離れするまでの3年間は、その子供自身の母親が乳母として雇われ、彼らは王女からの援助を受けて自分の子供を育てる事ができた事。
・ 将来イスラエルの指導者となっていくモーセが、王女の家庭に育てられる事によって、最高の教育を受ける事ができた事。
その全てが、神様の御心によって現実のものとなったのです。

今、皆さんの周りにある状況で、絶望的に見えるような事はあるでしょうか?
そこに神様の御心がある時、どのような不可能も、可能になるのです。
今、皆さんの周りに皆さんを滅ぼそうとするような悪意はあるでしょうか?
神様の愛と摂理は、どんな人間の悪意をも超越して私達を守ることができるのです。

私達は、絶望の中にこそ、神様のお力を見るチャンスが与えられています。
そして、その様な苦難の後に、必ず素晴らしい恵みと祝福が待っているのを、私達は期待して待つことができます。
皆さんには、その様な信仰があるでしょうか?
神様を信頼してください。
その様な状況も、いや、絶望の中でこそ、神様は全てを益と変えてくださるお方だからです。

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