出エジプト6:1-8 『現実か真実か』 2007/06/17 松田健太郎牧師

出エジプト 6:1~8
6:1 それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」
6:2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。
6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」

私達は試練や困難の中にあるとき、進むべき道を見失ってしまう事があります。
「聖書にはそう書いてあるけれど、そううまくいくはずがない。」
「神様はそういうかもしれないけれど、現実を考えると不可能だ。」
私達がそんな風にいう時には、現実と信仰がかけ離れたものであるように感じてしまうのかもしれません。

神様がモーセに命じられた事は、現実的に考えて絶対に実行不可能なものでした。
奴隷とされた何百万というイスラエルの人々を、大国エジプトから解放するというのですから、モーセが怖気づいてしまうのも無理ありません。
しかし、モーセがもし現実というものに囚われて、諦めてしまっていたとしたらどうなっていたでしょうか?

イエス様が、誰も信じない故郷では奇跡を起こす事がなかったように、奇跡は起こらなかったのではないでしょうか?
そして奇跡が起こらない限り、イスラエルが開放されるなどということは、絶対に起こらなかったのではないでしょうか。

ですから、神様はモーセが諦めてしまわないように、直接彼に語りかけ励まし続けました。
そしてモーセがその励ましを受け取り、神様への信頼を新たにした時、イスラエル開放への道が開かれていったのです。

今日はこれから、イスラエルがどのようにしてエジプトから解放されていったか。
イスラエルの開放に向けて、どのような奇跡が展開されていったかを共に見ていきます。
それを通して、私達が信じて神様に全てを委ねる時、どのような事が起こりえるのかを、考えていく事ができれば幸いです。

① 奇跡を見分ける
さて、神様からの励ましを受けたモーセは、もう一度パロのもとへと出向いていきました。
前回はおっかなびっくりでパロと会い、全てが否定される答えの中、惨めな気分で帰ることとなりましたが、今回はそうではありませんでした。
そこには、しるしと奇跡を約束されていた事、そして神様を信頼する確かな信仰があったということです。

モーセは神様が命じられたように、アロンに杖を投げるように言うと、アロンの杖は蛇に変わりました。
それは、彼らがイスラエルの長老達の前で見せたのと同じ奇跡です。
蛇に象徴されているエジプトが、モーセとアロンの手に渡された事を意味していましたね。

ところが、パロが呪術師達を呼び寄せると、彼らも秘術を使って同じ事をしました。
自分達の杖を彼らが投げると、その杖もまた蛇に変わったのです。

このとき、エジプトの呪術師がしたのは、単なるトリックだったのかもしれません。
それでも、傍目にはまったく同じ事が起こったようにしか見えませんでした。
そこで、私達が気をつけなければならない事があります。
私達は奇跡というものに目を奪われすぎてはならないという事です。

世の中にはいろいろ不思議な事をする人たちがいます。
スプーンを曲げたり、守護霊を通して色々な事を言い当てたり、何もないところからロレックスの時計を出現させたり、テレビを見ていれば色々な力を見ることができますね。
でも、そこに不思議があるからといってそれが神様からのものだとは限りません。
この世界には、自分が神であるかのように振舞うために色々な嘘やトリックがあるし、私たちを神様から引き離そうとする悪魔や悪霊の力も働いているからです。

もちろん、神様の力がそのようなトリックや悪魔の力に劣るなどという事はありません。
アロンの杖は、エジプトの呪術師たちが出現させた2匹の蛇をまるまる飲み込んでしまいました。
私達が、神様以外からきた不思議な力を恐れる必要はまったくないでしょう。

私達はただ、その力が神様からのものか、悪魔からのものかを見分けなければならないのです。
その奇跡によって、栄光が神様に帰されないのであれば、それは神様からの力ではないでしょう。
そこでひとつ間違えると、不思議を起こしたその人を神とし、あがめる事になってしまいます。
私達は不思議そのものではなく、不思議を起こしている様に見えるその人物ではなく、神様に焦点を定め、それを通して神様が示していらっしゃる事を求めるべきではないでしょうか。

② 10の災害
パロは神様を認めることなく、むしろ自分を神としたまま、イスラエルを開放しようとはしませんでした。
パロが神様の勧告を無視して、ヘブル人達を解放しようとしない以上、いよいよ神様からの直接介入によるしか方法はありません。
このようにしてエジプトは、10の災害を招く事になったのです。

そこでひとつの疑問が浮かんできませんか?
どうしてエジプトは10もの災害に見舞われることになってしまったのでしょう。
神様は、そんなに何度も苦しい目にあわせなくても、一度の鉄槌でイスラエルを開放する事が可能だったのではないでしょうか?
例えば、10番目の災いだけで決着はついたのではないでしょうか。
いいえ。もちろん、ここにも重要な意味があったのです。

それは、この当時のエジプト人たちの神概念に関係があります。
彼らは、神々がそれぞれの領地を支配していて、その領地が広くて豊かであるほど、その神の力が強いのだと信じていました。
だからこそ、土地ももたない奴隷の神の言う事に従う必要を、パロはまったく感じなかったのです。
その概念は、ひとりの神の信仰を受け継いできてはいても、長い奴隷生活の中で異国の信仰にさらされてきたイスラエルの人々にも影響を与えていました。

