マルコ14:32-42 『聞かれなかった祈り』 2008/03/23 松田健太郎牧師

マルコ 14:32~42
14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
14:34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
14:37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。
14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
14:40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。
14:41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
14:42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

僕が好きな映画のひとつに、『ブルース・オールマイティ』という映画があります。
もしまだ観ていなければ、教会でも貸し出していますので、ぜひ観てみて下さい。この映画では、神様が普通の人間に神としての超自然的な力を与えたらどうなるかという事がコメディとして描かれています。
初めブルースは、自分の車をスポーツカーに変え、渋滞の車を紅海の水を割るようにして道を空けさせたり、ガールフレンドの胸を大きくしたりと自分勝手な使い方をするんです。
ブルースは、ガールフレンドとのロマンティックなムードを演出するために、月を引き寄せて照明にしようとしますが、それによって日本では大津波が起こります。
また、宝くじに当たるようにという祈りに全てイエスと答えて、40万人の人たち全てが当たりになり、大当たりの金額をほぼゼロにしてしまいました。
その中でブルースが学んでいくのは、全ての祈りに答える事はできない。
祈りとは、もっと複雑なものなのだという事でした。

私達がたくさんの祈りをする一方で、そこには答えられない祈りもまたたくさんあります。
聖書にはこの様に書かれていますね。

イザヤ 59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

ヤコブ 4:2c あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

しかし、全ての事の原因が私達の側にあるというわけでもありません。
中には、聞かれない事がどうしても納得できないような祈りもあるものです。
どれだけ祈っても、病から癒されない事があります。
たくさんの子供たちを抱える父親が、仕事を与えられない事があります。
家庭の結婚生活が、回復に向かわないどころかひどくなるという事があります。
そのような切実な祈り、しかも限りなく純粋な子供たちによって祈られる祈りですら答えられないのを知るとき、私達の心は締め付けられ、信仰が揺らぐ事だってあるのです。
皆さんの中にも、その様な経験がひとつやふたつはあるのではないでしょうか?

① 聞かれなかったイエス様の祈り
イエス様は、十字架に掛けられる前夜、ゲツセマネの園で祈りの時を持たれました。
普段祈る時にはひとりになる事が多かったイエス様ですが、この時だけは弟子達をそばにいさせ、一緒に祈ってくれるように頼みました。
それは、これから自分の身に起こる出来事への恐れ、不安、悲しみに打ちひしがれていたからです。
いつも平安で堂々としていたイエス様が、血の汗を流すほどに動揺し、苦しんだのです。

何も知らない弟子たちが居眠りをしてしまう中、イエス様はひとり、祈りました。

14:36「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

この杯とは、イエス様が十字架にかかって死ななければならない運命を意味しています。
イエス様は、これからどんな苦痛に見舞われ、十字架にかけられて死ぬという事がわかっていたのです。
もちろんイエス様は、十字架にかかることがただの苦痛ではなく、私たちの罪の代価を支払うために与えられた自分の使命だと知っていました。
そのために天の御国に別れを告げ、わざわざ地上にやってきたのです。
その覚悟があり、決心をしていたはずなのになお、できるなら回避したいとイエス様は願いました。
イエス様が経験しなければならない痛みは、それほど凄まじいものだったのです。
それは肉体的、精神的な苦痛だけでなく、世界が創造されてからずっと一緒だった神様との、完全な断絶、霊的な痛みのためでした。
イエス様は、罪がなかったのにも関わらず、私達の代わりに地獄の苦しみを経験しなければならなかったのです。

イエス様の祈りは、切実でした。
「天のお父さん。あなたなら、今すぐ私を救い出だす事だってできるはずです。どうか、私をこんな苦しみに合わせないで下さい!」
この祈りに対する、天のお父様の応えはどうだったでしょうか?
イエス様の身には、この後何が起こりましたか?
天から軍勢が現れて、イエス様を救い出したでしょうか?
いいえ、イエス様は裏切られ、ムチで打たれ、自分がかけられる十字架を自分の力で処刑場まで運び、人々に罵られ、つばを吐きかけられ、十字架に掛けられて死んだのです。
そして十字架の上で、神様との完全な断絶を表す悲痛な叫びをあげたのです。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

正しい人の祈りはきかれると聖書には書かれています。
そして、イエス様おいて他に、誰を正しいと言うことができたでしょう。
しかし、この世界で唯一の義人であるイエス様の祈りは、ついに叶えられることがなかったのです。

② 神様の計画
私達は、目の前に横たわる“現実”と呼ばれるものだけを見てすべてを判断します。
そこに罪の代価を支払うという神様の目的があっても、人々に見ることができた現実は、イエス様が十字架にかけられ、殺され、葬られたという状況だけでした。
その中に、誰が勝利を見出す事ができたでしょう。
死という現実の前に、全てがむなしく横たわっているようでした。

