ローマ12:1-8 『神様からの贈り物』 2008/03/02 松田健太郎牧師
ローマ 12:1~8
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
すべてのクリスチャンは、キリストの体としての役割を担うために、それぞれ特別な力を与えられています。
神様から与えられたその特別な力を、“聖霊の賜物”と呼ぶんですね。
この力を通して私たちは教会の徳を高め、キリストの体を強化し、世界宣教を実現していくわけです。
今日みなさんに、聖霊の賜物発見テストというものをお配りしています。
このテストに答えていただくことによって、自分の賜物を発見していただこうと思います。
クリスチャンの方は、自分の賜物を、まだ信じていらっしゃらない方は自分の中にある資質を発見することができるでしょう。
でもですね、実を言うと、僕はこういうのは好きではありません。
聖書に書かれている賜物の種類をリストアップして、得点をつけて、自分の賜物がどれかというわけですが、僕にはあまり聖書的な方法だとは思えないんです。
ただ、性格診断と同じような感じで、自分にはどんな傾向があるのかを知るにはいいかなあと思っています。
ですから、このテストを家に持ち帰っていただいていただいたらいいのですが、その結果はあまり深刻に受け取らないようにしてください。
自分には預言の賜物があると言って、町にでて預言をし始めるというのは、少し早合点かもしれません。
自分の思い込みと、他の人の評価では結果も変わってくるでしょうし、これが賜物のすべてでもないでしょうから、気楽に参考にしてみるという位がいいのではないでしょうか。
そんなわけで今日は、私たちに与えられている聖霊の賜物に焦点を当てて、一緒に考えていきたいと思います。
① 賜物と才能・能力
ひとつ明確にしておきたいのは、聖霊の賜物と才能や能力とは違うものだという事です。
まず第一に、賜物というものは主のからだを立て上げるために与えられているもので、自分自身のために生きる手段として与えられているものとは違います。
だから賜物を自分のために使おうとしても、何の役にも立ちません。
第二に、聖霊の賜物は聖霊を受けたクリスチャンにしか与えられていないものです。
クリスチャンでなくても才能はや能力はありますが、聖霊の賜物は、クリスチャンになる前からその資質はあるかもしれませんが、クリスチャンになるまでは、それが賜物として明確に発揮されることはないでしょう。
例えば、音楽の才能のある人が奏でる音楽は「うまいなぁ」と感じさせますが、そこに賜物が発揮される場合には、その音楽の中に神様の臨在や、キリストの愛を感じさせることができるのです。
その音楽は伝道的であり、預言的であり、魂を揺さぶる霊感にあふれたものとなります。
楽器を弾く才能のあるクリスチャンの全てが、音楽の賜物を持っているわけではないかもしれません。
でも、賜物がないからといって音楽をしないとか、してはならないという事にはなりませんね。
それが後になって賜物として活かされる可能性はあるわけですし、いつ発揮されるのかということは、神様にしかわからないことです。
やがて用いられるという事を願って、音楽を続ける事がいいのではないでしょうか。
今度イースター礼拝の時に来てくださる“Gifts”というゴスペル・バンドがいらっしゃいますが、この人たちはあまり音楽の才能はないと言われていたのに、後になって賜物として発揮されたと聞きました。
“Gifts”というバンドの名前も、きっと自分に与えられた音楽は100%賜物だという思いからつけられたのではないでしょうか。
イースターのコンサートを、僕も楽しみにしているんです。
② 器官の優先順位はない
自分の賜物を自覚し始めると、他の人たちの賜物と比較したくなる誘惑に駆られることがあります。
「もっと華々しい賜物が与えられたらよかったのに。」
「私たちはキリストの体の器官と言うけれど、私に与えられているのは、小指の爪の先くらいの役割ではないだろうか? もっと重要な器官がよかった。」
ここには、誤解がありますね。
器官としての私たちに、重要さの優先順位はありません。
たぶん小指の爪の先に相当する器官はありませんので、ご安心ください。(笑)
皆さんは自分をどのように評価されるかわかりませんが、私たちの誰一人として、キリストの体にとって不必要な人はひとりもいません。
パウロが強調したいのは、私たちがどの器官なのかという事なのではなく、それぞれの役割を持った私たちがひとつにならなければならないという事なのです。
だからパウロは別の手紙の中で、このような話をしているのです。
Iコリント 12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
賜物の中には、ほんの一部の人にしか与えられないものもあれば、多くの人たちが持っている賜物もあります。
みんなと同じだと、自分には代りがたくさんいるような気がして、重要性を感じられないかもしれません。
でも、神様の計画はそんな大雑把なものではありません。
たくさんの人にその賜物が与えられているという事は、その働きがされるためには、それだけたくさんの人たちが必要だという事です。
そう考えたとき、西葛西国際キリスト教会に通う私たちの中でどの賜物が多いのかということがわかってくると、神様がこの教会に与えている使命というものもわかってくるかもしれませんね。
いずれにしても、私たち教会にとって必要なのは、色々な個性と賜物が一体となって協力し合うという事です。
どれだけ素晴らしい賜物がそろっていても、体の器官がバラバラに動いていたらひとつの働きをする事ができないのではないでしょうか。
そこに主にある一致が与えられるように祈っていきましょう。
③ なすべきことに最善を尽くす
最後に、賜物の話でよく引き合いに出されるタラントのお話をもって今日のメッセージを締めくくりたいと思います。
少し長い聖書箇所ですが、辛抱して聞いてください。
マタイ 25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
このたとえ話の中で大切なポイントのひとつは、タラントを使うという事です。
私たちに与えられている賜物は、私たちが使うために与えられているものです。
どんなに素晴らしいものが与えられていても、私たちがそれを使わないなら、宝の持ち腐れでしかありません。
私たちは、積極的にそれを用いていく必要がありますね。
もうひとつの大切なポイントは、小さなことに忠実であるという事です。
このたとえ話の中に出てくるしもべたちには、それぞれ別の額のお金、タラントが与えられました。
私たちはこれを見て、不公平だと感じてしまうことがあります。
でも、今与えられているタラントだけを見て全てを判断してしまってはいけません。
今私たちに与えられているのは、ほんのわずかなものかもしれない。
でも、今の私たちが扱うことができる適度なものを、神様は与えてくださっているのです。
私たちに必要なのは、他人と比較してふて腐れることではなく、今与えられているものに対して忠実であることです。
今の私たちに与えられている賜物、今の私たちに与えられている奉仕、今の私たちに与えられているチャンスに私たちが心を込めて接するなら、私たちは成長し、次のステップに進むことができるはずです。
たとえ話の中で、主人はこの様に言いました。
『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21)
今、私たちに与えられているのはどんな賜物でしょうか。
そして、5年後、10年後に、私たちはどのような働きをなすようになっているのでしょうか。
私たちの教会が、素晴らしい教会へと成長していくことができるように、心を尽くして、誠実に賜物を用いて、従っていきたいものですね。