Iサムエル記3:1-19 『②~主の声に耳をすませて』 2010/07/18 松田健太郎牧師

Ⅰサムエル記3:1~19
3:1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
3:2 その日、エリは自分の所で寝ていた。――彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。――
3:3 神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。
3:4 そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、
3:5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。
3:6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。
3:7 サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。
3:8 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。
3:10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。
3:11 主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。
3:12 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。
3:13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。
3:14 だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」
3:15 サムエルは朝まで眠り、それから主の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。
3:16 ところが、エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは、「はい。ここにおります。」と答えた。
3:17 エリは言った。「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」
3:18 それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」
3:19 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。

サムエル:祭司エリの元で主の宮に仕える少年。最後の士師であり、預言者となる。
祭司エリ:この当時のイスラエルの祭司。
ホフニとピネハス:祭司エリのどら息子たち。同じく祭司。

乳離れしたサムエルは、祭司エリのところに預けられて、育てられました。
神様に仕える者となるために、祭司のところに送るという事は当然の発想だったでしょう。
しかし、それはサムエルにとって、必ずしも最良の場所だったわけではありません。
もっとも大きな問題は、サムエルが生活する事になったエリの家庭にありました。

エリのどら息子ホフニとピネハスは、祭司の立場を利用して様々な悪を行っていたのです。
ある時は、いけにえとして持ち込まれた肉を奪い取って食べたり、幕屋で仕えている女性と関係を持ったりしていたと聖書には記されています。
父エリもまた、このような好き勝手をして罪の中に留まる息子達を悔い改めさせる事もできない、頼りない指導者でした。
さらに、聖書のこの言葉が、この時代の環境の悪さの程を表しています。

3:1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

その時に祭司として仕えていたホフニとピネハスもさる事ながら、指導する立場のエリでさえ、神様の言葉を聞く事はなく、ビジョンが示される事もありませんでした。
これは、神様がそうしなかったということ以上に、受け取る側の信仰の問題です。
形だけの祭司、形式だけの礼拝、形だけの奉仕だけがここにはありました。
サムエルは主の宮で仕えてはいたけれど、それは掃除や雑用、しきたりと儀式に縛られた毎日でしかありませんでした。
このような中で、主の力がどのようにして及ぶのでしょうか?

① 主の声に耳を澄ませて
その日、サムエルは神の箱が安置されている主の宮で寝ていました。
そして主は、サムエルを呼ばれたのです。
サムエルは初め、神様が呼んでいるのだとはわかりませんでした。
神様が自分に語りかけるなんて、誰からも聞いた事がなかったからです。
サムエルはその度ごとに飛び起きて、エリの元に行きました。

3:4 そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、
3:5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。

これが、3回も続きます。
想像すると笑えますよね。
時々ベスが、寝言を言ったり、寝ぼけて変な事を言ったりして、僕もふざけてそれに受け答えする事があります。
エリとしてみたら、サムエルは何を寝ぼけているんだと思ったのかもしれませんね。

わたし達の神様は、語る神です。
サムエルが3回も主の声を聞いてもわからなかったのは、必ずしも彼自身の問題ではありません。
本来ならそれを教えるべきエリが、それを伝えていなかったのです。
もしかしたらエリ自身も、神様が語られる方だという信仰を失い、長い間形だけの信仰生活を送っていたのかもしれません。

宗教的な指導者であったエリがこのような状態だったのですから、イスラエル全体の信仰がどのような状態になっていたかという事も想像できるでしょう。
神の祭司として選ばれた特別な民、イスラエルは、いつしか神様との本当の交わりを失ってしまっていたのです。
言ってみれば、本来の役割を見失って、神様から離れてしまったのがこの時のイスラエルの状態でした。

イエス様はこのように言いました。

マタイ 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

塩気を失った塩、イスラエルは外に捨てられ、踏みつけられるのが本来起るはずの事だったでしょう。
しかし、神様はイスラエルを見捨てないのです。
神様との関係を見失い、神様の言葉に耳を傾けなくなったイスラエルに、主は新たな器をもたらそうとしていました。
それが、サムエルだったのです。

サムエルが何者かに語りかけられ起きてくるという事が3回も続いた時、エリはようやくこれがただ事ではない事に気がつきました。

3:8 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。
3:10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

ここに来て、エリは初めて霊的指導者としての役割を果たしたと言えるでしょう。
こうしてサムエルが主の声に応答した時、イスラエルと神様との関係が修復されました。
イスラエルは、再び神の民として歩み始める事ができたのです。
わたし達も、信仰生活の中で神様の言葉を見失い、その関係が途絶えてしまうような時があります。
宗教行事だけの礼拝、形だけの祈り、ただの歌となった賛美。
神様の導き、御心がわからない。
そんな時でも、神様がわたし達を見捨ててしまう事はありません。
主はわたし達に語り続け、わたし達との関係を修復しようとし続けて下さっています。
そしてわたし達が悔い改め、主に立ち返るなら、わたし達は再び神様との関係を回復する事ができるのです。

