創世記32:1-32 『神と格闘する』 2008/10/26 松田健太郎牧師

創世記32:1~32
32:1 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。
32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。
32:3 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。
32:4 そして彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。
32:5 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」
32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」
32:7 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、
32:8 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。
32:9 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。
32:10 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。
32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」
32:13 その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。
32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、
32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。
32:16 彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」
32:17 また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか。』と言って尋ねたら、
32:18 『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります。』と答えなければならない。」
32:19 彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、
32:20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります。』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。
32:21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。
32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打たので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

さて、いよいよヤコブを中心として展開する話も今日で終わりです。
思えば彼は波乱万丈の生涯を送っているのですが、これ程ではないまでも、小さな試練は私たちの周りにもたくさんあるのではないでしょうか。

私たちが人生の中で試練に向かう時、どうすればいいのかという事を、今日はヤコブの人生を通して学んでいきたいと思います。


20年という苦労の時を経て、ヤコブが生まれ故郷に帰る時がとうとう来ました。
20年と言うのは長い年月ですね。
その間に人は大きく成長し、変わっていくものだと思います。
しかし、ヤコブには20年を経てもなお、乗り越えることができていないひとつの課題がありました。
それは、双子の兄エサウとの関係です。

20年前、騙して長子の権利を奪ったためにエサウは怒り、ヤコブを憎んで殺そうとしました。
20年も経つのだから、その怒りももう収まっているかもしれません。
しかし、20年間会っていない兄がどのように変わっているのか、ヤコブにはまったくわかりません。
兄に対する彼の最後の記憶は、あの憎しみに満ちた眼差し、隙をみていつか殺してやるぞと言わんばかりの迫力に満ちたあの顔です。
その顔がヤコブの頭からは離れず、20年の空白がその恐怖をさらに増して、ヤコブを怯えさせました。

ヤコブはまず、エサウの元に斥候を出すんですね。
「おまえ、ちょっと様子を見て来い。」という訳です。
僕はさらに、『弟のヤコブが贈り物を持って帰ってきますから、許してやってください』というメッセージを携えてエサウの元に行き、そして帰ってきました。
僕は帰ってくると、この様にヤコブに伝えるんですね。
「だんな様、エサウ様の方もあなたを迎えるために、400人もの僕を引き連れてやってくるそうです。」
その僕は、エサウがどれだけヤコブを歓迎しているかという事が伝えたかったのかもしれません。
しかし、ヤコブはそこで、途端に不安になるんですね。
「400人だって? どうして私を迎えるのに400人もの人々が必要になるのだ? まさかエサウは、その400人で私たちを襲おうとしているのではないか?」
人の恐怖心とはおかしなものですね。
ヤコブはいったんその恐怖に囚われると、途端に恐ろしくてしかたがなくなってしまったのです。

皆さんなら、このような時どうしますか?
何か試練に直面し、これからどうするかという決断をしなければ生らない時、皆さんならまず何をするでしょうか。

この時ヤコブが問題と対決するためにとった準備は3つありました。
第一に、ヤコブは自分の群れをふたつに分けました。
これでひとつの宿営が襲われても、もう一方は生き残るだろうというわけです。
第二に、ヤコブは祈りました。
最初に祈っておけばいいのですが、まず何かをして、それでも何か足りないなと思って祈るわけです。何だか、私たちと似ていますね(笑)。
そして第三に、ヤコブはエサウへの贈り物を用意したのです。

32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、
32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。

今で言えば三千万円相当の財産です。
「どうだ、これだけ積めばゆるしてもらえるだろう。」
それはヤコブが命と引き換えに捧げることができるギリギリの財産でした。
しかしこれだけ準備しても、できそうな事をすべてして、祈ってもなお、彼は安心することができなかったのです。

結局ヤコブがとったのは、自分の策略によって今の状況を乗り越えようとする事でした。
自分は、これまでの人生を自分の力で切り抜けてきたという自負もあったでしょう。
策略によって長子の権利を手に入れようとし、策略による戦いでラバンと渡り合ってきた。
しかしその自信も、今回ばかりは揺らいでいます。

まだ何かが足りないような気がする。
まだ、心から安心することができないのです。
「何だろう、何が足りないのだろう。」と悩んでいるうちに、ヤコブたち一行はヤボクの渡しにたどり着きました。
この川を渡れば、エサウか住むエドムまでもうわずか。そしてその先に、生まれ故郷があります。
ヤコブは群れを渡らせ、自分の荷物も一緒に川を渡らせました。
そして群れをふたつとも先に行かせてしまいます。
しかし、彼自身はそこで足を止めました。ここから先に進めなかったのです。
もしかしたら彼は、ひとりになりたかったのかもしれません。
あるいは、神様と一対一で祈る時間を持ちたかったのかもしれない。
いずれにしても、ヤコブはそこでひとり残りました。
すると、そのヤコブの前にひとりの人が現れたのです。
そしてヤコブは、その人と格闘し始めました。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

後になってからわかる事でしたが、ヤコブが戦っていたのは神ご自身、つまりこの時ヤコブは、イエス様と格闘していたのです。
なぜ戦っていたのでしょうか?
・・・わかりません・・・。
さっぱりわけはわからないのですが、ただ群れを行かせた後、ひとり残ってヤボクの川を前にして祈っていると、この人が現れ、気がついていたら激しい格闘になっていたのです。

