『 罪からの解放③~罪から解放されるために 』 2012/11/18 松田健太郎牧師

さて、これまで罪と言う事に関してお話ししてきたわけですが、大きく分けて二つの事をお話ししてきたつもりです。
ひとつは、わたし達の罪の根源は原罪の中にあるという事です。
原罪と言うのは、“わたし達が神様と離れ”、“自分が神になること”です。
そしてその罪を赦し、贖うために、イエス様は十字架にかかって命を投げ出して下さった。

もうひとつは、原罪が赦されたからそれで良いのではなく、そこから出てくる行いの罪から離れる必要もあるという事です。
なぜなら、行いの罪はわたし達を傷つけ、苦しめるものであり、神様はわたし達がそのように傷つけあう事を願っていないからです。

イエス様の十字架によって、わたし達の罪は確かに赦されました。
しかし、わたし達はそれだけでいいのではなく、救われた人間として、救われた人間らしく生きて行く事が求められています。
実際問題として、わたし達は神様との関係がつながったと言っても、油断をすればすぐに神様の事なんて忘れてしまいますし、罪はどこまでも付きまといます。
わたし達が罪の赦しをしっかりと受け取り、行いの罪から離れて行くためにはどうしたらいいのでしょうか?

そのカギとなるのは、“悔い改め”という言葉です。
わたし達は、罪から離れるために悔い改める必要があると、イエス様は教えているのです。

マルコ 1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
これは、イエス様の言葉として最初に出てくる言葉です。

悔い改めという言葉がイエス様の言葉として最初に出てくるのは、この言葉がイエス様にとってどれほど大切な教えだったかと言う事を意味しています。
それでは、悔い改めとは一体どういうものなのかと言う事を、今日は一緒に考えて行きましょう。

① 悔い改めとは方向転換のこと
“悔い改め”と聞くと、皆さんはどんな事をイメージするでしょうか?
実は、この“悔い改め”という言葉自体がいろいろな誤解を生む原因になっているような気がするのです。
“悔い改め”という言い方をすると、何だか泣きながら後悔しているというようなイメージが僕にはあります。
実際、多くの方が悔い改めと後悔を混同してしまっているように思うのです。
確かに字が似ているので紛らわしいのですが、“悔い改め”と“後悔”とは全く別のものです。

また、悔い改めとは、神様に赦しを乞う事でもありません。
どれだけ心をこめて、泣きながら「神様ごめんなさい、もうしません。」と言っても、それでは悔い改めにはなりません。
ましてや、「わたしはこんな罪を犯しましたから、代わりにこういう良い事をします。」と言って他の行いで償おうとする事は、悔い改めではありません。

わたし達は案外、このような事をして悔い改めた気持ちになっていたりするものです。
それでは、悔い改めとはどうする事なのでしょうか?

先日、ヘブル語で“罪”という言葉はわたし達が連想する犯罪や悪い行いというイメージとは違って、“的外れ”という意味の言葉だというお話をしました。
そこで、“悔い改め”という言葉も本来の意味を調べてみると、少しその本質をつかみやすいのではないかと思います。
“悔い改め”という言葉の本来の意味は、実は“方向転換”という意味の言葉なのです。

どれだけ罪を後悔しても、泣いて反省しても、方向転換をしていなければ悔い改めではありません。
では、方向転換とは具体的にどういう事なのか、一緒に考えて行きましょう。

② 方向転換のための3つのプロセス
第一に、わたし達は自分の罪を認める必要があります。

Iヨハネ 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

わたし達は、今までの方向が間違っている事を認識しなければ方向転換する事ができません。
だからまず、自分の罪を認めなければ、その罪を悔い改める事はできないという事です。
当たり前と言えば至極当たり前の事ですが、実はとても難しい部分でもあります。
なぜなら、わたし達は「自分が正しい」と思っていたいからです。

