マタイ1:18-25 『 ヨセフの勇気 』 2010/12/12 松田健太郎牧師

マタイ1:18~25
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

町もどんどんクリスマスらしくなってきて、華やかで楽しい雰囲気にあふれています。
街を行くほとんどの人がクリスマスの本当の意味を理解していないという事は残念ですが、クリスマスをこうして楽しいイメージとして持つ事ができるのは嬉しい事ですね。
クリスマスは楽しいもの、嬉しいものであるべきです。
だってそれは、神様がわたし達に最高のプレゼントを送ってくださった事を祝う時なのですから。

神様が送ってくれた最高のプレゼントとは何でしょう?
それはそう、神のひとり子イエス・キリストですね。
イエス様が地上に生まれて下さり、十字架にかかってわたし達の罪を贖って下さったというのが、わたし達の希望なのです。

しかしこれは、イエス様の救いを受ければご利益があり、わたし達の人生にはいい事ばかり起るようになるというようなものではありません。
日本人の宗教観では、ご利益を受けるために信仰をもつという人が多いように思います。
だから、クリスチャンになれば良い事が起るはずだとか、信仰をもって悪い事をしなければ、悪い事は起らないと考えてしまう傾向があったりします。
ところが、それは大きな勘違いなのです。

① 問題の時そこにいる主
マリヤの夫となるヨセフという人は、悪い思いや行いに囚われる事のない正しい人でした。
そして彼には、確かな信仰もあったのです。
では、彼の人生は順風満帆で、何も悪い事は起こらなかったかと言えば、そうではありません。
彼の人生には、ある時とんでもない事が起ってしまうのです。
婚約者が突然、こんな告白をしたんですね。

「私のお腹には赤ちゃんがいるの。・・・待って、実はわたしの前に天使が現れてね、この子供は聖霊によって与えられた子供なのよ。」
皆さんがヨセフの立場だったらどのようにリアクションしますか?
ショックなんて言うものじゃないですよね?
プロポーズをして、これから結婚しようとしている矢先に、彼女が自分の子供ではない赤ちゃんを身ごもってしまう。
しかも、わけのわからない言いわけをしている(笑)。
普通であれば、ヨセフは絶望的な衝撃を受けて、このままこの関係は終わりです。
純潔を重んじるユダヤ人の社会ですから、もっと酷い事が起るかもしれませんが、何か良い事が起るとは思えないような出来事が、彼の人生に起ったのです。
しかし神様の計画は、そんなヨセフの思いを遥かに超えた所にありました。
この子供こそ、ユダヤ人が長い間待ち望んでいた救い主、キリストだったのです。

わたし達の人生にも、調子がいいと思っていた矢先に、ある時突然このようなショックを受ける出来事が起ります。
家庭崩壊。
いじめ。
事故、大きな病。
障害を持った子供を抱える。
どれも、誰の身にでも起りえる事です。
しかしそれがわたし達の身に起った時、わたし達は神様に訴えるかもしれません。
どうしてこんな事が私の身に起るのでしょうか、主よ?
あなたはわたしに祝福を与えて下さらないのでしょうか?
確かに、そのような痛みを経験しないで済めばどれほど良いかと思う事もあります。
でも神様は、このような痛みや逆境を用いて、その御業を示される事があるのです。

目が見えない人は、目が見えないからイエス様によって見る事ができる祝福を味わう事ができました。
歩く事ができない人は、歩く事ができないからこそ、イエス様によって歩く事ができる素晴らしさを経験する事ができました。
子供を失った人は、そのような悲劇を経験したから、イエス様によって命が与えられる事の素晴らしさを知る事ができたのです。

わたし達が直面する危機や悲劇のすべてが解決するとは限りませんが、神様はどんな事をも用いて祝福にする事ができるお方だと僕は信じます。
それは、聖書の中にこの様に書かれているからです。

ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

② 神様の御心を求める
そうは言っても、全ての試練が祝福に変わるのかと言えばそうではありません。
悲劇が起った時、そこから立ち直る事ができないまま、絶望に埋もれて行く人達もいます。
試練を祝福に変える事ができる人と、できない人がいるかのようです。
いやむしろ、試練を祝福に変える事ができない人の方が多いでしょう。
辛い経験はいつまでもただ重荷であるだけで、傷は残しても、祝福には変わらないのが普通なのです。
なぜなら、罪人であるわたし達は、自然な状態では神様の祝福を受け取りにくくなっているからです。

