Iサムエル記17:44-50 『祈ることを教えてください⑥~奇跡を体験するため』 2010/05/02 松田健太郎牧師

Ⅰサムエル17:44~50
17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

祈りについてシリーズでお話して来ましたが、このシリーズもここで一区切り付けたいと思います。
そして、祈りのシリーズの最後は奇跡についてお話して終わろうと思うんですね。
皆さんの中に、奇跡を体験したいと思われる方はどれくらいいらっしゃるでしょうか?

わたし達は、クリスチャンによって書かれた本を読んでいたり、大きな集会に行って誰かの証を聞くと、そこで必ずと言ってもいいくらい奇跡について耳にするんですね。
まるでクリスチャンは奇跡を必ず経験しているかのようです。
考えてみると、聖書の中でも同じようにたくさんの奇跡が起こっているんですね。
ところが、自分の周りにだけは奇跡が起こらないような気がしてしまう。
皆さんは、そのように感じてはいないでしょうか?
だからこそ、皆さんが奇跡を体験する事ができる助けとなるように、今日はこのお話をしたいと思ったんですね。

今日の聖書箇所は、ダビデの話の中でも有名な話です。
ダビデと言えば、必ずと言っていい程このゴリヤテという巨人の名前も出てくるようです。
ゴリヤテというのは、身の丈3メートルに達する、ペリシテ人の兵士でした。
彼はイスラエルに戦いを挑み、イスラエルから代表の兵士を一人出して、自分がそいつに勝ったらイスラエルはペリシテ人に従う事。
しかし、イスラエルの兵が勝ったら、ペリシテ人がイスラエルに従うと申し出ました。
誰もが恐れるこの大男と戦い勝利したのは、まだこどもだった羊飼いダビデです。
彼の手には、剣も槍もなく、その手にあったのは羊飼いが獣を追い払うために使う石投げ機だけでした。
この羊飼いをしていた子供が、プロの兵士も恐れるゴリヤテに勝利をしたのは奇跡という以外言いようもありません。
ダビデはどうして、このような奇跡を経験する事ができたのでしょうか。

① まずは祈る事
わたし達の人生にも、このゴリヤテのような大きな巨人が、チャレンジとして押し寄せてくる事があります。
それは、経済的な問題として現れるかもしれません。
それは、仕事やミニストリーのチャレンジとして訪れるかもしれません。
あるいは、人間関係の問題として、皆さんの目には映るかもしれません。
いずれにしても、わたし達にとって勝利するのが不可能ではないかと思うような、大きなチャレンジが、わたし達の目の前に起こるのです。
そんな時、ダビデが経験した奇跡を誰もが必要としているはずです。

みなさん、奇跡とは何でしょう。
もしかしたら色んな定義があるのかもしれませんが奇跡とは、わたし達に不可能な事を神様が可能にしてくださることだと思います。
聖書の中にはたくさんのそのような事例があるんですね。
しかし、わたし達が見逃してしまいがちな事もあるのです。
それは、奇跡を起こすのは神様ですが、奇跡を見るために、わたし達ができる部分もあるのだという事です。

わたし達にできる第一のことは、祈ることです。
わたし達は祈りもしないで、求めているものを与えられないと嘆くような事がないでしょうか?
あるいは、勝手にあきらめてしまう事はないでしょうか?
ヤコブの手紙にこのような言葉があります。

ヤコブ4:2c あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。

サムエル記の中でダビデの話を読み進めていると、彼が特に祈っているというシーンはあまり出てきません。
しかし、詩篇を通して、わたし達はダビデがどんな時にも、どんな事に関しても祈っていたという事を知る事ができるのです。
マルティン・ルターがそうだったように、マザー・テレサがそうだったように、ダビデは祈りの人でした。

ダビデはたくさんの罪を犯しましたが、その度に神様の元に戻る事ができました。
それは、ダビデがいつでも思いを包み隠さずに神様に打ち明けていたからです。
ダビデは、神様にもっとも愛された王でした。
それは、ダビデが誰よりも深く、神様との関係を築いていたからに他なりません。
わたし達も、全てのことを祈りから始める祈りの人となるなら、今よりたくさんの奇跡を眼にする事ができるに違いありません。

② 信じる事
祈ること意外に、ダビデが秀でていた事、それは主を信じる信仰でした。
ゴリヤテと共にペリシテ人の兵たちがやってきた時、イスラエルの人々は恐れ惑っていました。

Ⅰサムエル 17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。

ムリもない話です。
ゴリヤテは3メートルはあるかという大男なのですから。
そしてイスラエルは、市民も兵も恐れをなして縮こまってしまったのでした。

しかしその時そこに、兄たちにお弁当を届けにきたダビデの姿もありました。
そしてダビデは、「自分がイスラエルの代表となって、あのペリシテ人を倒しましょう。」と言ったのです。
それを聞いた人々は、ダビデは子供だからよくわかっていないのだろうと思いましたが、そうではありませんでした。
また、ダビデは無謀な勇気からこのような事を言ったのでも、ゴリヤテを倒した報酬のためにがんばろうと思ったのでもありませんでした。
少年ダビデの心を突き動かしたもの、それは神の民イスラエルに対する侮辱への怒りと、主なる神様が守ってくださるという信仰だったのです。

