創世記3:1-15 アイデンティティ4 『罪に汚れたもの』 2006/02/26 松田健太郎牧師

創世記 3:1~15
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

先週は、罪そのものが人を傷つけるという話をしましたが、今日は罪がどのようにして人類の中に入ってしまったのかということを共に学んでいきましょう。

① 誘惑者
聖書を読むと、人が罪を犯す原因になったのは、この章の最初にでてくる蛇がエヴァを誘惑した事であるがわかります。
まずはこの蛇について少しお話しておきましょう。
エデンの園でエヴァを誘惑したこの蛇とは、サタンのことです。(ロマ16:20、IIコリント11:4、黙示録12:9、20:2)
サタンつまり悪魔とは何者なのでしょうか?
実は聖書には、サタンがどのような者なのかを表している部分がそれほど多くありません。
しかしユダヤの伝承や、聖書の中に描写されるサタンの記述を見れば、サタンが神様に御使いとして創造され、神様に背いた存在だということが判ります。
サタンは神様に裁かれ、永遠の業火に焼かれるということが定められています。
サタンや悪霊たちの目的は、神様の完全な被造物として創造された人間を神様に背かせ、自分たちと同じ堕落の道を辿らせることでした。
それは、愛される対象として創造した人類が裁かれなければならなくなってしまうことが、神様にとってとても辛い事だということをサタンが知っていたからでしょう。
ミルトンが書いた『失楽園』という本には、このような経緯が素晴らしく描写されていますので、興味があったらぜひ読んで見てください。

さて、最初の人類であるアダムとエヴァがサタンの罠に落ち、人類全体が罪人となってしまったのですが、それでサタンが勝利してしまったわけではありません。
それは、私達にイエス・キリストという救いが与えられたからです。
サタンを初めとする悪魔、悪霊たちは、ひとりでも多くの人々が救いを受けないように邪魔し、信仰を持った人々をも神様から再び引き離そうと躍起になっています。
私達にとって、サタンや悪霊などはそのような存在だという認識を持って置けば間違いがないだろうと思います。

私達が悪魔と戦うための最大の武器は聖書の御言葉です。
イエス様も荒野で悪魔の試みを受けたとき、御言葉をもって悪魔に立ち向かいました。

マタイ 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

悪魔の存在を否定したり、悪魔が自分たちには何の影響も及ぼしていないかのように考えるのは悪魔を喜ばせることになります。
また、悪魔の影響力を意識し過ぎて何もできなくなってしまうのも、悪魔の思う壺です。
私達は悪魔の力を過小評価も過大評価もするのではなく、日々イエス様とともに聖霊に護られながら、試みを受けるときには御言葉の剣を持って悪魔と闘うなら私達が悪魔を恐れる必要はまったくないのです。

② 悪魔と闘うために
確かに、悪魔の誘惑はたくみです。

3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

ここで神様が本当に何と言っていたかもう一度振り返ってみましょう。

2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

初めに悪魔が言った「どんな木からも食べてはならないといいましたか?」という極端な言葉には、さすがのエヴァも乗らなくてすみました。
「園にある木の実は食べても良いのです。」
しかし、その後からわずかなずれが生じてきます。
「しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
この言い方を聞いていると、神様は「もしその木の実を食べて死んでしまったらいけないから、園の中央にある木からは食べてはいけないよ。」と言ったかのように聞こえます。
しかし神様は、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と断定しているのです。
しかも、園の中央にあったのは、善悪の知識の木とともに、いのちの木です。
いのちの木からは食べてよかったのです。そして、エヴァは中央にあるいのちの木からはとって食べていたはずです。
それに関して彼女はどのように考えていたのでしょうか・・・?
わずかなようで大きな認識の違いが、エヴァの中にはありました。

そして、サタンはこのような隙を決して逃さないのです。
「神様は、その木から食べたらあなた達が神様のようになってしまうのが悔しいから、そんな意地悪を言っているんですよ。私は知ってます。あなたはその木から食べても死にませんよ。」
ここまで来てしまってはもう止められません。
アダムもエヴァも、神様の言葉ではなく、悪魔の言葉に従って、善悪の知識の木から取り、その実を口にしてしまいました。
この様にして罪は、人間の中に入ってきて、私たちを完全に支配してしまったのです。

アダムとエヴァが犯した失敗は取り返しのつかないものでしたが、その失敗から私達が学ぶべきことが2つあります。
ひとつは、神様の御言葉にしっかり耳を傾けていなければならないという事。
善悪の知識の木から取って食べてはならないと言う神様の命令を直接聞いたのはアダムです。エヴァはその時にはいませんでしたから、エヴァはアダムから聞いたはずです。
アダムの伝え方が悪かったのか、あるいはエヴァがアダムの言う事をしっかり聞いていなかったのかはわかりませんが、神様の御言葉を私達がしっかり認識していない時、悪魔の攻撃はたくみに私達の心を捉えます。
まだ信仰を持っていない方は、牧師のメッセージを聞いて、聖書が正しいことを言っているのかどうかを判断するのもいいでしょう。
しかし信仰を持っているのなら、聖書を土台にして牧師が正しい事をいっているかどうかを判断する事が出来るくらい、御言葉をしっかり把握できるようになれるといいですね。

二つ目に、私達はいつも神様の御言葉に従うべきだと言う事。
この世の知恵は時として耳障りがいいものです。
神様の御言葉とは矛盾していても、それが正しいように聞こえることがあります。
しかし、聖書はこのように言っています。