ご存じのとおり、ヨセフはユダヤ人です。
彼がこの時、ユダヤ人にとって当たり前の行動をしていたら、ヨセフはマリヤを姦淫の罪で訴え、石打ちの刑に処していたかもしれません。
それが当たり前のことであり、楽な選択だったはずです。
あるいは現代なら、当然のように子供を堕胎させてごまかそうとしていかもしれません。
この時どちらの選択がされていたとしても、恐ろしい事ですが、人類に救い主は与えられる事はなかった事になります。

幸い、ヨセフは多くのユダヤ人よりは心優しく、正しい心を持った人でした。
しかしそれでも、元々の彼の計画では、結婚をやめて、マリヤを去らせるつもりでした。
常識に従っても、自分自身の判断に頼っても、神様の御心の通りにはいきません。
問題は問題であって祝福ではない、という結果にしかならないのです。

しかし、わたし達が試練を祝福に変えるための秘訣がこの後の出来事の中にあります。

マタイ 1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
御使いのこの言葉に従い、ヨセフがマリヤとの結婚を決断した事が、試練を祝福に変える第一歩となったのです。

多くの場合、わたし達は問題に直面した時、その状況の深刻さに慌てて何とかすぐに自分で解決しなければと思うのではないでしょうか?
あるいは他の誰かに相談し、常識的な意見に従って行動に移してしまおうとするのではないでしょうか?
しかしそれでは、わたし達の心が主のご計画と一致する事はありません。
神様の方法は、わたし達が期待している方法とは得てして違うものなのです。
イザヤ 55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

ですから、困難が祝福に変わるためにはこの3つの事が必要になります。
第一に、神様に助けを求め、祈る事。
第二に、神様の声に耳を傾け、祈りの答えを聞く事。
第三に、神様の御心に従うという事です。

わたし達が自分の道ではなく、人が歩ませる道ではなく、神様が歩ませて下さる道を歩み始めた時、わたし達が直面する問題は祝福へと変わります。
悲劇が悲劇のままで終わらず、絶望は希望に変わり、嘆きは喜びへと変わっていきます。
わたし達の人生にも、それは起るのです。
皆さんはそれを信じるでしょうか?

③ 必要なのは勇気
しかしそれは、簡単な選択ではありません。
想像してみて下さい、結婚前に自分のではない子供を妊娠してしまった婚約者と結婚する決意をしたヨセフの心境はどんなものだったでしょうか。
すでに町中の人達がこの事を知り、二人の事をうわさし、からかい、目をそらす。
時には正面切って、マリヤとの結婚を反対される事もあったでしょう。
聖書の中では触れられていませんが、この結婚に関して、二人の両親はどのように反応をしたでしょうか?
恐らくは歓迎されない結婚、友人からも、家族からも祝福されない結婚だったのではないでしょうか。

マリヤとヨセフが本籍地であるベツレヘムに帰った時、宿に泊まる部屋がなかった事は有名です。
しかし、そこが彼らの故卿だったなら、そこには泊めてくれる親戚の一人や二人いたはずではないでしょうか?
しかしふたりは、親戚の家にお世話になるのではなく、宿を探さなければならなかった。
その状況それ自体が、彼らの結婚の困難さを物語っています。

ヨセフとマリヤにとって、神様に従う決断をする事はそのような困難に立ち向かう決断でもあったのです。
だから御使いはヨセフに告げたのです。

1:20b 「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。

わたし達は、今直面している困難が、さらなる困難に向かうかもしれない事をわかっていても、神様の御心に従う事ができるでしょうか?
神様の道を歩むという事は、確かに決して簡単な事ではありません。
しかし、そこにしかない祝福があるのです。

神様に従う決断をする時、わたし達は必ず勇気を試されます。
それは、これまで自分が握りしめてきたものを手放す勇気かもしれません。
それは、自分の力ではなく、神様に全てを委ねる勇気かもしれません。
それは、人から嘲笑われたり、非難されたりしても信仰をつらぬく勇気かもしれません。
それは、自分の側から関係を修復しようとする勇気かもしれません。
神様が皆さんに問われている勇気は、どんなものでしょうか?
わたし達に勇気を施すもの、それは聖霊の働きです。
聖霊がわたし達の心に囁きかけるのです。

わたし達に求められているのは、このようなヨセフの勇気です。
「ああ、自分には勇気なんてないからダメだ。」と思われる方もいるかもしれません。
そうであっても、わたし達は絶望する必要なんてありません。
その勇気を与えてくれるのも、神様だからです。
わたし達に必要なのは、神様に従う事のできる勇気が与えらえるようにと祈り始め、そして神様が必ず与えて下さると信じる事です。

イザヤ 41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

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