ひとつにはパロやエジプト人たちに本当の神を知らしめるため、不安に陥っているイスラエルの人々を引き上げるため、そして神様の栄光を世界に広めるためにも、10の災害によってエジプトの神々の無力さが明らかにされなければならなかったのです。
ここでエジプトに起こった10の災いがどのようなものだったかを見てみましょう。

1:ナイルの水が血に変わる(7:17~25)
2:かえる(8:2~14)
3:ぶよ(8:16~19)
4:あぶ(8:21~24)
5:家畜の疫病(9:2~7)
6:腫物(9:8~11)
7:雹(9:22~33)
8:いなご(10:4~15)
9:闇(10:21~23)
10:初子が死ぬ(11:1~12:30)

ここに挙げられたものは、すべてエジプト人たちが神々としてあがめていたものだったり、神々によって護られているエジプトが害を受けるはずのないものや、むしろ益をもたらしてくれるはずのものでした。
彼らが信じていた偶像が、こぞって彼らを苦しめるような事となったのです。
人々が偶像の無力さを思い知るのに、これほどの方法はなかった事でしょう。
こうして、現実を考えると不可能としか思えなかったエジプトからの脱出が、イスラエルの人々の上に実現していったのです。

私達が普段、「これこそ現実だ」と思っているものがあります。
聖書のような価値観で生きていけたら素晴らしいだろうけれど、現実を考えると、会社にそのような価値観を持ち込む事はできないのではないか?
現実を考えると、クリスチャンではない人の方が多いのだから、クリスチャンであり続ける事は難しすぎるのではないか?
私の両親や夫がクリスチャンになる事など、現実的に不可能だ。
私の傷ついた心が癒される事なんて、絶対にありえない。

そのような、私達が“現実的”だと思っているものは、実は自分達が作り出した価値基準でしかありません。
私達が勝手に限界をつくり、これ以上の事はありえないと決め付けてしまっているのです。
ある事が実現するかどうかを決めるのは、私たちではありません。
真実は、私たちの考える現実を大きく上回るものなのです。

③ パロの視点から
そう考えた時、ここに描かれているパロもまた、現実というものに囚われて真実を見ることができなかったひとりの人だったということが見えてきます。

パロにしてみれば、世界の創造主に逆らっているなどという意識は毛頭なかったでしょう。
エジプトが神々に護られていて、自分もその一人であるということは、エジプト中の人々が知っている常識のようなものでした。
彼らにとっては、それこそが現実だったのです。
神として崇められるその姿でさえ、自分を自分自身の神とする私達の罪の性質を考えればわからない話ではありません。

呪術師により頼んで、神様の奇跡と同じような事をさせ、神様の力を大した事がないように思おうとする姿も、何だか親近感が沸いてきませんか?

みなさん、クリスチャンになる前の私たちの中にもパロがいたのではないでしょうか。
私達の内にいるパロが、私達の罪からの開放を邪魔し、心を罪に繋ぎとめようとしていたのです。
だから、私達が罪から解放されて、イエス様の十字架を受け入れる事ができるまでに、エジプトが10の災害に見舞われたようにたくさんの痛みを経験しなければならなかったという人も少なくはありません。

もちろん、出エジプトに出てくるパロほど頑固なのでなければ、それほどの痛みを経験せずにイエス様を受け入れる事ができるはずです。
皆さんはどうだったでしょうか?
そして、まだイエス様を受け入れていないみなさんはどうでしょうか?
パロの頑固さをもって、神様と戦おうとしてしまってはいないでしょうか。
皆さんの心に、せめて少しの柔軟さが与えられる事を心から願います。

 

最後に、パロや呪術師のとった行動のおかしかったところを一緒に振り返りながら、今日のメッセージを終えたいと思います。

8:5 主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」
8:6 アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。
8:7 呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。
8:8 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる。」
8:9 モーセはパロに言った。「かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけてください。」
8:10 パロが「あす。」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。
8:11 かえるは、あなたとあなたの家とあなたの家臣と、あなたの民から離れて、ナイルにだけ残りましょう。」

奇跡によって、かえるがエジプト中にあふれかえった時、エジプトの呪術師たちは自分達にも同じ事ができる事を証明するために、モーセやアロンと同じようにかえるを這い上がらせました。

これもおかしな話ですね。
もし彼らに、本当に奇跡を起こす力があるのなら、かえるを消し去ればよかったのです。
しかし、結果的に彼らがした事は自分の首を絞めることでしかありませんでした。
私達の敵には、奇跡を解明してみせたり、秘術を尽くして同じ事をしてみたりする事はできても、神様の業を打ち破る事はできません。
私たちを神様から引き離し、“神はいない”とささやくどんな声にも、私達は耳を貸す必要がないという事でしょうね。

さて、パロの態度もまた傑作です。
かえるが国中に満ち溢れて我慢ならなくなったとき、「かえるがいなくなるようにいつ祈ったらいいか 」とたずねるモーセに、パロは「今すぐに」ではなく、「あす」と答えました。
嫌で嫌で仕方がない状態なのに、そこから開放されるなら、早ければ早いほどいいはずなのに、どうして明日まで待つのでしょうか?

でも、私たちも同じですですよね。
その決断が良い結果になると本当にわかっているなら、私達はどうしてそれを先延ばしにしてしまうのですか?

変化に対する恐れでしょうか?
プライドの高さのためでしょうか?
現実に囚われているのでしょうか?
それとも、頑固さのためでしょうか?

今が決断のときです。
皆さんが10の災いなど待つまでもなく、天の御国に戻る事ができますように。

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