創世記29:1-27 『罪の実を刈り取る』 2006/09/24 松田健太郎牧師

創世記 29:1~27
29:1 ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。
29:2 ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった。そしてその井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。
29:3 群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとの所に戻すことになっていた。
29:4 ヤコブがその人たちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか。」と尋ねると、彼らは、「私たちはカランの者です。」と答えた。
29:5 それでヤコブは、「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか。」と尋ねると、彼らは、「知っています。」と答えた。
29:6 ヤコブはまた、彼らに尋ねた。「あの人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。ご覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」と言った。
29:7 ヤコブは言った。「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」
29:8 すると彼らは言った。「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」
29:9 ヤコブがまだ彼らと話しているとき、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊飼いであったからである。
29:10 ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。
29:11 そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。
29:12 ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。
29:13 ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。
29:14 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。
29:15 そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」
29:16 ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。
29:17 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。
29:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。」と言った。
29:19 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」と言った。
29:20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。
29:21 ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」
29:22 そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。
29:23 夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところにはいった。
29:24 ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。
29:25 朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」
29:26 ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。
29:27 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」

双子の兄、エサウから長子としての権利を奪い、父からの祝福まで奪ったヤコブは、兄の怒りと殺意から逃れるために叔父であるラバンを訪ねて旅立ちました。
不安と失意を抱えて旅立ったヤコブでしたが、とうとう目的地にほど近い草原までたどり着く事ができました。
目的地であったカランからはまだ少し距離があったのですが、そこにあった井戸で、ヤコブはある女性と運命的な出会いをします。
そこで出会ったラバンの娘ラケルに、ヤコブは熱烈な恋をするんですね。

この様な話があります。
ある女性がラブ・レターをもらいました。
そこにはある男性からの熱烈な愛が書かれていました。
「僕のあなたへの愛は永遠に不滅です。
あなたのためなら、僕はエベレストの頂上にも登る。
あなたのためなら、僕はオホーツク海でも潜りましょう。
あなたのためなら、僕は猛獣とだって戦って見せます。」
女性は彼からの熱烈な愛に感激しましたが、手紙には続きがありました。
「追伸-― 金曜日のデートですが、雨なら中止にして下さい。」

「愛してる」と言うことは簡単でも、愛することというのは難しい。
でもヤコブという人は言葉だけの愛ではありませんでした。
ヤコブは、ラケルのために7年間、ラバンのもとで働くという約束をたんですね。
この7年間仕えるということは、イスラエルの人々には特別の意味がありました。
それは奴隷になるということです。
イスラエルでは、奴隷も7年後には解放されたのです。
だからここのヤコブの申し出は、こういうことだったんですね。
「あなたのために、わたしは7年間奴隷として仕えます。」

女性の皆さん、この様に言われたらどう感じますか?
少し前まではこの質問に対して、口をそろえて「私もそう言われてみたい。」と応えたそうです。
最近では違うようですね。
「重たすぎて嫌。」だそうです。
そう感じた方はまだまだ若いということかもしれませんね。
誰ですか、「彼が私の奴隷になってくれるならいい。」と言っている人は?(笑)

さて今日は、このヤコブの熱烈な愛がどのような形で成就していくのかを一緒に見ていくことにしましょう。

① ラバンの企み
叔父のラバンは、できる限りヤコブを自分の下に留めて置きたかったのです。
それは、ヤコブが特別の祝福を神様から与えられていたからです。
3週間ほど前のメッセージで、ヤコブの父であるイサクが、神様の祝福のために周りの人々の百倍の収穫を得たために嫉妬を買ったというお話をしたのを覚えているでしょうか?
その様な祝福が、ヤコブにもあったのでしょう。
ヤコブがラバンの所に来て以来、ヤコブの祝福にあずかってラバンの懐は不思議と豊かになっていったのです。
だから報酬を与えてでも、ヤコブが滞在し続けるということは得になると彼は考えました。
ヤコブが来て一ヶ月経った頃、ラバンはヤコブがこれからもい続けることが当然であるかのようにひとつのことを持ちかけます。

