出エジプト40:1-16 『聖なる幕屋』 2009/06/21 松田健太郎牧師

出エジプト 40:1~16
40:1 主はモーセに告げて仰せられた。
40:2 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。
40:3 その中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前を仕切り、
40:4 机を入れ、その備品を並べ、燭台を入れ、そのともしび皿を上げる。
40:5 あなたは香のための金の壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入口に掛ける。
40:6 会見の天幕である幕屋の入口の前に、全焼のいけにえの祭壇を据え、
40:7 会見の天幕と祭壇との間に洗盤を据えて、これに水を入れる。
40:8 回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛ける。
40:9 あなたは、そそぎの油を取って、幕屋とその中のすべてのものにそそぎ、それと、そのすべての用具とを聖別する。それは聖なるものとなる。
40:10 あなたは全焼のいけにえの祭壇と、そのすべての用具に油をそそぎ、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。
40:11 洗盤とその台とに油をそそいで、これを聖別する。
40:12 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗い、
40:13 アロンに聖なる装束を着けさせ、彼に油をそそぎ彼を聖別する。彼は祭司としてわたしに仕える。
40:14 彼の子らを近づかせ、これに長服を着せなければならない。
40:15 あなたは、彼らの父に油をそそいだように、彼らにも油をそそぐ。彼らは祭司としてわたしに仕える。彼らが油をそそがれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」
40:16 モーセはそのようにした。すべて主が彼に命じられたとおりを行なった。

最近いらした方のために説明しておかなければなりませんが、私たちの教会では、礼拝の後にあるスモールグループや子供たちの日曜学校に連動して、“成長”というテキストに沿った聖書箇所からメッセージをしてきました。
今年の4月からは、成長からは少し離れたメッセージをしばらくやってきましたが、そろそろ成長のシリーズに戻りたいと思っているんです。

成長の方は今、出エジプトの話が終盤に差し掛かっているところです。
私たちの教会では、2007年に一年近くかけてお話しましたが、2年越しで出エジプトに合流したことになりますね。
そんな中で今日は、2年前にはお話しすることができなかった幕屋について、お話したいと思っています。

モーセの時代、イスラエルは奴隷として暮らしていたエジプトから脱出し、40年間を荒野でさ迷っていました。
その間に、神様は彼らに幕屋とか、会見の天幕と呼ばれるものを作るように命じたんです。
幕屋というのは、簡単に言ってしまえば組み立て式の神殿です。
人々はそこで生贄をささげ、神様に礼拝をしました。
聖書の中には、幕屋がどのようなものであったかという記述が事細かに記されています。
でも、言葉で読むだけでは、私たちにはそれがどのようなもので、どれくらいの大きさがあったのかという事がよくわかりません。

そこでイスラエルには、この幕屋を実際に再現したものが作られました。
本当は私たちは、その場に行って、実際にその幕屋を見る事ができたら素晴らしいですね。
今日は、イスラエルに何度も行って精通している、ハーベストタイムの中川健一先生の案内で、その幕屋を見てみましょう。

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私たちひとりひとりが創られたことに目的と意味があるように、神様が作りなさいと言われたものにも、必ずその目的と意味があります。
幕屋とは、人々が神様と出会い、神様が共にいて下さることを体験するための場所です。

そして幕屋のすべてが、イエス・キリストを指し示す型として与えられたという事は、今を生きる私たちはイエス様を通して神様と出会い、イエス様によって、主が共にいて下さることを体験する事ができるという事です。

もうひとつ、神様が幕屋を作るように言われたのは、人々の礼拝のためでした。
そして、幕屋を通して表される礼拝とは、生贄を捧げるという事です。
皆さんにとって、日曜日に教会に来て礼拝に参加するとはどのような意味を持っていますか?
私たちは何かを学んだり、何か心に残る体験をした時など、自分が何かを受けた時に“いい礼拝だった”と感じるのではないでしょうか?
私たちは教会のみんなに会うという事や、メッセージを聞くという事だけが礼拝になってしまいがちです。
それも大切な事ではあるでしょうが、しかし礼拝の本質は捧げることにあるという事を、私たちは忘れてはなりません。

新約聖書の中でも、このように表されています。

ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

自分自身を主に捧げるという事は、私たちが何を置いても神様の導きに従うという事です。
それは、自分の夢や目標を持ってはいけないということではありません。
しかし、神様の導きが自分の思いとは違うところにあった時、私たちは自分の夢や目標を犠牲にしても神様に従うという事が求められています。

私たちがそのような主の導きに耳を澄まし、自分自身を捧げる備えをするためにメッセージを聴くのです。
私たちがそのようにして、自分自身を捧げて、人生を主に明け渡すのでなければ、私たちがどんな素晴らしいメッセージを聴いて感動したとしても、どんなに楽しい時間を過ごして慰めを受けたとしても、あまり意味はありません。
感動や慰めを受けるだけなら、私たちは家でテレビを観ていたり、本を読んでいたって十分な感動を経験する事ができるのではないでしょうか。

しかし、私たちが自分で握り締めているものから手を話し、自分の力で掴み取ろうとしているものをあきらめて主に従う時、私たちは自分で得る事ができるよりも、もっと素晴らしいものを受け取る事ができるのです。
それは、主が私たちのために与えてくださる祝福です。
皆さんが、その祝福をいっぱいに受け取る事ができますように。

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