出エジプト40:34-38 『雲が上がるとき』 2008/01/06 松田健太郎牧師

出エジプト記 40:34~38
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

みなさん、こうして無事に2008年を始める事ができる事を心から感謝します。
新しい年を始めるに当たって、日本では今年の抱負を決めるということがよくありますが、皆さんの今年の抱負はなんですか?
メタボリック症候群が気になるお年頃の僕は、今年中に5kgくらいダイエットしようと思っています。
5kg程度の減量ですから、まぁあまり大きな抱負ではありませんね。
できればなるべく早いうちに5kg落として、それを持続させる事を目標としたいものです。

さて、教会にとっては、今年はもっと大きな変化の年となるそうな予感があります。
僕がこの教会の牧師とて就任してから2年半が経ちますが、実は牧師になる頃に、僕が聖書を読む中で神様から個人的に与えられていた言葉があるのです。
僕自身どのような意味なのか量りかねていた部分もあって、誰にも言ってこなかったのですが、イザヤ書の中のこの様な言葉なのです。

あなたへのしるしは次のとおりである。
ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、
二年目も、またそれから生えたものを食べ、
三年目は、種を蒔いて刈り入れ、
ぶどう畑を作ってその実を食べる。(イザヤ 37:30)

これは聖書の中の話としては、アッシリア王国に侵略を受けたイスラエルが回復していく上で、一年目や二年目には十分な収穫に恵まれないけれど、三年目からは大きな豊作に恵まれるだろうという預言です。
本来私たちの教会とは直接何の関係もない所ですが、この聖書箇所が心に残り、ひとつの預言的なメッセージとして受け取りました。
まぁよくわからないなりに、3年目に何かあるんだな、とその時には思ったのです。

でもその時点ではまだまだずっと先の事だと思いましたし、勝手な思い込みかもしれないとも思って、僕はその事をすっかり忘れてしまっていました。
ところが先日、この箇所に線が引いてあるのを見つけて、その時に感じた特別な思いが甦りました。
そしてよく考えてみると、牧師としての3年目はすでに始まって半分近く経っているんですね。

そうして考えてみると、色々な事に思い当たります。
実は、僕が洗礼を授ける機会を得たのは、牧師として3年目に入ってからなんですね。
まずは井上さんのお兄さん、そして小西湧くん。
さらに、今日から洗礼準備の学びが始まりますが、これから7人の洗礼準備の学びが始まります。
そして、その数はまだまだ増えていくと思います。
3年目からの豊作というのが洗礼者の数というのであれば、それはそれで辻褄が合います。
でも、多分それだけの事を意味しているのではないだろうと思うのです。

2008年は、私達の教会にとって変化の年となるだろうという予感があります。
色々な事があるだろうと思うんですね。
でも、現時点ではどういう変化があり、どんな事が起こるのかはあまりよくわかりません。
そこで、今日は出エジプト記からの最後のメッセージとなりますが、これからの変化に備えて、私達が何を心がけていくべきなのかという事を一緒に考えていきたいと思います。

① 主の栄光が満ちる

40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

十戒を受けるために、モーセはシナイ山に登り40日40夜の時を神様と共に過ごしました。
その時モーセは同時に幕屋の建設を命じられています。
幕屋というのは、こういう言い方をすると問題があるかもしれませんが、簡易式の神殿のようなものですね。
40年間荒野を行き来していたイスラエルの民にとって、落ち着くまでの間は決まった場所に神殿を持つ事ができませんでした。
それでも神様がイスラエルの民と共にいるということを明らかにするため、幕屋を作って持ち運んだのです。
そしてその幕屋が神様に命じられた通りに作られ、完成すると、そこは神様の臨在を表す主の栄光の輝き(シェキーナー、シャカイナ・グローリー)によって満たされました。

出エジプト記の後半は、この幕屋建設の事でかなりのページ数が占められています。
イスラエルにとって、幕屋というものがどれほど重要だったかを表しているようですね。
それは、この幕屋というものを通して神様が、イスラエルと共いるという事を証したからです。

聖書には、私たち自身が神殿なのだと言っている箇所があります。
でも私達は、神殿としての役目をもって生まれてきたのにも関わらず、その内側には主の栄光がない生き方をしてきました。
しかしイエス様を心の王座に迎え入れた時、私達の内側には神様の栄光の輝きが満ちたのです。
私達の心の中心に主がいてくださるのですから、幕屋を満たす輝きを通してイスラエルの人々が主の臨在を実感できたように、私達はイエス様がいつでも共にいてくださるという確信をもって生きることができるのです。

みなさんはいま、神様が共にいて歩んでくださっているという確信を持つ事ができているでしょうか?
どんな困難な状況にあっても、たとえ死の影の谷を歩んでいる時であっても、主が共にいてくださるから大丈夫だろいう、主にある平安を受ける事ができているでしょうか?
もしその確信を持つ事ができていないのであれば、私達の心の中心には主がいないのです。
あるいは自分自身や、他の人たちが中心になってしまっているのかもしれません。
まずは、心と思いと力を尽くして神様を愛する事を第一とし、神の国と神の義をまず求めるという、イエス様の戒めに従うところから始めてみてはいかがでしょうか?

