創世記4:1-16 『信仰か、宗教か』2006/03/19 松田健太郎牧師

創世記 4:1~16
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。
4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
4:13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。
4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
4:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

ようやくアダムとエバから離れる事ができ、今日はその子供たちの話からです。
先週は、罪が遺伝子や環境を通して子孫に伝えられていくということを話しましたが、今日は実際に罪が子供たちに伝えられていくのを見ます。

アダムとエバは、同じ時期にカインとアベルのほかにもたくさんの子供たちを生んだでしょうが、この部分での中心はこの兄弟の話なので、このふたりの事にしか触れていません。
とは言え、恐らくこの二人が長男と次男であることは間違いないでしょう。
さて、ふたりは成長し、兄のカインは地を耕すものとなり、弟のアベルは羊飼いとなっていきます。
カインは地の作物から捧げものをし、アベルは羊を捧げました。
カインは農耕を生業とし、アベルは羊飼いなのですから、当然のことのように思います。
しかし、神様はカインの捧げものには目をとめず、アベルからの捧げものを選びました。
不公平だとは思いませんか?
どうして神様はアベルの捧げものを選び、カインのはダメだったのでしょうか?
どうして神様はこんな意地悪をするのでしょうか?
これでは、カインが怒るのも当たり前じゃないですか?

神様が不公平で意地悪な方なのかどうかは少しおいておいて、まずは捧げものとは何かということを考えていきたいと思います。
私達は生贄と聞くと、ひどく野蛮で、非文明的な感じがします。
しかし、現代を生きる私達でも同じような行為をしているということに皆さんはお気づきでしょうか。

ある6歳と4歳の姉妹の話です。
お姉ちゃんはひとつのお人形を持っていました。
可愛いお人形で、妹もその人形で遊びたくて仕方がなかったのですが、それはお姉ちゃんのお気に入りのお人形で、妹には絶対に遊ばせてあげることも、触らせる事さえしませんでした。
ある日お母さんが、ふたりにおやつのケーキを持ってきました。
お姉ちゃんは貰った時、すぐにそのケーキを食べてしまったのですが、妹はお友達が迎えに来てしまったので、おやつは残しておいて外に遊びに行ってしまいました。
さて、後に残されたのはお姉ちゃんとケーキです。
お姉ちゃんはしばらくは我慢して、妹のためにケーキを残しておこうとしたのですが、テレビを観ていても、大好きなお人形で遊んでいてもケーキが気になって仕方がありません。
妹はといえば、待っても、待っても、家に帰ってこない。
お姉ちゃんは、どうしても我慢しきれなくなって妹のケーキを食べてしまいました。
やがて妹が帰ってくると、楽しみにしていたケーキに向かってまっしぐらに飛んでいきます。
しかし、戸棚を開けても、冷蔵庫を覗いてみてもケーキはどこにもありません。
妹はどこを探してもケーキがなくなってしまったので、大きな声で泣き始めてしまいました。
お姉ちゃんはケーキがどこに行ってしまったのかを知っています。
自分のお腹の中ですね。
しかし、お姉ちゃんは妹のケーキは自分が食べてしまったとは言い出せない。
皆さんは、このお姉ちゃんがどのような行動を取ったと思いますか?
しばらく妹と一緒にケーキを探していたお姉ちゃんは、泣き止まない妹を慰めながら、妹がいつも遊びたがっていた、自分の大事にしているお人形を、妹に貸してあげたのです。
これを専門的な言葉で“代償”と言うのですが、生贄とは言ってみればこの人形のようなものなのです。

人間は自分がしてしまった失敗や罪に対して、何らかの形で償おうとする本能があります。
それがそのままの形で返せないようなものの場合には、それに見合うようなものを探して、それを返そうとします。
人間は、潜在的に自分が罪人であるということをどこかで気づいていますから、どの宗教にも生贄やお供えに該当するものがあります。
例えどの宗教に属していなくも、人に優しくしてあげる事や、恵まれない人に何かを上げることなど、良い人間になることを通して、自分の罪を償おうとしているのです。
ところがこれは、先週のメッセージで言う所の、自分でつづったイチジクの葉で、自分の罪を覆おうとするようなものなのです。

先週のメッセージの中では、自分で作ったイチジクの葉では罪を覆い隠す事はできない。血を流されるということが伴わなければならないというお話をしました。
今日の話でも、羊の初子を殺した生贄に神様は目を留められ、モーセの時代に与えられる律法でも、血なまぐさい生贄が求められています。
この部分だけ読んでしまえば、まるで神様が血を好む残酷な悪魔のようなイメージですね。
しかし、実際に神様がこの生贄を食べるわけでもないし、もちろん血が大好きなわけでもありません。

ホセア書6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

しかし律法では生贄を捧げる事が求められています。
生贄を捧げるのは、神様のためではなく捧げる私達のためです。
私達にとって判りやすい生贄という手段を、神様が受け入れてくださったのです。
しかしそれは私達の自己満足のためではなく、これを通して神様が私達に何かを学ばせようとしているのです。
そこに血が流されるのは、それを通して私達が罪の重さを理解するためです。
そして、罪を拭い去るのは、自分の能力や努力ではないということを知るためです。

現代、クリスチャンとして生きる私達は、私達の罪の重さは、神のひとり子であられるイエス様の命に等しいことを知っています。
罪の赦しは私達が善行で罪を償う事によってではなく、イエス様の十字架の血を通して、神様からの一方的な恵みによってもたらされた事を知っています。
それを知り、信じるのが信仰です。

