Iコリント15:20-25 『 復活の信仰 』 2015/04/05 松田健太郎牧師

Iコリント15:20~25
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりを通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

今から2000年前、イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかり、その命を私たちに捧げて下さいました。
そしてその三日後、イエス様は死を打ち破り、蘇られたのです。
その出来事を覚え、今もお祝いするのがこのイースターですね。

ではイースターとは、2000年前に起こった出来事を記念して祝うだけのものでしょうか?
復活とは過去に起こった奇跡的出来事だというだけの事で、私たちにはあまり関係がない事なのでしょうか?
そうではないはずですね。

イエス様の教えを守って、清く正しくいきましょうというのは、どの宗教になってできる事です。
そこに語られている倫理、何が悪くて何が正しいかという事は、どの宗教も言っている事が大して変わりません。
でも、私たちが信じる福音は、単に宗教的な教えではない、力が伴い、人生の意味が変わり、生き方そのものに影響を与えるものであるはずです。

ところが私たちは、ついつい今の事だけで頭がいっぱいになって、キリスト教が単なる宗教になってしまうのです。
なぜでしょう?
その理由の一つは、私たちが福音の全体像を理解し、自分のものとして受け止める事ができていないからなのではないかと思うのです。

イエス様はなぜ十字架にかかり、復活したのでしょうか?
それは私たちにとってどのような意味があり、私たちはどのように生きる事が求められているのでしょうか?

① 罪と赦し 十字架と復活
福音の全体像を理解するために、まずは罪と赦しについて考えていきたいと思います。
何度もお話ししている事ですが、私たちはすぐに罪とは何かがわからなくなってしまいますから、繰り返し繰り返しお話ししていきたいと思います。

世界は、創造主である神様によって創られました。
それは全知全能である神様が良かったと思われるような、素晴らしい世界、完璧な世界でした。
この世界を完成するために最後に創造されたのが、私たち人間でしたね。
人間は、神様の愛を受け、神様を愛し、この世界を管理する目的をもって創造されていました。
しかし人間は、神様に背き、自分が神様になろうとしたことによって、神様との関係が断絶してしまったのです。
神様は、そんな私たちを、すぐに滅ぼそうとはしませんでした。
それどころか、人が神様から離れ、呪われた者となったその時から、救いの道を作って下さったのです。
神様は、今から2000年前、イエスという人としてこの地上に来ました。
その生涯は、神様が私たちをどのように愛しているかという事を表しているような、優しさと力、正義にあふれた生涯でした。
そしてその最期に、イエス様は木にかけられ、私たちの呪いを引き受けるという約束を成就したのです。

そこに、神様との関係を回復する、救いの道が拓かれました。
イエス様によって罪が贖われたことを信じ、神様を心から愛するなら、壊れていた神様との関係は修復され、永遠のいのちを神様とともに過ごす事ができるようになるのです。

それでは、神様の計画はそれですべて完了したのでしょうか?
そうではありませんね。
私たちは新しい命を受けたとは言っても、相変わらず罪の影響を受けています。
世界は呪われたままで、初めの美しさは見る影もありません。
イエス様の十字架によって、救いに至る道は拓かれましたが、この世界はまだ壊れたままです。
私たちが個人的に神様との関係を回復しても、世界全体がそのままでは決して天国とは言えない状態なのです。

イエス様は、三日後に蘇りました。
そして、神様の計画がそれで終わりではない事。
それまでの体とは違う、栄光の体を見せ、これこそが本来のあるべき姿なのだという事を示しました。
復活したイエス様が地上にいたのは、わずか40日程でしかありませんでしたが、その間にたくさんの人たちの前に現れ、死が全ての終わりではない事を表したのです。
そしてイエス様は、天に戻っていかれました。
父なる神の右にいて、来るべき時のために備えておられるのです。

② 新しいエルサレム
さて、そんなわけで、復活はイエス様だけのものではありません。
私たちがイエス様を信じて救いの中にあるなら、私たちもやがて、イエス様と同じように蘇るという約束がされているのです。