この戦いは朝まで続きました。
ヤコブは、「勝てる」と思った。
疲れてはいるけれど、もうすぐにでも勝てそうだ。
しかし戦い始めてからずっとそう思っているのに、なかなか決着がつかない。
そう思っているうちに、空には明るみが差してきてしまいました。
「夜が明ける前に決着をつけよう。朝日が昇る前にねじ伏せてやる。」そう思ったそのとき、
その人が、ヤコブのももにそっと触れたのです。

私たちの聖書には「打った」という言葉が使われています。
しかしこの言葉はもともと、「触れる」という意味の言葉なんですね。
事実神様には、ヤコブにそっと触れるだけで十分でした。

その人に触れられると、ヤコブの股関節はたちまち外れてしまい、ヤコブは普通に立っている事もできなくなってしまいました。
その時にヤコブは気がついたのです。
「触れただけで股関節を外してしまうなどというのは人間の技ではない。ああそうか、私はとんでもない人と戦っていた。この人は人間ではなく、神だったのだ。
私は今まで、人と戦っているのだと思い込んできた。しかし、そうではない。私は今まで、神様ご自身を相手に戦ってきたのだ。」

ヤコブはこれまで、いじわるなラバンと戦っていたのだと思っていました。
ヤコブはこれから、兄エサウと戦わなければならないのだと思っていました。
これまでの彼の経験は全てそうだったのです。
問題が起こり、危機が訪れれば、自分の知恵と策略によって解決する。
しかし実際は、すべてエサウやラバンを相手に戦ってきたのではない、ヤコブが戦ってきたのは、神様ご自身だったのです。

私たちもまた、神様と格闘してしまっていることがないでしょうか。
神様が祝福を与えようとしている時、私たちは自分の力でそれを手に入れようとして神様の手を振り払ったり、「それではなくこれが欲しいのです。」と言って神様と戦ってしまっていることがあるのではないでしょうか。

神様がヤコブに祝福を与えるためには、ヤコブが自分の力では戦えないようにするしかありませんでした。
主は、ヤコブの足に触れ、関節を外してしまったのです。
エサウと戦う最後の手段としての自分の力を失ってしまったヤコブは、とうとう神様にしがみつき、こう言いました。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(26節)
ヤコブにはもう、神様により頼むしか方法がなくなったのです。

私たちが、あまりにも主に背き、立ち向かって戦おうとし続けるなら、神様は私たちの力を奪い、主により頼むしか仕方がないような状況に追い込むことがあります。
先日もお話しましたが、私たちは追い詰められた危機的状態になって、初めて主を求めようとするからです。
しかし、私たちが一見絶望的に思うその追い詰められた状況の時にこそ、主の力が私たちの上に臨むチャンスでもあるのです。
ヤコブが自分の力を失って主を求めた時、弱さの元にヤコブは本当の勝利を手にしたのでした。


その後、ヤコブにはどのような勝利が与えられたのでしょうか?
もものつがいを外されたヤコブは普通に歩く事ができず、びっこを引きながらエサウと出会います。
もともとの計画では、エサウへの贈り物を先行させ、エサウの怒りを少しでもなだめようとしていましたが、計画を変え、自分が先頭になって進みました。
「彼は兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした 。(33:3)」と書かれています。
彼はすべての策略、小細工をやめ、エサウの前にすべてをさらけ出したのです。
もものつがいがはずされて、エサウから身を守る最後の手段としての自分の肉的な力も失った今、彼はそこで殺される覚悟もしたでしょう。

ところがエサウはヤコブ迎えに走ってくると、彼をいだき、首に抱きついて口付けをしました。
しっかりと抱きしめあったふたりは、そこで声を出して泣きました。

エサウはもう、怒ってなどいなかったのです。
彼はただただ、20年間離れ離れだった双子の弟の再会を喜び、大声で泣きました。
ヤコブが20年間恐れ続け、知恵を絞り、自分の策略によって勝利しようとしていた問題は、ヤコブの策略によって解決したのではありませんでした。
ヤコブが20年間抱え続けてきた問題は、エサウの赦しと和解によって解決していったのです。
これが、これこそが、神様によってもたらされる勝利なのです。

私たちの人生を振り返ってみましょう。
私達は何か問題が起こったとき、神様の御心を求めてそれに従うのではなく、自分の思い通りの解決方だけを求めてきたのではありませんか?
時には神様に祈っていながらも、「この様にしてください。」と答えだけを求め、思い通りにならないと神様の愛を疑い、信仰が弱くなり、違う方法で答えを出そうとしてきたのではないでしょうか?
それは全て、神様と戦っているということに他ならないのです。

いつまで神様と戦っているのですか?
私達が戦う必要は、もうないではありませんか?

私達はヤコブのように自我が打ち砕かれ、敗北を認めざるをえなくなるまで中々認めることができないものですが、すぐにでも神様の前に跪き、敗北を認めてしまうべきです。
私達が神様の前に敗北を認める時、私達には神様によって勝利が与えられるのですから。
願わくは、今日この時が、みなさんにとって神様と顔と顔を合わせる体験となりますようにお祈りします。

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