創世記45:1-16 『和解の時を迎える』 2006/11/26 松田健太郎牧師

創世記 45:1~16
45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい。」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。
45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。
45:9 それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。
45:10 あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。
45:11 ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう。』と。
45:12 さあ、あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉とあなたがたが見たいっさいのこととを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください。」
45:14 それから、彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
45:15 彼はまた、すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語り合った。
45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣たちも喜んだ。

みなさん、最近泣いたのはいつですか?
その時、皆さんはどんな風に泣きましたか?
その時に皆さんが流した涙は、どんな涙でしたか?

ヨセフが兄弟達に、自分こそが22年前に分かれた弟ヨセフだと打ち明けた時、彼は声をあげて泣いたと聖書には書かれています。
その泣き声があまりに大きかったので、宮廷にいた誰もがその声を聞くことができたほどでした。

考えても見てください。
ヨセフはこの時、もう40歳近くになっていました。
いい年したおっさんが、隣近所に聞こえるほどの大声で泣き声を上げたのです。

ヨセフがこの時に流した涙は、喜びの涙でした。
しかしどうしてヨセフは喜ぶことができたのでしょうか?
ヨセフの目の前にいるこの兄弟達こそ、22年前に彼を奴隷として売ってしまった残酷な兄達に他ならないのに。
その時の落胆と屈辱、その後彼が経験しなければならなかった数々の苦難や牢獄での孤独を考えたら、のん気に再会を喜んでいる場合ではないはずです。
何よりもそんな大声で泣く意味がわからない。

今日は、このヨセフの涙の秘密を探りながら、この涙が私たちにどのような関係があるのかを、共に学んでいくことにしましょう。

① ヨセフの涙の意味するもの
ヨセフの涙の第一の理由は、ユダの執り成しへの感動です。
兄弟達が昔のままの極悪な兄たちで無いかどうかを試すために用意したシチュエーション。末の弟ベニヤミンを見捨てさえすれば自分たちは助かるという状況の中で、ユダは両手を広げて立ちふさがり、ベニヤミンを守ろうとしたのです。
「あの子が帰らなければ父が悲しみます。ベニヤミンの代わりに私を奴隷として仕えさせてください。」
思いもよらなかった自己犠牲的な言葉に、ヨセフは単純に感動しました。

第二の理由は、兄弟達の悔い改めに心打たれる涙です。
「自分が身代わりになる。」という言葉がいかに感動的だったとしても、それが元々素晴らしい人格である事で知られた人の口から出た言葉であれば、それほど驚きもなかったでしょう。
しかし、こんな自己犠牲的な愛の言葉を口にしたのは、かつては不品行を重ね、嫉妬にまみれて愛がなく、こともあろうにヨセフを奴隷商人に売ろうと言い出すほどに残酷性も豊かだったユダだったということです。
人ひとりが悔い改めて、人格が変わっていくということがいかに大変な事かは、私たちもよく知っている事ですね?
それまでには大変な苦労があったんだろうとか、ヨセフを奴隷商人に売ったということをどれ程後悔し、苦しんだかということも容易に想像できます。
そんなユダの変わりようを目にしたとき、ヨセフは心打たれたに違いありません。

そしてヨセフの涙の第三の理由は、別れた兄弟と和解することができた喜びの涙です。
もう会えないかもしれない状況にあった兄弟達です。
でも、せっかく会えたとは言え、もし彼らが昔と変わらず極悪な彼らのままであれば、自分が弟である事も明かさずベニヤミンだけ救い出そうと自分には言い聞かせていたのです。
何度も口をついて出そうになった告白の言葉を飲み込んで、ようやく兄弟達の改心を確信した時の喜びといったら、それはこれまでに無いほどの喜びだったわけです。

ずっと尊敬し、愛していた兄達。
それなのに彼らはずっと自分を受け入れてはくれず、何かと妬み、ヨセフをいじめ、からかい、最後には奴隷として売ってしまうという酷い仕打ちを受けてきました。
そんな彼らと、いま仲直りできる。
今なら愛の関係をお互いに築く事ができるとヨセフが確信できた時、ヨセフはこれまで経験してきたあらゆる苦しみや悲しみが、すべてこの和解の時のためにあったのだと納得できたのです。
その時、これまで心の内側にたまってきた全ての想いが相まってあふれ出し、大きな泣き声となって解放されました。

私たちにもやがて全てが明らかにされ、私達がこれまで経験してきた全ての苦しみや悲しみがどんな計画の元にあったのかを示される時がきます。
その時には私たちも全ての苦労が報われ、あふれ出す想いのひとつひとつ思い出して涙するかもしれません。
その時の苦難が大きければ大きいほど、パズルのピースがすべて埋まって神様のご計画が成った時の喜びは、言いようも無いほどに大きなものとなる事でしょう。
その時の喜びの大きさを楽しみに待ちながら、今のこの苦難を乗り越えて以降ではありませんか。

② キリストのひな形
さて、ヨセフの事でひとつ言いそびれていた事があります。
それは、ヨセフがイエス様のひな形だということです。

ひな形というのは、旧約聖書の中に表されるイエス様の形。
やがて救い主が現れた時、彼がどの様な方なのかを示すしるしの様なものです。
ヨセフの人生そのものが、イエス様を表すひな形となっていました。

ヨセフが信頼する兄弟によって、銀貨20枚で奴隷として売られてしまったように、イエス様は信頼する弟子のひとりによって、銀貨30枚で売られて捕らえられました。
ヨセフによって兄弟達は、エジプトの宮廷に招かれて食事を共にしたように、私達はイエス様によって神様のみ前に行き、食事を共にすることを許されています。
ヨセフが自分を裏切り苦しめた兄たちを愛し、兄達がした過ちの全てを赦したように、主は私たちの罪を全て赦し、心を砕いて愛して下さっています。