② 主の導きに従う
さて、心に神様の栄光がいつも満ちていて、主がともにいてくださるという確信の元に生きている私達が、行動する時に気をつけなければならに事があります。
私達はそれをイスラエルの人々から学びましょう。
聖書にはこの様に書かれています。

40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。

私達は、神様のゴー・サインに従って歩みを進める必要があります。
神様の導きは、時として私達の思いとは違う方向に示されるかもしれません。
時には豊かな草原を横目に見ながら、険しい山岳地帯や、渇いた荒れ野に導かれるという事もあるでしょう。
私達は目の前に広がる光景を目にして恐れをなしてしまいますが、それでも主の導きを信じて、躊躇なく歩みを進めなければならないときがあるのです。
そしてその一方で、この様にも書かれています。

40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

私達は、自分の思いつきや考えによって、これから進むべき方向を決め付けてしまいがちです。
しかし、たとえそれが私たちにとって良い方法であるように思えても、そこに神様の御心がないなら、それは必ずしも良い結果をもたらしません。
ある思い付きがどれほど良いアイデアに思えても、それが御心でないと明確にわかるなら、あるいは聖書の基準から外れている事なのであれば、私達はその歩みを止め、神様の導きを待つ必要があるのではないでしょうか。

さて、そこで最初のお話に戻っていきたいと思います。
いま僕は、この教会が新たな出発の時なのではないかと感じているのです。
これまでの2年間にも色々な変化はあったのですが、基本的には土台を築くという事を念頭においてやってきました。
いま、自分自身の霊的な状態を省みても、またこの教会に来てくださっているおひとりおひとりの状況を見させていただいている上でも、新たなステップへ向けてのゴー・サインが、神様から出されていると感じています。
私達の上に、大きく雲が上り始めているのを、僕は感じているのです。

皆さんはどのように感じていらっしゃるでしょうか?
僕ひとりの思い込みで動いてしまうのはあまりにも危険ですから、皆さんと共に祈り、導きを求めていきたいと思っています。


では雲が上り、西葛西国際キリスト教絵が変化を迎える年だったとして、私たちはどのように変わっていくのでしょうか?
それが、実を言えばまだわからないのです。

普通に考えると、「どこへ行くのかわからないけれど、とりあえず動いてみます。」というのはおかしいですね。
教会として変化が起こるというのなら、どの様に変わっていくのか、ビジョンのようなものがある程度形になっていて、それを考えながら動いていくと言うのが普通ではないでしょうか?

しかし、例えばアブラハムのことを思い出してみてください。
アブラハムはまだその名前をアブラムと名乗っていた頃、神様の導きがありどこへ行くのか判らないまま、これまで住んできた町を後にして、神様に導かれるままに旅に出ました。
モーセの時代にも、イスラエルの人々は目的地がはっきりとはわからないまま、神様の導きに従ってエジプトを後にしました。
神様の導きは、ゴールが見えない状態で始まる事が少なくないのです。

皆さんにも経験があると思いますが、僕がよく受ける相談として、自分の進んでいる道が神様の御心なのか、自分の思いから来ているものなのかがわからないという話を聞くんです。
それは時として、本当に見分ける事がとても難しい事だと思います。

だからこそ私たちは、まず自分の心が聖霊に満たされて、主の臨在の確信を得ている状態から始める必要があるのではないでしょうか。
そして、主が共にいてくださるという確信と平安の元に、時が満ちて雲が上った時、主の導きのままに歩き始めればいいのです。
私達が歩みを進める中で、神様が共にいてくださるという確信が薄れてきたなら、それは恐らく私たちが道を外れているのでしょう。
その時にはまた方向修正をし、主と共に歩む道を歩き始めたらいいのではないでしょうか。

もちろん私達は、私達の前に広がる道がどんな道だったとしても主の導きに従うという覚悟が必要だと思います。
その決心が前提としてあるのでなければ、私たちはそもそも自分にとって都合の良い道しか見ようとしないからです。
そして神様に心を開き、すべてを委ねて心を静め、祈り求めていかなければなりません。

これから、少し静まって一緒に祈る時間を持ちたいと思います。
現在大きくいってふたつの点に関して導きを求めているところですから、その事について導きが示されるように一緒に祈っていただけますでしょうか?

ひとつには、この場所が混雑してきている事に関してです。
このままこの場所に留まってやっていく方法を模索していくべきか、それとももっと広い場所に引っ越すことが御心なのかという事。

そしてもうひとつのポイントとしては、この教会の教会としてのあり方です。
西葛西国際キリスト教会が、どの様な群れとして成長する事がこの教会に与えられている使命なのか。
教会とは何かというテーマについて考えながら、これから数ヶ月のメッセージをしていこうと思っていますから、その中で多くのことが示されるように、共に祈っていただけますでしょうか。

それでは、少しの間静かに祈る時間を持ちたいと思います。

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