エペソ2:1-9 『新しい命にある喜び』 2009/12/06 松田健太郎牧師

エペソ2:1~9
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

皆さんは、身近に死というものを経験した事があるでしょうか?
親しい人が死んでしまったときには、本当に悲しくなってしまうものですよね。
“死”というのは不思議なものです。
わたし達の呼びかけに答えるはずが、まったく何の反応もしなくなってしまう。
ついさっきまで動いていた人が、突然全く動かなくなってしまうのはとてもショッキングでもあります。
でも皆さん、もし「実は、あなたも死んでいるんですよ。」と宣告されたら、皆さんはどう反応するでしょうか?

聖書にはこのように書かれています。

エペソ 2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

アダムとエバが、善悪の知識の木から採って食べた時、肉体的にはすぐに死ななかったという話を先週はしました。
しかしその時、人の霊は、神様の前に死んだものとなっていたのです。
ですからアダムとエバの時代から、誰でも生まれながらのわたし達は、神様の前に死んだ状態なのです。

わたし達が死んだ人に呼びかけても決して応えないように、神様に対して死んでいるわたし達は、神様からの呼びかけに応える事はありません。
神様は常に、わたし達に語り続け、関わり続けています。
しかし、生まれながらのわたし達は神様の前に死んだ状態にあるので、神様の働きかけを感じる事ができず、何の反応もする事ができないのです。

日本のようにクリスチャンが少ない文化の中で生活していると、クリスチャンになる事はとても不自然な事に感じる事があります。
キリスト教が本当に真理だと言うのなら、どうしてこんなにも多くの人たちはそれに関心すら払わないのだろう? と疑問を持つことはありませんか。
それは、生まれながらのわたし達は、神様の前に死んでいるからです。

また、ノンクリスチャンの人と神様の話をしていると、お互いが全く異次元の言葉をしゃべっているように、会話が交わらないと言う経験をする事があります。
それもやはり、人々が神様の死んでいることが原因です。
そのギャップが存在する以上、理屈や説得によっては、基本的に人が信仰をもつ事はありません。
神様との関係が断たれてしまっているので、神様の事を理解する事ができないのです。
ですから生まれながらのわたし達は、神様のことは知識として理解する事ができても、体験的に認識する事はできないのです。

「わたし達は罪人である」という話だけなら、まだ自分の努力で挽回したり、罪を止めることができるのではないかという気がします。
しかし、「わたし達は神様の前に死んだものである」という話になってくると、もうどうする事もできないですよね。
事実、救いというのは、わたし達にはどうする事もできない事なのです。

わたし達がどれほど良い人間だったとしても、わたし達には死の問題を解決する事はできません。
わたし達が神様の前に死んだ状態のまま、どれだけ善い行いを積み上げても、人格者として成長したとしても、それによって生き返るわけではありません。
わたし達が、どれだけ宗教に熱心だったとしても、死んでしまっているのですから、大した意味はありません。
わたし達が神様の前に死んだ状態である限り、わたし達と神様との間には絶対に超える事のできない大きな溝があります。
そして、唯一正しいお方である神様の意思を知る事ができないなら、わたし達の行動が神様の目に正しいかどうかを知る事すらできません。
わたし達に必要なのは、死んだわたし達を蘇らせる新たな命であり、それ以外の何でもないのです。

そう考えてみると、イエス様は様々なところで、このいのちについて話していたのを思い出さないでしょうか。
ニコデモを前に、イエス様は「人は新しく生まれなければ神の国を見る事はできません。」と言いました。
また、放蕩息子の話の中でイエス様は、帰って来た息子を喜ぶ両親にこう言わせています。
ルカ15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
そしてイエス様は自らを、「わたしはよみがえりであり、いのちです。」と言いました。

わたし達の望みは、イエス様にあります。
そして、希望はイエス様にしかないのです。

エペソ 2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

イエス様は、蘇りであり、いのちです。
イエス様と共にいるものは、死んでも生きます。
そしてそれは全て、神様が一方的に与えてくださる恵みです。
わたし達が何かすることによって勝ち取る事ができるものは、何一つないのです。