新約聖書の、ヘブル人への手紙にはこのように書かれています。

ヘブル 11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

カインもアベルも、ある時期が来た時には、宗教的行為であるいけにえを捧げました。
カインが神様の存在を否定していたわけでもないし、捧げものを捧げたいと思ったのです。
宗教的な行為としては、自分が育てた作物を神様にお捧げする事は、間違いでも何でもありません。しかし、それはあくまでも宗教的な行為であり、信仰は伴っていませんでした。
そして何よりも、カインはその宗教的な行動と努力によって、神様に近づく事ができると考えていたのです。

アベルは、信仰によって自分の罪の重さを理解し、両親であるアダムとエバがイチジクの葉の代わりに獣の皮を与えられた事も考慮に入れ、謙遜に、信仰をもって、羊の初子を神様への捧げものに選びました。
アベルはこの様にしなさいといわれて羊の初子を捧げたのではありません。
そこにあったのは、驚くべき、圧倒的な信仰です。
そして神様はその信仰を喜び、アベルの生贄を受け取ったのです。

私達はカインのような方法で、神様に近づこうとはしていないでしょうか?
修行によって、善い行いをする事によって、いっぱい献金をする事によって、まじめなクリスチャンである事によって、罪を犯さないようにする事によって、このような私たち自身の努力によって、私達は決して神様に近づく事ができるのではありません。
私達が神様に近づく事ができるのは、神様の一方的な恵みによって罪が贖われたからです。
私達はその喜びがあるから、人を愛したり、いっぱい献金しようと思ったり、罪をなるべく犯さないように努力して生きたいと思う事ができるのです。

宗教的であっても、神様から与えられた福音への信仰が伴わなければ、キリスト教は暗くて堅苦しくて、生き辛いものにしかなりません。
しかし例え宗教的でなくても、生ける神様と共に歩む信仰を強く持っているクリスチャンは喜びに満ちて、輝いて見えます。
罪にまみれたこの世にいながら、しかしどんな困難の時も主が共におられる事を信じることができるからです。
「あなたがたは地の塩、世の光である。」とイエス様は言われました。
私達が地の塩、世の光として生きる生き方は、どちらでしょうか?

さて、自分の能力と努力で主に近づく生き方には、怒りも伴います。

創世記 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

こんなにがんばっているのに、どうして自分の人生はよくならないのだろうか?
どうしてあいつばっかり神様に愛されるんだ?
神様は不公平だ! 意地悪だ!
これがカインの怒りです。
自分ががんばればがんばるほど、その努力が報われなければ絶望し、怒りや嫉妬が募っていくのがその特徴です。
アベルのように信仰を持った生き方は、神様に対する働きそのものを喜ぶことができます。
働いた分の報酬を期待するのではなく、すでに与えられている愛を受け取って、信頼し、喜びがあるから神様のために働き、その働きそのものが喜びなのです。

さて、私達がここまでの所でみる事が出来るのは、アベルの信仰は素晴らしいものだったということです。
一方でカインは信仰も少なく、罪の性質をより濃く受け継いでもいました。
カインの不信仰と、罪の性質は怒りという負のエネルギーを受け、憎しみへと代わり、人類最初の殺人が起こってしまったのです。

しかし、罪の性質を色濃く受け継いでいるのは、何もカインだけではありませんね。
私達もカインには決してひけをとらないような罪人です。
罪人である私達には、アベルのような優等生はムカつくんです。(笑)
いや、別にムカつかないという人はおめでとうございます。
そのような皆さんはきっと、アベルのような素晴らしい信仰を持てている方なのでしょう。

今日のメッセージを聞いていて、自分はカインのようだったなぁと思った皆さん。
安心して下さい。
カインのような私達も、神様に愛されていないなんて絶望する必要はないのです。
それは私達カインもアベルと同じように、いやひょっとしたらそれ以上に、神様に愛されているからです。

4章全体を通して、神様はいつも誰に対して語りかけているのですか?
アベルに対してですか? それともカインですか?
最初から最後まで、アベルに対してはひとことも語りかけていません。
神様が常に語り続けているのは、罪の性質をより濃くもったカインの方です。
それはもちろん、カインの道が正しいからではありません。
カインは悪いものからでた、避けるべき生き方として聖書には描かれています。
しかしカインが嫉妬にかられ、アベルを殺してしまった後も、神様は変わりなくカインに語りかけ続けるのです。

罪を犯せば、私達はその報いを受けなければなりません。
それは痛いし、苦しいものです。
アベルのような素直な信仰を持つことができなければ、クリスチャンである事が辛い事も苦しい事もいくらでもあります。
でもそれは、神様が私たちを見捨ててしまっているということでは、決してありません。
私達が味わう痛みや苦しみを、私達以上に憂いているのは、神様です。
神様は、私達に苦しい道から外れて欲しいと願って、今も私達に語り続けて下さっています。
「私に帰りなさい。」
「罪の道から離れ、正しい信仰の道を歩みなさい。」
自分の罪の結果に嘆き続けるカインに、神様は励まし、悔い改めることを求め続けました。

創世記 4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

カインはついに、神様へと立ち返ることはなかったように見えます。
しかし、私達はそこまでカインを真似する必要はありません。
私達はカインの生涯から学ぶ事ができるはずです。
いじけて、ひねくれて、最後まで神様に背を向け続けるのではなく、今こそ素直に神様の声に従おうではありませんか。

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