Iコリント15:50-58 『 イースター・メッセージ~永遠へと続く人生 』 2010/04/04 松田健太郎牧師

Ⅰコリント15:50~58
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

わたし達が生きる世界は、不公平なものです。
生まれた国や、家庭によって、わたし達の人生は大きく変わります。
わたし達に与えられている才能も千差万別で、ある人は素晴らしい才能に恵まれた人もいれば、何の取り柄もないように思える人もいます。
また、どのような環境に生きるかも、わたし達が自分の意思で選ぶ事ができない場合がたくさんある事でしょう。
人生は、平等ではないのです。

しかし、どんな人にも平等に訪れるものもあります。
それは、死です。
お金があってもなくても、幸せでも不幸せでも、年をとっていてもいなくても、準備ができていてもできていなくても、わたし達が死という運命から免れる事はできません。

皆さんは、死に対してどのようなイメージをもっているでしょうか?
多くの人にとって、自分や身近な人の死というものは恐ろしいものだったり、悲しいものだったりするのではないかと思います。

今日は、イエス様の復活を祝うイースターです。
死というものに関して共に考えながら、イースターの喜びを分かち合いたいと思います。

① イースターがもたらした勝利
イエス様は、わたし達の罪を背負い、罪の結果である死を十字架で引き受けてくださいました。
それだけでなく、3日後に復活する事によって、罪の呪いが打ち砕かれた事を証明して下さいました。
イエス様はこのようにして、わたし達が天の御国にいたる道を整えてくださったのです。
このイエス様の復活を祝うのが、イースターの目的ですね。

今日の聖書箇所をもう一度見てみましょう。

15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

血肉のからだというのは、生まれたままの状態を意味しています。
生まれたままのわたし達には罪があるので、そのままでは神の国に行く事ができません。
しかしわたし達が、イエス様を救い主として信じる信仰を持つとき、イエス様が復活したように、復活に与る事ができます。
その時、わたし達が新たな命を得て、決して肉体と共に滅んでしまうことなく、魂は永遠に神様と共に生きるのです。

聖書は言います。

15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

イースターは、イエス様の勝利の象徴です。
イースターこそが福音の土台であり、わたし達の希望なのです。
その時、わたし達の不治の病は癒され、あらゆる痛みと苦しみから解放され、愛する人たちと再会し、喜びと平安の中に入るのです。

② わたし達が属するところ
ところが、わたし達は永遠の命を与えられていながら、この世の事に心を奪われてしまっているという事があるのではないかと思うのです。
少しでも良い家に住み、少しでも良い物を手に入れ、少しでもよい服を身に付け、少しでもおいしいものを食べようとする。
そうでなくても、仕事やら学校やら、PTAやら近所づきあいやらで、人生のほとんどの時間をそこに費やしてしまいます。
地上に生きている以上、しなければならない最低限の事はあるのですが、それにしても忙しくなり過ぎてしまうのがわたし達の生活ではないでしょうか。

イエス様はこのような話をされました。

ルカ 12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

わたし達が多くの時間を費やすほとんどの事は、ほんのわずかな時間、満足をもたらすだけのものであったり、ただ人間関係を事なきにするためのものであったりします。
しかし、生きている間、必死になって貯めた財産も、手に入れた地位も、鍛え上げた体や、整えた美貌も、死は一瞬の内に奪ってしまいます。
聖書がわたし達に教えてくれるのは、そのような地上に属するものはどんなものでも、天国に持っていく事はできないのだという事です。

わたし達は地上に宝を積むのではなく、天の御国に宝を蓄える事ができます。
わたし達が天国にもって行く事ができるのは、わたし達の内側に積み上げられていくものと、愛する人々の魂だけです。