しかし、神様の勝利は、実はこの状況の中にこそあったのです。
まず第一に、罪の赦しです。
私達が今、罪の赦しを得て、神様との関係を回復する事ができるという確信を得る事ができるのは、この時にイエス様の祈りが聞かれなかったお陰です。
もし神様がこの祈りを叶えていたら、私達は誰も天国に行く事ができませんでした。
神様の大切なひとり子は守られ、その代わり人類には救いがなかったはずなのです。

でも、イエス様は私達のために犠牲となり、私たちには救いが与えられました。
そこに尊い血が流され、私達の罪を洗い流してくれました。
私達がそれを受け取るなら、全ての人が手にする事ができる救いをもたらしてくれました。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

第二の勝利は、イエス様の復活です。
イエス様の復活は、罪によってもたらされた死という呪いが打ち砕かれた事を意味していました。
イエス様の十字架によって罪の代価が支払われ、罪が力を失ったなら、罪の結果である死もその力を失うのです。
神様は、イエス様の復活を通して、全てが創造主である全能の神の権威の元にあり、勝利が神様と共にある事を明らかにされたのです。

イエス様の死を目前にして、弟子達はもうダメだと思っていたのに、これで終わりと思っていたのに、そこから大逆転が起こります。
神様が私たちにもたらしてくださる勝利は、いつでも逆転の勝利なのです。

③ 復活の力に生きる
今日イースターという日は、イエス様の復活を祝う日です。
日本のクリスチャンの信仰は、どうも十字架で終わっている事が多いような気がしてしまうんです。
愛、涙、犠牲、おしまい↓ みたいな感じですね。
しかし、私達クリスチャンの信仰は、死んで終わってしまうのではありません。
私達の信仰は、復活の上に建てられているはずです。

確かに、現実を見つめ、把握する目は必要です。
時として、痛みや苦しみを避ける事はできないのもその通りです。
とは言え私達は、辛い現実だけに目を留め、そこから結果を決め付けて、勝手に絶望してしまっているのではないでしょうか?

神様の勝利は、私達が現実として捉えるものや、私たちの常識を超越することを忘れてはいけません。
繰り返しますが、私達は死で終わるのではなく、復活の勝利があるのだからです。

イエス様が葬られた後、ペテロは師を裏切り、失ってしまったという思いに苛まれて漁師に戻った事がありました。
自信を失い、人生に失望するペテロでしたが、追い討ちをかけるように魚は全然獲れませんでした。
そこに、復活したイエス様が現れたのです。
その時は、そこにいるのがまさかイエス様だとは、誰も気づいていませんでしたけれど。

ヨハネ 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

網は、普通舟の左側に降ろすものなのだそうです。
それがイスラエルの常識。
イスラエルの漁師が築いてきた伝統。
網もその様に作られているし、その様に教えられてきた事です。
その様にしてきたし、それでよかったはずでした。
しかし、神様の力は常識を超えます。

イエス様は普通ならありえない、舟の右側に網をおろしなさいと言う。
彼らがその声に従って網を右側に降ろすと、そこにはおどろくばかりの魚が掛かりました。
もう、網が切れてしまいそうなほどの大漁です。

続いてさらに奇跡が起こりました。
彼らは網が切れて全てを取り逃がしてしまう事もなく、すべての魚を生け捕る事ができたということです。
私達が神様の導きに従うなら、その方法は現実や常識を超えていても、実際的で無駄がありません。
さっきまでどれだけ網を下ろしても一匹もかからなかったのに、ただ左から右に網の下ろす場所を変えただけで全てが変わるのです。

私たちの目には、常識的に考えても、現実をそのまま見ても好転に向かいようのない絶望的な状況があります。
その状況だけを見ていれば、絶望のまま終わってしまったと感じられる事だってあります。
あれだけ心を尽くし、思いを尽くして祈ったのに、何も好転しないまま終わる事もあります。
そんな時にも、私達は神様の計画を信じ、希望をもって祈り続ける事ができます。
そのきっかけは、網を左から右に変えるだけの些細な事かもしれません。

確かに、希望を持ち続ける事が難しい事もあるでしょう。
私達の目に見えているのは、現実の部分だけであり、その先は見えていないのですから。
平安であり続ける事なんて、できません。
でもイエス様でさえ、ゲツセマネでは動揺しながら祈っていたではありませんか。

イエス様は、その祈りの中で、十字架に向けて整えられていきました。
そして、このように祈りを締めくくっています。
「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

常識を超えた解決。
敗北に見える勝利。
死の後の復活が、キリストと共にあります。
皆さんがその信仰を胸に、歩み続ける事ができますように。

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