ヨセフをイエス様と置き換えるなら、私達はヨセフの兄達になんと似ていることでしょうか。
粗暴で戦争をやめることを知らず、不品行で誠実さを知らない兄達。
嫉妬に駆られ、時には残酷にもなれる、シメオン、レビ、ユダを始めとする兄弟達。
自分はそれ程悪くは無い。彼らとは似ていないと思われるでしょうか?
では、そんな兄達に流されて自分も同じ事をしてしまう、イッサカルやゼブルンたちはどうでしょうか?
あるいは悪い事がわかっていても、結局それを止めることができない長男のルベンはどうでしょうか?
父親に護られて、何も知らずにぬくぬくと暮らしているだけのベニヤミンだって、「知らなかったんだもん。」で済まされる事ではないはずです。

私達は本来、神様に似せられたものとして創造されました。
私たち人間は、みなキリストに似るものとなるために生まれてくるのです。
ならば私達は、なぜヨセフにではなく、兄弟達に似ているのでしょうか?
私達がキリストにではなく、主を裏切った弟子達に似ているのはなぜなのでしょう?

神様は私たちを心から愛し、助けようと手を差し伸べてくださっているのに、私達はどれだけ神様をはねつけ、無視し、拒絶し、馬鹿にし、従うことを拒絶してきたでしょうか。

しかしヨセフは、自分を苦しめた兄弟達を恨むのではなく、心から愛し、その過ちを赦しました。

45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

神様も同じように、私たちに近寄りなさいと言い、私たちの罪をすべて赦して下さいます。
私たちがあれ程神様をはねつけ、無視し、拒絶し、馬鹿にし、従おうとしなかったのに。
神様に逆らった当然の結果として、苦しみ、悲しみ、失い、絶望してうなだれる私たちを神様は助け起こし、罪という汚物にまみれた私たちを抱き寄せて下さるのです。

③ 神様の涙
そう考えた時、私たちの中にはひとつの疑問が生まれます。
私たちの主もまた、ヨセフのように大声で泣かれるのだろうか?
天国中に響き渡るほどの大声で泣くほど、私たちとの和解を喜んでくれるのでしょうか?

ルカの15章で、イエス様は3つのたとえ話をしています。
ひとつは100匹の羊の話。
神様は、1匹の迷子の羊のために99匹を安全な牧場に伏させ、失われた1匹を見つけたときには友達や近所の人たちを呼び集めて喜びを分かち合う羊飼いのように、ひとりの罪人が悔い改める事を喜んでくださる。

ふたつ目は10枚の銀貨の話。
神様は、10枚1組の結婚記念銀貨の一枚を失くした女性が、家中をひっくり返して銀貨を探し出し、見つかったならばパーティを開いて喜びを分かちあるように、失われたひとりの罪人が見出される事を喜んでくださる。

そしてみっつ目は、有名な放蕩息子の話。
放蕩息子が父親から遺産を前借して旅立ったとき、財産を食い荒らし、破産して帰ってくる息子を父親は遠くにいるうちから見つけ出し、汚物にまみれたその体を抱き寄せて祝宴をひらかせた様に、神様は私たちを歓迎して下さる。

ひとりの罪人が救われる時、神の御使いたちに喜びがわきおこるのです。(ルカ15:10)とも書かれています。

ポイントはひとつ。
神様は、私達との和解を、心の底から喜んでくださるということです。
神様は、失われたたったひとつの魂を見出された時、天の御国では御使いたちを上げて大パーティが開かれるのです。
放蕩息子の父親でさえ、惜しみなく雄牛を屠って祝宴を開いたのだとしたら、天の御国で惜しみなく振るわれた時、一体どんな事がそこで起こるでしょうか?

これ程の喜びをどう表現したらよいのでしょう。
ここで語られているのは、世界平和が達成されたという話しではありません。
僕たちが話しているのは、ひとつの国家にリバイバルが起こるとでもありません。
たったひとりの罪人が神様と和解するというその事が、天国で祝宴を開かせるほどの喜びを、神様に与えるというのです。
私達が信仰をもつという、たったそれだけのことが、天にそれほどの影響を与えるなどと、誰が想像するしょうか?

私たちとの和解を神様は喜びの涙をもって迎え、きっと嬉しさのあまりに大声で泣くことでしょう。
しかし、それ以上に失われた魂のために嘆き、悲しむことも確かです。
神様が差し伸べた手を振り解き、恵みの御手の間がからすリ抜けるようにしてこぼれ落ちていく魂のひとつひとつが失われていく事に心を痛めます。
神様の救いから引き離そうとするサタンの働きを憎み、激しい怒りにうち震えるのです。

そうでなければ、神様がどうして御子イエスを、私たちのために与えて下さるようなことがあったでしょうか。
神様は苦しむのが自業自得、滅んでも当たり前の私たちを救い出すために、自らのひとり子を十字架にかけてくださったのです。

神様は、私たちをそれほどまでに愛して下さっているのです。
失う事がそんなに悲しい事だから、私たちとの和解の喜びは何にも勝っているのです。
まだ神様との和解を果たせていない方がいらっしゃるなら、あなたの前には、今も和解のために握手を求めて、主は手を差し伸べてくださっています。
神様は、私たちの命が尽きるまで、いつまでも待ってくれています。
でも、もしよければ、どうか今すぐにでもその手を握り返して下さい。
僕達もまた、神様が喜ぶ姿を見たいのです。
そしてまた、皆さんが神様と和解することは、僕達にとっても大きな喜びだからです。

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