② はい、ここにおります
さて、神様はどうしてサムエルを選んだのでしょう?
長い間主の声を聞く人がほとんどいない状態が続く中で、サムエルが主の声を聞きました。
それは一方的な主の選びでもありましたが、選ばれた理由というものもあったはずです。
どうすれば、語りかけて下さる主の声を聞く事ができるのでしょうか。

7月7日は七夕でした。
七夕の時には笹に祈りの言葉が掲げられますが、ある方が、それを見ていると時として人間の罪深さを思わされるという事を話していました。
「お金が欲しいです。」「DSを下さい。」「ディニーランドにたくさん行けますように。」
そこにあるのは自己中心であり、何かを得れば幸せになれるという価値観です。
まぁ、七夕の願い事をそんなに批判しても仕方がありませんが、わたし達の祈りもまさにこのような願い事ばかりになってしまってはいないかと思うのです。

「あれが欲しいです。」「こうして欲しいです。」という願いを祈る事も悪い事ではないし、実際には大切な事でもあります。
でも、自分の願いばかりを並びたてて、主の声に耳を傾けるのを忘れていたのでは、コミュニケーションは成り立ちません。
わたし達には、主の声に耳を澄ませる時が必要なのです。

そしてもうひとつ、わたし達がサムエルの姿勢から学ぶべきことがあります。
神様に呼ばれた時、サムエルはそれが神様だと知る前から、「はい。ここにおります。」と応答し続けてきました。
これは、私には従う準備ができています、という意味の言葉です。
このような「言われた事に従います」という姿勢が、わたし達には求められているのです。

わたし達は、聖書の中に神様の御言葉を見る事ができます。
主がわたし達に語りかける時、わたし達は「はい。ここにおります。」と応答することができているでしょうか?
多くの場合、わたし達は「これはできるけど、こっちはムリです。」と選り好みしたり、神様に条件を付けるような事をしてしまってはいないでしょうか?

わたし達の心がそういう状態にある時、神様がわたし達の心に語って下さっていても、わたし達自身がその声に耳を閉ざしてしまっています。
神様の声に耳を閉ざしてしまっている限り、わたし達が主の声を聞く事はできないのです。
しかし、わたし達がどんな事でも従う姿勢で積極的に耳を傾ける時、主が豊かに語って下さるその声を、わたし達は心の内に聞く事ができるようになるのです。

③ 告げられた裁き
さて、神様がサムエルに告げたのは、祭司エリの家に対する厳しいさばきの宣告でした。

3:11 主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。
3:12 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。
3:13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。
3:14 だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」

旧約聖書に強調される神様の正しさと厳しさが、ここには激しく描かれています。
エリのふたりのどら息子の非道を神様は捨て置かなかったばかりでなく、その裁きは子供たちの罪を見過ごしてきたエリの上にまで及びました。
全く正しい方であられる神様は、この様な悪を許しておく事はできないのです。
これこそが神様の義であり、厳しさなのです。

これは、日々エリに仕えてきたサムエルにとって、辛くて心の痛む内容だった事でしょう。
また、それをそのままエリに伝える事には非常なためらいを感じたに違いありません。
しかし、エリがその事を察してか、正直に伝えるように促すと、サムエルは全てを包み隠さず、エリに告げました。

このメッセージがどうしてサムエルに告げられ、エリに伝えられたのでしょうか。
それは、罪を悔い改めて、子供たちを罪から遠ざけるようにという、エリに対する最後の警告だったのではないかと思います。
しかし、エリは結局子供たちの罪を止めようとはしませんでした。

3:18c「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」

エリはこの言葉が真に神様からの預言であり、自分自身の罪をも認めていました。
それでも、自分の子供たちを戒めるよりは裁きを甘んじて受け取る事を選んだのです。

その後、ホフニとピネハスはペリシテ人との戦いの中で契約の箱を持ち出し、あろうことか契約の箱を兵器として使おうとしました。(インディー・ジョーンズみたいですね。)
その結果イスラエルは契約の箱を奪われ、3万人もの人々の命が失われる事となりました。
ホフニとピネハスは戦いの中で死に、その報告を聞いた祭司エリもまたショックのあまりその場に倒れ、首の骨を折って死んでしまいました。
これが、神様の義というものです。

しかし、わたし達にはその義を覆うイエス様の十字架があります。

ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

わたし達も彼らと何も変わらない罪びとでしかありませんが、イエス様の十字架はわたし達の罪を贖い、父なる神様はわたし達の罪を見ないと約束して下さっています。
神様の声に、耳をすませて下さい。
神様はわたし達を、その救いにあずからせようといつでも声をかけ続けています。
神様がわたし達に求めておられる最大の事、それはイエス・キリストを主として信じる信仰なのですから。

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