29:15 そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」

一ヶ月も経った頃には、ラバンはヤコブが娘に気があることにも気付いていたかもしれません。
ラバンはとても計算高い男だったので、ヤコブが「お嬢さんをください。」ということも計算に入っていたのかもしれない。
そうすればヤコブを婿養子として迎える理由にもなるわけで、そうなったらヤコブの祝福は放っておいても自分のものになる。
そんな目論見があったかどうかはわかりませんが、ヤコブの申し出は残念ながら期限付きでした。

「ラケルのために、7年あなたに仕えましょう。」
ラバンとしては7年と言わず、少しでも長くヤコブを引き止めておきたかったでしょう。
しかしヤコブが祝福をもたらしてくれるだけでなく、彼自身が奴隷のように働いてくれるというのであれば言う事はありません。
(ともかく7年。後のことは後で考えれば良い。)
そう計算すると、ラバンはもったいぶりながらヤコブに言いました。
「娘をやるのは惜しいが、他人にくれてやるよりはあんたの嫁としてやった方が娘のためにも良いかも知れん。わかった。7年留まったら、娘はあんたにやろう。」
こうして、ヤコブはまず7年をラバンの元で過ごす事になりました。

先週の箇所ではせっかく自分の力で勝ち取るのではなく、神様の計画にゆだねることを示されていたにも関わらず、この時点ではすっかり元通りで、自分の計画によって事を運ぼうとしている事がわかりますね?
(7年すればラケルと一緒になれる。そうしたら、実家の母さんのもとに一緒に帰ればいい。)
(7年は長いけれど、7年もすればエサウの怒りも納まっているだろう。)
そんな思いもあったかもしれません。
しかしそんなヤコブの計画は、ラバンの策略の前に脆くも崩れ去ってしまう事など、この時のヤコブには知る由もなかったのです。

② 罪の実を刈り取る
ラケルを愛していたので、7年はあっという間に過ぎ去ったと聖書には書かれています。
愛する者のために働く時間とは、あっという間に過ぎていくものなのかもしれません。
こうしていよいよ、約束の期間が満了となりました。

叔父のラバンにとっても、この7年はあっという間だったでしょう。
ラバンはこの7年にかなりの利益を得たのでしょうが、欲深い彼でしたから、このままヤコブを手放すというわけにもいきませんでした。

さて、ラバンは皆の衆を集めて、祝宴を催しました。
そして夜になると、ふたりは初めての夜を共に過ごすわけです。
しかし、朝目を覚ますと、ヤコブは仰天して飛び起きる事になります。
横に寝ているはずのラケルがいない。
いや、いるはずのラケルがいないだけではなく、いないはずの女性がそこにいたのです。
それはラケルの姉、レアでした。
昨日ヤコブが結婚式をあげ、初めての夜を共にしたのは彼が愛するラケルではなく、なんと姉のレアだったのです。

抗議するヤコブに、ラバンは抜け抜けと言ってのけます。
「あれ~、言ってなかったっけなぁ。この辺の習慣として、長女より先に下の娘を嫁がせる事はできないんだよね~。ほら、娘をやるとは言ったけど、ラケルをやるとは一言も言っていないはずだけどね~。」
という具合です。
「まぁ、そんなにラケルが欲しいというなら、他でもないお前さんの頼みだからね、娘達を一度にふたりも失うのは辛いけど、来週もう一度結婚式をあげよう。その時には間違いなく、ラケルはお前のものだ。
その代わり、娘をふたりとも嫁に出すんだから、あと7年うちで働いてもらわなければならないけどね。」
この様にして、ヤコブはさらに7年をラバンの下で過ごす事になりました。

でもね、みなさん。
自分の愛する女性がお姉さんと入れ替わっていたら、気がつくと思いませんか?
確かに彼らの結婚式の習慣として、顔を隠しますし、夜になれば真っ暗ですから誰が誰だかわからない。
とは言っても、声だとか仕草だとかでわかりそうなものじゃありませんか?

