マタイ6:5-8 『人に聞かせるためではなく』 2008/08/31 松田健太郎牧師

マタイ 6:5~8
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

みなさん、仲のいい友達はいますか?
たくさん人がいて、友達や知り合いがいっぱいいる中で、『この人とは仲がいい』と思えるのはどのような条件でしょうか?
まぁ、色んな条件が挙げられるでしょうが、この人といるといつまでもしゃべってしまうとか、気さくに何でも話す事ができるとか、“話す”という事がひとつのキーワードになるのではないかと思います。
「仲のいい友達はいます。でも、あまり話した事はありません。 」というのは、何だか意味が通じないですよね。

夫婦が離婚の危機を感じるのは、夫婦の間で会話が少なくなってきた時だそうです。
また、非行に走ったり、ひきこもる子供たちをもつ親の多くは、子供と何を話していいか分からないという悩みを抱えています。
私たちにとって“話す”という事はとても大切な事です。
私たち人間は、他のどの動物よりも、互いの意思を分かち合い、共有する事ができるように創造されているのです。

では、神様との会話はどうでしょうか?
皆さんは、どれくらい多く、また深く、神様と会話しているでしょうか?
多くのクリスチャンが、神様との関係が深くならないという悩みを抱えていますが、その多くはこのコミュニケーション不足にあるように思えるのです。
私たちが人との関係を深めるために、“話す”という事が不可欠であるのと同じように、神様との関係を深めるためには話す必要があるのです。

今日から5回にかけて、“祈り”という事をテーマとしてメッセージをしていく事になるのですが、“祈り”とは神様との対話に他なりません。
この学びを通して、皆さんが神様との対話を増やし、関係を深めることができるようになるといいなぁと心から望んでいます。

① 偽善者たちの祈り
今日は特に、どんな祈りがよくないのかという事から見ていきましょう。
イエス様が祈りの悪い見本として挙げている最初の祈りは、偽善者たちの祈りです。

6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

言葉の意味や、聖書の全体像を考えず、この部分だけを切り取って解釈しようとすると、「人前で祈ってはならない。人目につかないところで祈りなさい。」と言われているように思うかもしれませんがそうではありません。
私たちは礼拝の時、司会者が代表して皆の前で祈りますね。
また、学びの時などに代表して祈っていただく事があります。
皆さんも、他の人と共に祈る事があるのではないでしょうか。
その時には、人前で祈る事もあるでしょう。
私たちが礼拝の時などに人前で祈るのは、その祈りに合わせて一緒にいる人たちが心を合わせて祈るためです。
イエス様も弟子たちも、人前で祈った事はありますし、ここで言われている偽善者の祈りというのは、会堂で礼拝中に祈られる祈りとは別のものなのです。

偽善者とは、どういう人たちのことなのでしょうか。
あまり日用的に使う言葉ではありませんから分かりにくいですよね。
偽善という字は、『善であると偽る』と書きます。
これは、外面的には善い行いに見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己的な思いから行われる事を指しています。
そしてイエス様がここで言っている偽善者とは、特にパリサイ派のユダヤ人たちの事を指していました。

実は、この当時パリサイ派の人たちがしていた祈りは、人に見られようとして会堂や通りの四つ角で立って祈る事だったんです。
そこで彼らは大きな声で、世界の平和やかわいそうな人たちのために祈るのですが、それは結局のところ、自分が祈る姿を見せびらかして、自分の信仰深さを一生懸命誇示しようとしていたのです。
皆さん、この祈りは一体誰に向けられた言葉でしょうか?
これは神様に対して語られている言葉ではなく、人に聞かせるための祈りですよね。
祈りとは、神様との対話であって、人に向けられるべきものではありません。
私たちは神様を利用するような事をするべきではないのです。

でも、別の形でこのような祈りを、私たちもしてしまいがちではないでしょうか。
きれい事ばかり並び立てる、見せびらかすような祈りというものがあります。
あるいは本人のいる前で、「お父さんがクリスチャンになりますように。」と祈ってみたり、「○○ちゃんがいい子になりますように。」と祈ってみたり。
それは祈りの形を利用して、そこにいる人たちにメッセージを伝えているのです。
「これは祈りではない。このような祈りをしてはならない。」とイエス様は私たちに言っているのです。

② 異邦人の祈り
悪い見本としてもうひとつ表されているのは、イエス様が異邦人の祈りと呼んでいるものです。

6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

これも、この聖書箇所だけを切り取って考えると、「同じ事を何度も祈ってはならない。」と言われているように思えるかもしれませんが、そういう事ではありません。
イエス様も、ゲツセマネでは「この杯を取り除いてください。」と何度も祈りました。
熱心に、しかも執拗に求めるようにと教えたのも、イエス様です。
ですから、同じ事を何度も祈る事が問題なのではないのです。