ローマ6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

そうして私たちは天国に行って、永遠の時を過ごすわけですね。
その時、神様が約束していた神の国の回復は完成するわけです。

さて、それでは天国とはどんな所なのでしょうか?
私たちは何となく、天国というのは霊的な存在がうようよしているような、ぼやっとしたイメージを持っているかもしれませんが、聖書にはある程度はっきりしたイメージが描かれています。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

私たちは新しく創りかえられ、チリによって形作られていた私たちの体は、復活したイエス様と同じように、天国の素材で創られた栄光のからだになります。

3節に出てくる幕屋とは、イエス様の事です。
出エジプトの時代からあった幕屋や神殿は、神様が共におられる事の象徴であり、イエス様を表す型でした。
今や人々は、その完成形であるイエス様に仕える者となるのです。

そこにはもう死による別れもなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。
そこには本当の喜びが、そして本当の楽しみがあるのです。
ただ飲んで遊んで暮らすのでもありません。
生きがいがあり、やりがいがある働きがそこにはあり、私たちは疲れる事もなく、神様を愛し、愛され、御国を立て上げていくのです。

更にこの続きには、天の御国には太陽も月もない事が記されています。
では天国は暗いのでしょうか?
そうではなく、そこには神様の栄光が輝き、永遠に私たちを照らすので、太陽も月も必要がなくなるのです。
そんな不思議な、しかし恵みに満ち溢れに向かっているんだという事を、どうか忘れないでいて頂きたいのです。
イエス様の弟子たちの多くは、決して豊かで平和な一生を過ごしたのではありません。
それでも福音のために生きる価値があると彼らが思えたのは、このような未来が待っている事を知っていたからに他ならないのです。

③ 天に上げられる時まで
それでは、私たちが天に上げられるまで、魂の復活があるまで、私たちは今までのまま、悲しみと苦しみの内に耐えるしかないのでしょうか?
その時が来るまでは、これまでと変わらない生き方をするしかないのでしょうか?
そうではないですね。
天の御国はもう始まっているというのが、イエス様が教えている事です。

新しく創りかえられるその時まで、天の御国に上げられる人と、滅びに向かい続ける人は分けられます。
すでにイエス様に繋がった私たちには、ひとりでも多くの人たちにこの知らせを告げる使命があります。
救われるべき人たちが、ひとり残らず天の御国に来る事ができるように、招待する必要があるのです。

そしてもうひとつ。
私たちは、この準備期間の間に、私たちは新しい天と地で生きるための準備をしているのです。
私たちには色んな準備と訓練が必要だと思います。
賜物を用いて神様に仕える事や、世界のものを管理し、運用していく練習・・・。

しかし一番大切なのは、神様を愛し、互いに愛し合う訓練ではないかと思います。
そうですよね、天国に行って互いに愛し合えないんでは、とても天国とは言えない状態になってしまいます。
だから私たちは、神様を愛し、人を愛する事に関する試練をたくさん受けますよね。
私たちをいつでも悩ませるのは、人間関係の問題なのです。
これは、私たちが自分の力だけで手に負える事ではなかったりします。
それは時として、主にある兄弟姉妹の間でさえ難しい事なのではないでしょうか。
私たちは聖霊なる神様が内に住んで下さることで助けを受けながら、少しずつ神の国に入るための準備をしていくのです。
そしてその間に、不完全ではありますけど、本当の神の国の素晴らしさを地上で体験する事もできるのです。
私たちが与えられた試練のひとつひとつを乗り越えた時、その先に神の国の素晴らしさを見るのではないでしょうか?

そういう体験をしている人たちが福音を伝えるなら、そこには素晴らしい影響力があるんじゃないかと思いませんか?
そして私たち自身も、その体験があるからこそ、ますます天の御国が来るのが待ち遠しくなってくるのです。

イエス様の復活は、私たちすべての復活の初穂です。
最初の人アダムから罪が始まったように、最後のアダムであるイエス様から、新しい命は始まりました。
そしてその命は今、私たちの内に根付いているのです。
祈りましょう。

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