イザヤ9:1-7 『アドベント1 救い主誕生の預言』 2008/11/30 松田健太郎牧師

イザヤ9:1~7
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

ミカ5:2
5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

今日からアドベントですね。
アドベントというのは、クリスマスの日から数えて前の4週分の日曜日の事をいいます。
この4週間の間に、私達はキリストの誕生を待ち望んだ人々に倣って、クリスマスを待ち望むのです。

皆さんは、イスラエルの人々が救い主の誕生をどれだけ待ち望んでいたかご存知でしょうか。
イスラエルの人々は、神様に選ばれた民としての栄光を受けているのに関わらず、神様から何度も離れ、自ら招いた試練の中で苦しんでいました。
彼らは近隣の大国からの侵略を何度も受け、その度に支配者からの圧制の中にあったのです。

紀元前760年頃。
先ほど読んでいただいた聖書箇所の、預言者イザヤとミカの時代もまた、まさに暗黒の中にあるかのような絶望の時代でした。
イスラエルはエジプトとアッシリア帝国というふたつの大国の間で、いつ滅ぼされてしまうかわからないような状況の中にあったのです。

① イザヤの預言
現代でも、大変な迫害や圧制の中で苦しんでいる人たちがたくさんいます。
世界全体を見渡してみれば、戦争や紛争が溢れていて、平和だといえる国のほうがずっと少ないのです。

そのような苦しみは外国だけの事かと言えばもちろんそうではありません。
私達が生きているこの裕福な日本という国でも、貧しさや心の問題で苦しんでいる人たちがたくさんいますね。
特に日本は、自殺大国とも言われています。
年間3万人以上の人たちが自ら命を絶っていくのは、人々がこの国で生きていくことに絶望していくからに他なりません。
私たちにとっても、暗闇と言えるような絶望的な状況に陥る事は、他人事とは言っていられないほど現実的な事なのではないでしょうか?
もしかしたら、今まさに絶望を感じている方がこの中にもいるかもしれません。
そうでなくても、そのような身内や友人を知っている方は少なくないのではないでしょうか。

希望という光がなくなった場所には、暗闇が訪れます。
もしこれからの展望を少しでも見出す事ができるなら、人々が絶望的になってしまう事もないかもしれません。
がんばれば切り抜けられるような状況なら、がんばって抜け出せばいいのです。
しかし、そんな希望の光が少しも感じられない中で、私達はどうすればいいのでしょうか。

しかし預言者イザヤは、誰もが絶望感に打ちひしがれて立ち上がれなくなっている時、人々にこの様な神様の言葉を伝えました。

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

人々はその言葉に希望を見出し、主に立ち返りました。
そしてイザヤが人々に伝えたとおり、やがてアッシリアはその勢力を弱め、イスラエルの人々は解放され、自由を得てていったのです。

しかし皆さん、イザヤが人々に語ったこの言葉は、ただこの時代のイスラエルの事だけを指しているのではありません。
イザヤの預言は、この様な救い主誕生の預言へと繋がっているからです。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

この預言もまた、今から2000年前にイエス様が地上にお生まれになったときに現実のものとなりました。
皆さん、希望の光が失われて暗闇となったところにも、イエス様の光が訪れるのです。
イエス様という希望の光の前には、どんな闇も存在している事ができない。
かつて神様が、イザヤの預言どおりにイスラエルを苦難から解放されたように、イエス様は私たちを、罪と絶望の暗闇の中から救い出し、解放してくださいます。
そのイエス様の誕生を祝う時だからこそ、私達はクリスマスを盛大にお祝いするのです。

② 真の王メシヤ
イザヤは、私達の救い主とはどの様な方なのかという事も預言しています。
ひとつには、不思議な助言者と呼ばれるような方であるという事。
私達は何か問題を抱えた時、誰かに相談して助言を仰ぐのではないでしょうか。
しかし、イエス様以上に的確な助言をする事ができる方は、他にいません。
イエス様は、この地上の誰よりも前からこの世界にいて、私たち自身以上に私たちの事を知っているからです。
そして、私達が抱えている全ての悩みに対する答えを持っている方は、この方を置いて他にはいません。

第二に、救い主は力ある神そのものです。
私達は、この人では力不足だからと他の誰かを探したり、上司を呼んでもらう必要はありません。
だからこそ私達は、この方に信頼する事ができるのです。

第三に、救い主は永遠の父です。
その正しさによって私たちを裁くのではなく、父の愛をもって私たちを力強く愛し、守り、包み込んでくださるお方なのです。

そして第四に、私達の主は平和の君です。
争いによって、また恐怖によって私たちを支配するのではなく、愛と、喜びの中で私たちに仕えて下さる方。
宝石で飾られた王座に座る権威をもっているのに、十字架を王座として選ばれたお方です。

そのような王の到来を夢見て、そして救いと解放を心から期待して、人々は救い主の降誕を待ちわびていたのです。

③ ミカの預言
イザヤと同じ時代、もうひとりの預言者ミカもまた、救い主の到来を預言していました。
この預言では、救い主がどこで産まれる事になるかと言う場所までもが預言されています。
イエス様が生まれた時、時の王ヘロデは救い主の誕生によって自分の地位が奪われるのを恐れ、この預言に基づいてベツレヘムで産まれた子供たちを片っ端から殺したのでした。
救い主がベツレヘムで生まれるという事は、それ程有名な事だったのです。

今日紹介した預言以外にも、旧約聖書には様々なかたちで、救い主に関する預言が300以上記されています。
もっと言うなら、実は聖書全体に記されているのはどうやったら幸せになれるかとか、どうやったら素晴らしい人間になれるかという話ではなくて、イエス様の事について書かれているのです。
旧約聖書もまた、ユダヤ人の歴史を追っているかに見えて、そこに記されている主題は、人類にとって救い主の存在がいかに必要かという事に関してなのです。

それは、神様から離れてしまった私たちにとって、暗闇を照らし出すイエス様の光は、何にも勝る希望だからです。
ヨハネの福音書は、この様な言葉から始まります。

ヨハネ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

暗闇の中で救い主を待ち望んだ人々は、やがてこの世界に救い主を迎え入れた喜びに溢れ返る事になりました。
それに倣ってアドベントを過ごす私たちも、イエス様の誕生日へと向かうこの一ヶ月を、たくさんの期待を持って過ごしていきたいものです。
また、もしイエス様の光にまだ触れられていない方がいらっしゃるのだとしたら、どうかこの時をイエス様との出会いの時として下さい。
全ての人が、人生の中でイエス様と出会う、降誕の時を必要としているからです。
皆様が素晴らしいアドベントを過ごし、祝福にあふれたクリスマスを迎えることができますように。

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