この時、ダビデは兵士ではありません。
羊飼いの少年に過ぎませんでした。
しかし、当時の羊飼いは羊を守るためライオンや熊を追い払ったり、倒さなければならない事もあったのです。
そしてダビデは、このように言って自分の信仰を表明しました。

Ⅰサムエル 17:37b「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

ダビデは、獅子や熊を倒したのは彼自身の手柄ではなく、神様の守りがあったからだと知っていました。
そして、獅子や熊から自分を守ってくださった神様は、この無礼なペリシテ人からも必ず守ってくれるはずだと信じていたのです。

人々を癒した時、イエス様は言いました。
「あなたの信仰があなたを癒したのです。」
そしてイエス様はこの様にも言われました。

マタイ 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

ゴリヤテのような巨人と対決しなければならない時、わたし達は絶望的になるものです。
しかし忘れないで下さい。
不可能を可能にするのはわたし達ではありません。
不可能を可能にして下さるのは、神様なのです。
そして、神様には不可能はないのだという事を、忘れないで信じ続けて欲しいのです。

③ 祈るだけでなく
奇跡を見るために、わたし達は祈り、信じなければならないという話をしました。
しかし、そこで終わってはいけません。
今日わたし達は、もう一歩先に進む必要があります。

わたし達は自分の力ではなく、神様を信じて委ねなければならないという話をする時、多くの場合すべてを神様に丸投げにしてそれだけで終わらせてしまう傾向があります。
自分の力だけから、自分は何もしないという極端に移ってしまうわけです。
しかし、聖書は祈るだけで何もしないという事を教えているのではありません。

ルカの福音書8章に、長血を患った女性がイエス様の着物に触れて癒される話があります。
わたし達が見逃してしまうのは、彼女が12年間その病を患っていたという事実です。
12年の間、この女性はどれだけ治療を試み、祈り、神様に願い続けた事でしょうか。

マルコの福音書4章に、中風を患った男性がイエス様に癒されて動けるようになった話があります。
わたし達が忘れてしまうのは、彼が癒されるために4人の友人がどれだけの苦労をして彼を運び出し、屋上から天井に穴を開けて彼をつり下ろしたかという事です。
奇跡を起こすのは神様です。
しかし、不可能が可能になるために、わたし達は可能な事をする必要があるのです。

少年ダビデが大男ゴリヤテを倒したのは奇跡でした。
しかし、そのためにダビデは何をしたでしょう。

Ⅰサムエル 17:40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。

ゴリヤテを倒した石はひとつでしたが、彼は5つの石を手にしていました。
それは、彼が自分にできる最善をも尽くそうとしたからです。
また、ダビデはこの出来事が起こるまでに、どれだけ投石の練習をしていた事でしょう。
ダビデは預言者サムエルから王になるという預言をされた時、それに安心して家でテレビを見て過ごしたわけではないのです。
彼は羊飼いの仕事を通して王になる訓練をし、剣やよろいはなかったけれど、石投げによって戦う訓練を続けてきたのでした。

信じて祈ることと、自分の努力との間にはバランスが必要です。
何度かお話してきた事ですが、受験生がどれだけ熱心に断食して祈っても、勉強をしなければ、学校に合格する事はできませんよね。
スポーツ選手がどれだけ信仰深く勝利を祈ったとしても、練習をしなければ勝利する事はできません。
奇跡を起こして不可能を可能にするのは、神様です。
しかしわたし達は、自分に可能な事をする必要もあるのです。

わたし達の目の前にいるゴリヤテを倒すためにできる、わたし達の最善は何でしょう。
経済的な助けを政府に求める事かもしれません。
自分の側から相手に謝ることかもしれません。
今はただ待って、忍耐する事かもしれません。
わたし達が可能な事をする時、神様は不可能を可能にしてくださるのです。

④ 主の栄光のため
最後にもうひとつ。
ダビデはいつでも、全ての事を自分のためではなく、神様のためにしていたという事を忘れてはなりません。
ゴリヤテに戦いを挑んだ時、ダビデは自分の成功を願っていたのではありませんでした。
神の国の勝利のために戦ったのです。

先ほど読んだ、ヤコブの手紙の言葉の後にはこのように書かれています。

ヤコブ 4:2c あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

そして、使徒ヨハネは手紙の中でこのようにも言っています。

Ⅰヨハネ 5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

わたし達が自分の保身を求める時、わたし達はゴリヤテとの戦いそのものを避けようとするでしょう。
それでは、奇跡を見る事はできません。
わたし達が、自分の栄光のために何かをしようとするなら、わたし達は失敗を経験して謙遜を学ぶ事になるでしょう。
わたし達が、神様の栄光のために祈り、信じ、行動を起こすとき、わたし達は不可能を可能にしてくださる神様の御業を眼にするのです。

ダビデは完全な人でも、聖人君子でもありませんでした。
人として、大きな間違いもたくさん繰り返した人です。
そのダビデが奇跡を見られたなら、わたし達にだってできるはずです。
皆さんが、神様の御業を体験して、主の栄光を見る事ができますように。

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