マルコ4:30-32 『 神の国3~信仰と共に神の国はある 』 2012/03/11 松田健太郎牧師

マルコ 4:30~32
4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

神の国という事について、わたし達は一緒に考えています。
神の国とは、わたし達クリスチャンが死んだ後に行く事が約束されている天国。
それだけでなく、わたし達は今神の国に生きる事ができ、わたし達の中に神の国があるのだという話をしてきました。
神の国とは、神様の支配のあるところであり、神様の御心がなる所です。
だからそこには神様の力が豊かに働き、神の国にいるわたし達は喜びで満たされます。

でも、ただ洗礼を受けて教会に通っているというだけでは、神の国の喜びを知る事ができません。
わたし達はもっと積極的に求めていかなければ、何も変わっていかないからです。

先週お話ししたのは、わたし達が神の国に入るためには、わたし達自身が築いてきたわたし達の王国を明け渡し、神様に委ねる必要があるという事でした。
今日も引き続き、神の国について共に学んでいきたいと思います。

① 信仰と共に神の国はある
神様の支配のある所、神様の御心がなる所には何が起るでしょうか?
そこには、神様の偉大な力が満ちています。
そこでわたし達は、神様の御業、奇蹟を体験するのです。

皆さんは、神様の奇蹟を必要としていますか?
奇蹟が起って欲しいと思っている人はどれくらいいるでしょうか?
奇蹟が起るのでなければ、この人が救われる事はない。
奇蹟が起るのでなければ、もう生きていく事ができないだろう。
奇蹟が起るのでなければ、この関係は回復しないのではないか。
どれだけ「神様は素晴らしい」、「わたし達は救われた」と言ったと所で、今わたし達が直面している現実が変わるのでなければ、クリスチャンとして生きていく事は難しい。

しかし聖書は、この様に言っています。

Iコリント 4:20 神の国はことばにはなく、力にあるのです。

神の国には力があります。
神の国では奇蹟が起ります。
そしてそれを体験するためには、わたし達は神の国に生きる必要があるのです。
ではそのために、どうしたらいいのでしょうか?

イエス様が地上におられる間、奇蹟をする時に決まり文句のように何度も言った言葉があります。
それは、「あなたの信仰が癒したのです。」という言葉です。
逆に、イエス様を信じなかったガリラヤの人々の前では、奇蹟を行う事ができなかったと聖書には書かれています。
奇蹟が起るためには、信仰が必要だという事なんです。

ある人達は、奇蹟を見せてくれたら信じると言います。
しかし聖書の原則は、奇蹟が起るから信じるのではありません。
信じるから奇蹟が起るのです。
神の国は、信仰がある所にあるのです。

② 神への信頼
ところがわたし達は、時としてこの信仰を勘違いしてしまう事があります。
わたし達は信仰をまるで念力か何かと勘違いしてしまう事があるんです。
自分の願いを思いの強さによって叶えようとするなら、それは神様の御業ではなくて、むしろ自分自身を神とする罪の中にいる事なのではないでしょうか。
わたし達は案外、無意識の内にこのような事をしてしまっている事があるんです。

また、信仰によって神様に言う事を聞かせようとしてする事もあるかもしれません。
祈りつつ、「このようにならないならわたしはクリスチャンを辞めます」と言って神様を脅迫していたり・・・。
それもまた、神様の御心とは違うところにあります。

何度も言いますが、神の国とは神様の支配があり、神様の御心がなるとこです。
わたし達が神様を支配し、わたし達の願いが叶うところではないのです。

信仰とは何でしょうか?
信仰とは、わたし達の神様との関係です。
どのような関係かと言えば、信頼関係と言っていいかもしれません。
わたし達は自分の思いや願いよりも、神様との信頼関係を優先する必要があるのです。

ある時、ツァラアトに冒されてる人がイエス様の元に来て言いました。

マタイ 8:2b「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」

イエス様はその人に手を伸ばして言いました。「わたしの心だ。きよくなれ。」
すると、彼らの病は癒されました。
そこにあったのは、シンプルで素朴なイエス様への信頼、信仰です。

ある時は、部下が中風を患っている百人隊長がイエス様の元に来ました。
「行って直してあげよう。」と言うイエス様に、百人隊長はこう言ったのです。

マタイ 8:8 「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。

「言葉だけで十分」そこにあるのは、主への絶対的な信頼でした。

しかし、神様が癒さない時もあるのです。
使徒パウロは一つの病が癒されるようにとい祈り求めていました。
しかしその病は癒されなかったのです。

IIコリント 12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

パウロの病は治りませんでしたが、彼の周りではたくさんの奇蹟が起り、たくさんの人達が救いを受けていきました。
全ての事が、わたし達の願うようにはならない。
でも、それが神様の御心である限りはそれでいい。
わたし達が主と共にある限り大丈夫だと思える信頼関係こそ、わたし達に必要な信仰です。
その時わたし達は、自分の思い通りに事が起っても、起らなくても、そこに神様の御業がある事を知ります。
そしてわたし達は、神の国の平安と喜びを味わうのです。

③ 神の国の拡大
考えていただきたい事があります。
わたし達は、どうして神の国を体験する必要があるのでしょう。
神様の愛を体験し、喜びを体験し、奇蹟を体験し・・・。
神の国の中に生きる時、わたし達は自分自身に価値を見いだす事ができ、幸せになります。
でも、それで終わりでしょうか?
ただわたし達にとって嬉しい事だから、わたし達は神の国を体験する事ができるのでしょうか?

神様が、ただ単にわたし達を幸せにするために神の国を体験させようとしているのであれば、それこそわたし達は救われてすぐに死んで、天国に連れていかれた方がいいのです。
穢れて不安定なこの地上で、奇蹟を期待して神の国を体験しているよりも、天国での暮らしに入った方がどれほど幸せな事でしょうか?
しかしわたし達は、この地上に留められています。
それは、わたし達を通して、神の国が拡大していくためなのです。

イエス様は神の国について、この様なたとえ話をしました。

マルコ 4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

神の国は、大きく生長して、この世の中のどんなものよりも大きくなっていく。
わたし達が地上にいて、しかし地上にいながらにして神の国を体験する事ができるのは、神の国がわたし達を通して広がっていくためなのです。

イエス様の奇蹟のある所、たくさんの人達が救いを受けました。
イエス様が地上を去った後も、神の国は弟子たちの内側に増え広がり、弟子たちを通してたくさんの奇蹟が起り、弟子たちを通してたくさんの救いが起ったのです。
わたし達が神の国に生き、わたし達の内に神の国があるなら、今度はわたし達がいく所にも神の国が広がっていくのです。

イエス様は言います。

「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。(マルコ 4:21~22)

神様がそこに働き、奇蹟が起る事を求める時、わたし達が自分だけの利益を求め、自分たちの喜びのためだけに奇蹟を求めるなら、わたし達は明りを升の下や、寝台の下に置く事になるかもしれません。

もし皆さんが、神様との関係の中に喜びを見いだしたなら、どうかそれを証して下さい。
皆さんが神様の愛を体験したなら、その愛で隣人を愛して下さい。
神様の御業を隠してしまうのではなく、他の人達のただなかで、大体にその奇蹟を表して下さい。
わたし達を通して、わたし達の周りにいる人達が神様を体験する事ができるように、神の国を教会の外に持ち出して下さい。
神様の御業は、そのような中でこそ、豊かに働かれるからです。

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