これはですね、レアとラケルが手をつくしてヤコブを騙したんです。
声色を変え、同じ香水を身につけ、仕草を真似て、これはレアだけの力でできるような事ではありません。ラケルが協力し、力を合わせてようやくできることでしょう。
ですからヤコブは、叔父のラバンから騙されたというだけではなく、レアからも、そして愛しているラケルからも裏切られたんだということなのです。

ヤコブが目の見えないお父さんを、手をつくして騙し、祝福を与えさせたのと同じ様にして、今度は自分が騙される事になりました。
ヤコブは“弟”なのに“兄”ですと嘘をついて騙しましたが、自分は“姉”なのに“妹”ですと嘘をつかれて騙されたのです。

この様な罪の実を刈り取らなければならない状況を、“罰(ばち)が当たった”とか、“自業自得”という一言で片付けてしまうこともできます。
しかし神様は、ただ単に私たちの罪を懲らしめるために私たちに苦しみを与えるようなお方なのでしょうか?
新約聖書のヘブル書には、この様な御言葉があります。

ヘブル 12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

私達が主の懲らしめを訓練として受け入れて、そこから何かを学ぼうとするなら、私達は自分で招いてしまった災いからも多くを学ぶ事ができます。

この経験を通してヤコブは知ることができたはずです。
嘘をつかれ、騙される事がどれだけ辛い事か。
それがどれだけ酷く、相手の心を傷つけるのかということを。
自分の嘘が父イサクの心を傷つけ、兄エサウを苦しめた事に気付き、悔い改める機会をヤコブは与えられました。

皆さんには今、神様からの懲らしめを受けているような出来事はあるでしょうか?
皆さんが神様から愛されているのなら、必ずその様な出来事があるはずです。
それをただ単に痛みや苦しみとして終わらせてしまうか、そこから学んで神様に立ち返り、神様に用いられる器とへと成長していくかどうかは、私たち自身が選ぶ事です。
どうせ刈り取りをしなければならないのなら、そこから少しでも多くのものを刈り取ってみてはいかがでしょうか?

③ 罪の報酬
私達に、自分が犯したすべての罪を刈り取ることはできるのでしょうか?
私達は創世記の学びの中で、罪の根源とは、神様を神様と認めず、自分自身が自分の神になる事だということを学びました。

「自分の事は自分が決める。」
「自分自身の支配者は自分だ。」
「自分の心も体も自分のものなんだから、自分の自由に扱うのだ。」
私達が生まれた時から持っているこの罪が、人を恨み、人を妬み、人を傷つけ、自分をも傷つける行いの罪を生み出していくのです。
私達はこの原罪の実をどうやって刈り取る事ができるのでしょうか?

「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」と聖書には書かれています。
この罪を、善い行いや、他のどのような方法によっても償う事はできません。
そしてここで言われている死とは、単に肉体が滅びる事を表しているのではなく、魂の死を意味しています。
私たち全ての人が罪を持っているのですから、全ての人はこの魂の死に定められている事になります。それが、すべての罪を刈り取るということあり、私たち人類が選んだ道なのです。

しかし、神様はそれで終わらせなかった。
私たちを魂の永遠の死という運命から救い出すために、ひとり子を与えて下さったのです。
ローマ書6:23の続きを見てみましょう。

ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

私たちと違って罪が無いイエス様が、私たちのために罪人として鞭打たれ、私たちのために十字架に架けられたという事実、その時流された血の一滴一滴とイエス様の苦しみは、私たちに自らの罪の重さを教えてくれます。

ここにひとつの選択があります。
私達が経験する痛みや苦しみをそれだけのこととして終わらせてしまうか、そこから学んで成長していくかを選ぶことができるように、私達は選ぶ事ができるのです。

自分の罪の重さを知り、イエス様の十字架を受け入れるか、自分には罪は無いと言い張り、あるいは自分の罪は自分自身で刈り取れると言い張って、定められた死の道を進むかです。

ひとりでも多く皆さんが、懸命な選択をされることを心からお祈りします。
また、すでに十字架の贖いを受けた皆さんのために、ひとつの御言葉をお送りして今日のメッセージを終わりたいと思います。

Iペテロ 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

私たちの罪は、もう赦されているのです。
ならば私達は、いつまでも罪の下にある奴隷のように生きるのではなく、義のために生きるものとしての歩を始めようではありませんか。

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