わたし達は、何でも人のせいにしてしまいたいし、自分の罪は棚に上げておきたいのです。
しかし、わたし達が自分の中にある罪を認めるのでなければ、わたし達は罪の毒に冒され続け、罪による傷を受け続ける事になります。
わたし達は、自分が蒔いてしまった罪の実を刈り取り続ける事になるのです。

第2に、わたし達は神様に立ち返る必要があります。

Iヨハネ 1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

どこに方向転換するのかと言えば、神様に背を向けていた状態から、神様の方向を見る必要があるという事です。
わたし達の罪の本質は神様との関係の中にあるのですから、一にも二にも、神様との関係を戻す必要があるのです。

神様との関係の回復は、わたし達がクリスチャンになった時に起っているはずですが、それでもわたし達は神様から離れ安く、神様からすぐに背を向けてしまうのです。
だから悔い改めて神様の元に立ち返る事は、わたし達には常に必要な事です。

例え神様抜きに罪の行いから離れ、正しい行いをする事ができたとしても、それはやはり神様から離れてする罪の状態である事に代わりはないのですから。

第3に、わたし達は心の一新によって、考え方を方向転換する必要があります。

ローマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

罪から離れる決心を何度もして、しかし何度もその同じ罪に戻ってきてしまうという経験がないでしょうか?
一度はまってしまうと、その罪から離れる事は難しいものです。
わたし達は、そもそもその罪に陥ってしまうのにも原因があったりするわけですから、価値観や、考え方そのものが変わるのでなければ、罪から離れる事はできないのです。
だからわたし達は、単に罪から離れる決心をするのではなく、心を一新させて完全に方向転換する必要があります。

究極的には、わたし達は神様の視点で罪を見る必要があるのです。
わたし達が神様の視点でその罪と向き合う事ができた時、わたし達はどうしてその罪から離れる必要があるのかという所まで理解する事ができるようになるはずです。
その罪がどれほどわたし達を苦しめ、大切な人達に傷を与えるのかという事も助けになります。
わたし達は、神様が憎むようにその罪を憎むようになれば、そこから離れる努力を惜しまないほど積極的にもなる事ができるのです。

③ 罪からの解放
さて、悔い改めをしたわたし達が、気をつけなければならない事がひとつあります。
それは、過去を振り返らないという事です。

先ほど、悔い改めと後悔は字が似ているけれど全然別のものだという話をしました。
わたし達が罪から完全に解放されるためには、後悔はむしろ害になる事さえあるのです。
過去を振り返り、罪を後悔するたびに、罪に目を向けてしまう事になるからです。

わたし達は失敗を繰り返さないためという事もありますが、ついつい過去の罪や失敗に目をむけてしまうのではないでしょうか?
しかし、それも度を超すと、わたし達はむしろどんどん罪に捕われて行ってしまうのです。

過去の罪に捕われるわたし達は、罪悪感にさいなまれる事になります。
わたし達は、確かに自分の罪を認識する必要はあるのですが、それが罪悪感となると、わたし達の心を蝕んでいく事にしかなりません。
それはわたし達の心を苦しめるだけでなく、結局わたし達を罪の中に閉じ込めてしまう事になるのです。

わたし達が本当に罪から解放されるために必要なのは、わたし達が自分の罪にいつまでも目を留めるのではなく、神様に目を留め続ける事です。
これこそが、悔い改めという方向転換の真髄と言っていいのかもしれません。

わたし達の罪は赦され、贖われているという事。
わたし達は、神様から愛されているという事。
神様の広さ、長さ、高さのすべてを知ろうとする事。
主が与えて下さる聖霊の満たし。
わたし達がそのような神様の恵みに身を浸し、満たされていくほどに、わたし達は行いの罪から離れている事にも気がついて行く事でしょう。
もちろん、全ての罪がなくなるという事は、天国に行くまではないでしょうが・・・。

聖書はこう教えています。

ローマ 6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

わたし達はもう、罪から解放されています。
わたし達は、自由なのです。
わたし達はもう、罪に留まり続ける必要はなく、罪の奴隷ではないのですから。

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