ここで表されている祈りは、“異邦人のような祈り”という事と、“繰り返す”という言葉がキーワードになります。
異邦人というのは、わかりやすく言えば外国人の事なのですが、これは外国人の信徒の事ではありませんね。
他の神を信仰している異教徒という事です。
つまりイエス様は、異教的な祈りをしない様に気をつけなさいと言っているのです。

異教の祈りは、多くの場合、同じ文句の繰り返しです。
私たちにとって分かりやすいのは、仏教の念仏ですね。
祈りというのとは違うかもしれませんが、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経という言葉を何度も唱和する事が大切な事とされます。
僕もうちが日蓮宗ですから、少しはお経も覚えましたが、どういう意味なのかは未だにさっぱりわかりません。
仏教では、意味がわからなかろうと唱えればいいのが念仏の教えなのかもしれません。
しかし、私たちの祈りはそのようなものであるべきではありません。
神様にとって大切なのは、私たちの心からくる言葉なのであって、形式や言葉そのものではありません。
例えそれが主の祈りのように完璧な祈りの形であったとしても、それが心から来るものでないなら意味はないと僕は思います。

また、異教的な祈りとは、何度も同じ事を繰り返し唱える事によって、それが実現するというようなものもあります。
以前紹介した、ニューエイジ的な考え方もそうですね。
「ありがとう。」と百万回言ったら良い事が起こるという考え方です。
それもまた、私たちの祈りとは全く違うものです。

そのような祈りの中にある思想は、私たちが何かをする事によって神を動かそう、自分の思い通りにしようとする考え方です。
それは祈りとして正しくないというだけでなく、自分を神にしようとする罪の表れに他なりません。
神様は私たちの思い通りに動かされるような方ではないのです。

イエス様はこう言っています。

6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
神様は私たちが求めるよりずっと以前から私たちの必要を知っていて、値なしでそれを私たちに与えてくださいます。

先週も言いましたが、私たちの祈りによって神様を変える事はできません。
祈りを通して変えられるのは、神様ではなく、私たちなのです。
私たちが繰り返し祈るのは、それによって神様の気持ちが変わるからではなく、私たちが繰り返し本気で求めていく中で整えられていくからです。
だから私たちは、自分の思いを神様に伝える以上に、神様からの答えに耳を澄ますのでなければ、私たちが十分に変えられ、整えられていく事も難しいのではないでしょうか。
ただ長く祈ったり、繰り返せばいいというものではないのです。

③ 神様に向けた祈り
では結局のところ、私たちはどのようにして祈ったら良いのでしょうか?
私たちがよく理解しなければならないのは、祈りとは誰に向けられたものなのかという事です。
祈りとは、神様との対話だと言いましたね。
結局大切なのは、私たちがひとりで祈っていようと、みんなで祈っていようと、その祈りが神様にのみささげられているのかどうかという事、私たちの思いが神様にのみ向けられているのかという事です。

誰かがわざわざ皆さんのところにきて、皆さんに向かって話しかけているのにも関わらず、その内容はAさんに話しているような事をされたらどうでしょうか?
直接Aさんに話したらいいじゃないかと思いませんか?

あるいはある人が、講読文を持っていて、その文に沿った内容でしか話しかけてこないとしたらどうでしょうか?
その方と仲良くなれるでしょうか?

あるいは自分の欲しい物だけを一方的に話しかけてきて、こちらの言う事は何も聞かないでどこかへ行ってしまうとしたらどうでしょうか?
自分が誰かに同じ事をされた事を想像してみると、なんと失礼な祈りをしていたんだろうなんて思わされますよね。

誰に語りかけているのかと言う事を明確にしましょう。
私たちクリスチャンに与えられている特権のひとつは、祈るべき対象である神様の事を良く知っているという事です。
私達は祈りを聞いてくれそうな相手を探してさ迷う必要はありません。
祈りを聞いてもらうために媚びて何かを捧げる必要もありません。
私たちは、私たちを愛してくださり、祝福を与えてくださる神様にいつも期待することができます。
私達は他の誰に対してでもなく、創造主である神様に向かって祈るのです。

私達の心は神様に向かっているでしょうか?
考えてみれば当たり前のことでも、私達はそうと聞かされて初めてそうかと思えるものでもありますよね。
来週からも引き続き祈りについて学んで行きたいと思います。
このシリーズを通して、皆さんの祈りが更に祝福に溢れたものとなりますように。

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