箴言 14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

エヴァが蛇に耳を傾け、アダムがエヴァに耳を傾けた結果、死へと繋がる罪を受けてしまったように、私達の目に正しく見えることが、死へと続く道であることもあります。
神様は何と言っているのでしょうか?
聖書には、何と書いてあるのでしょうか?
私達はいつも主の声に耳を澄ませ、その言葉に従う努力をいつも忘れないようにしておきたいものです。

③ 罪の結果
罪は私達にどのような影響を及ぼしているのでしょうか?
アダムとエヴァに起こった様々な変化を通して、罪の影響を見ていきましょう。

3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

罪の結果、確かにふたりの目は開かれました。
しかし、そこで彼らは神のようになったのでしょうか?
神様が知るような形で善悪を知るようになったでしょうか?
罪の結果、彼らが知った最初のものは、自分たちが罪を犯したことを知った“有罪感”と今まで堂々と普通にしていられたのに、自分をおおわなくては恥ずかしいと思うようになった“羞恥心”でした。
この“有罪感”と“羞恥心”に突き動かされ、ふたりはいちじくの葉をつづり合わせて、腰の覆いを作ったのでした。

私達も社会的な地位や、富、立場、役割、色々なもので自分自身を覆います。
現代を生きる殆どの人々にとって、本当の自分とは何なのかがわからなくなってしまう程です。
他にも表面的な笑顔や、建前や、善い行いをする事で取り繕って、自分自身の罪を覆い隠そうとします。
しかし私達がどれだけ表面を取り繕っても、それはいちじくの葉に過ぎません。
やがて枯れ果ててしまうものなのです。
神様は私達がどんなに美しいいちじくの葉を身につけているかを見るのではありません。
神様は素のままの私達、裸の私たちを見ます。
神様の前に立つとき、どんなに美しい覆いも何の意味も成さないのです。

3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

“有罪感”と“羞恥心”に続いて“恐れ”が罪の第3の結果です。
罪に対する罰を恐れ、もう神様から愛されないのではないかという不安を恐れ、人は神様に対して恐れを感じるようになってしまいました。
アダムとエヴァは、これまで神様とこよなく交わりを持っていたはずなのに、神様に対する恐れが、人を神様との関係を引き裂いてしまったのです。
しかし神様は、罪を犯してしまったふたりを叱るのでも、非難するのでもなく、引き裂かれつつある関係を回復するために、やさしく語り続けます。

3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

罪の第4の結果は、“責任転嫁”です。
引き裂かれた関係を回復するために、神様が語りかけた言葉に対するふたりの返事は、「私は悪くない。こいつのせいだ。」という言葉でした。
「食べてはならないと命じておいた木から食べたのか?」と事実の確認をした神様の言葉を恐れ、アダムはエヴァのせいだと主張し、エヴァは蛇のせいだと主張します。
しかもアダムが言った言葉を良く見てみると、「あなた(・・・)が(・)私のそばにおいたエヴァが・・・」と、神様のせいにしてしまっているのが判ります。
私達も、人のせいにするのが好きです。
親のせいにしたり、友達のせいにしたり、妻や夫のせいにしたり、環境のせいにしたりします。
私達の中にある、自分は正しいというプライドが、自分の罪を認める事を阻害しているからです。
罪を認めてしまうと、自分の立場がなくなり、自分自身が否定され、自分が自分でなくなってしまうことが恐ろしいのです。
しかし自分自身を回復させるために必要なのは、まず自分の中に罪があるのだということを認め、その罪を悔い改める事です。
私達がいつまでも自分は正しいと言い張り、偽りのプライドにしがみついて罪を認めないなら、私達は結果的には自分自身を失い、神様との関係を築いていく事もできないのです。

④ 救いの約束
さて、「私達は罪によって汚れてしまった存在である」ということが今日のメッセージのテーマなのですが、このまま終わってしまうのでは悪魔とか罪とか暗くて絶望的な話ばかりなので、いつもより長くなりますが、もうひとつお話をしておかなければなりません。

3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

これは、聖書に記されている一番最初の救いの約束で、“原福音”と呼ばれるものです。
蛇に騙され傷ついた女の子孫であるキリストが十字架による罪の贖いを完成させたとき、この約束は果たされることになりました。
悪魔はすでに敗北し、人類には救いの道が与えられたのです。

救いの約束は、アダムとエヴァが罪を犯した直後に与えられました。
悔い改めていい人間になることを示した結果与えられたものではないのです。
救いが無条件に与えられたのは、神様が私たち人間を愛しているからです。
罪による関係の断絶も、神様が人間に対して抱く愛を断ち切ることはできません。
例え私達が神様に背き、神様との関係を築くことを拒絶しても、神様は私たちを愛することを止めることは決してありません。

しかし、私たちにはこの救いを受け取る責任があります。
私達がその救いを受け取ろうとしないなら、例え神様がそれを望んでいなくても、私達は悪魔とともに滅んでいくしかありません。
もしまだ救いを受け取っていない方がいらっしゃるなら、今日救いを受け取ってください。
受け取る方法は簡単です。
自分の中に神様に背く罪があるのだということを自覚し、悔い改め、イエス様の十字架での死と復活を通して、私達の罪が赦されたということを信じることです。

人類が罪に陥ったときに神様がかけた最初の言葉は、「あなたはどこにいるのか。」でした。
今も、神様は私たちに呼びかけ続けています。
「あなたは、どこにいるのか。」
私達は罪によって悪魔とともに滅びの道にいるでしょうか?
それとも、神様のふところにいるのでしょうか?

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