* * *

イエス様と出会い、新しい命を与えられた人は、神様の前に生きる者となった人です。
だから、神様の呼びかけを聞き分け、神様との正しい関係を築く事ができるのがクリスチャンの本来の姿です。

神様との正しい関係をもつと、わたし達はどうなるでしょうか?
それは、聖書を通して語られる神様の言葉を聞き分け、祈る事に喜びを感じ、心から賛美するようになるんですね。
それは、神様との関係そのものが楽しいからです。

聖書を読む事は誰にでもできます。
祈りの姿勢をとって黙する事も誰にでもできます。
また、賛美の歌を歌う事は誰にでもできます。
しかし、それを通して神様との絆を深め、神様の愛に感動し喜ぶ事は、霊的に死んだ状態では絶対にできない事なのです。
喜びに満ちた神様との関係。
それは、クリスチャンだけに与えられた特権です。

Ⅰコリント 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

ところが、そこに問題が起こります。
せっかく神様の前に生きる者となったのに、わたし達は生きた者としては生きないでいるというとてももったいない事もできるという事です。

だれがわざわざそんな選択をするかと思うかもしれませんが、もともと神様との関係を知らないで来たわたし達は、簡単にその状態に戻ってしまうものだということです。
実は多くのクリスチャンが、時々は神様の導きを感じ、聖書を読む事に喜びを覚え、熱心に祈りたいと感じる一方で、いつでもそういう状態というわけではないというのが、実際のところなのではないでしょうか。

わたし達がせっかく得た、神様との生きた関係を阻害するものがいくつかあるのです。
ひとつには、“悪魔の誘惑”です。
神様の御業を恐れる悪魔にとって、新しい力を受けたクリスチャンは脅威です。
悪魔はあらゆる手段を用いて、わたし達を神様から遠ざけ、わたし達が力のないもののように信じ込ませようとします。
わたし達は、そのような誘惑に負けてはなりませんね。

ふたつ目に“自分自身の肉の思い”です。
パウロは、神様から離れて肉の思いに戻ってしまったコリントの教会の人たちに、このように警告しています。

Ⅰコリント 3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

これまでの人生を肉だけによって生きていたわたし達は、御霊という新しい命を得ても、これまでの習慣ですぐに肉の生き方に戻ってしまいます。
しかし、わたし達はもはや肉に属するのではなく、神様に属する者になったのです。
その事を忘れてはなりません。

そしてみっつ目に、律法主義です。
律法そのものは悪いものではありません。
しかし律法というものは、わたし達の表面的な行いの部分について語っているものなので、わたし達が本来の目的を忘れて、表面的に取り繕う事ばかりに熱心になってしまいがちなのです。
わたし達にとっても最も大切なのは、神様との関係であって、行いはその結果でしかないということを忘れてはなりません。
そして、行いとして現れるにはそれなりの時間が必要だという事も忘れてはならないのです。

他にもあるかもしれませんが、“自分の思い”、“外からの声”、そして“表面的な行い”が、わたし達の心を本当に大切なものから逸らしてしまうきっかけとなるものです。
わたし達のフォーカスがずれてきているかどうかを判断する事は、難しい事ではありません。
自分自身が、神様との関係そのものに喜びを感じる事ができているかどうかを考えてみれば、わたし達の魂がどのような状態にあるかを知る事ができます。
そして自分自身が神様か離れている事に気がついたなら、もう一度神様の元に戻ればそれでいいのです。
それが、聖書の中で言われている真の“悔い改め”です。

皆さんは今、どのような状態にあるでしょうか?
生まれながらの、神様の前には死んだ状態でしょうか?
新しい命を得て、神様との関係に喜びを感じている状態でしょうか?
それとも、新しい命を得たはずなのに、死んでいる人のようになった状態でしょうか?
最後に、ダビデが書いた詩篇とともにメッセージを終わりたいと思います。

詩篇 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。
16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

皆さんと共に、主にある喜びが満ち溢れたものとなりますように。

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