わたし達自身の魂の成長は、天の御国でも大きな意味を持ちます。
また、わたし達が福音を伝えた人たちとは、天国で再会する事ができます。
わたし達は、このようにして天に持っていく事ができる宝のためにこそ、もっと時間を費やすべきなのではないでしょうか?
また、仕事や学校での生活も、ただするべき事を片付けるだけではもったいない事です。
わたし達が神様の目的のためにその機会を用いるとき、そこでの出来事は永遠へと続くものへと変わっていきます。
そして、やがてわたし達が天の御国に着いたとき、わたし達は地上にいる間に得た宝を喜びの中で手にするのです。

③ 今は見えないけれど
この世のものに属する方々にとって、死とは全てを奪う恐ろしいものですが、イエス様に属するわたし達は、死を恐れる必要がありません。
イエス様に属するわたし達にとって、死とは次のステージに移るステップなのです。
わたし達が天に蓄えるものの中には、地上にいる間は邪魔にしか思えなかったり、何の役にも立たないように思える辛い経験もあるでしょう。
そんな時、わたし達はどうしてこんな経験をしなければならないのかと嘆きたくなるものです。
しかし、神を愛するわたし達は、やがて天の御国において、すべての事が益となるのだということを経験します。
今はわからないけれど、この経験が本当に必要だったと思えるときが、必ず来るのです。
聖書にはこの様な言葉があります。

ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

わたし達には、この地上で生かされている限り、神様の計画と目的が与えられています。
わたし達は、神様が与えて下さろうとしているものを、余すところなく受け取っていきたいものです。

まったく正反対の出来事のように思える、死と出産との間には、実は似通った部分があります。
最後にその事を考えながら、今日のメッセージを終わりたいと思います。

わたし達の命が始まったとき、わたし達はお母さんのお腹の中にいました。
その時、お母さんのお腹の中が、わたし達の生きる世界の全てだったのです。

そのころの記憶をわたし達は持っていませんが、もし意識があったとしたら、わたし達の生きる世界は温かくてとても心地いいと感じていたかもしれません。
時にはうっすらと明かりが差し、心地よい音が聞こえてきて、何もしなくても必要な栄養が与えられる。
そこは幸せな場所だったのではないでしょうか。

でもその時には、どうして自分の方から2本の腕が生え、腰からは足が生えているのか、理解する事ができなかったでしょう。
自分の体には、何の役にたつのかまるで判らない、不必要なだけでなく、そこで生きるためにはむしろ邪魔になるような部分がいっぱいあったのです。

そして、やがて陣痛が訪れ、お腹から外に出されるときには、わたし達は恐れを抱いたのではないでしょうか。
それはわたし達の体が世界から引き離される事を意味しています。
そこから、激しい痛みと苦しみの中で狭い産道を通り、わたし達は外の世界に出されました。
出産は、お腹の中が世界だったわたし達にとって、第一の死だったのです。

ほんの数ヶ月だったお腹の中での人生は終わり、この地上での人生が始まりました。
その時に出産の苦しみを経験しなければ、わたし達はこの地上での生活を楽しむ事もなく、人生を終えていたはずです。

やがて、わたし達の地上での人生が終わるときにも、わたし達はこれと同じ経験をします。
そこには激しい痛みや苦しみが伴う事でしょう。
そして、この地上から次のステージに行きたくないと感じるかもしれません。
しかし、そこを通り抜けて天の御国に到着するなら、わたし達はそこでの永遠の人生がどれほど素晴らしいものかという事を体験するのです。

わたし達は、お母さんの体から外に出されて、初めて腕や手が何のためにあり、足がどうして付いているのかを理解しましました。
それと同じように、わたし達が天の御国にあげられるなら、わたし達に与えられていた性質や性格が、どうしてこの様なものだったのかという事を本当に理解するのです。

今だけを見たり、その辛さだけに焦点を当てないでください。
わたし達の人生は、今だけのもの、この地上だけのものではなく、それからも続く永遠の中に生きるものだからです。
イースターのこの日、イエス様が命をかけて勝ち取ってくださった十字架と復活の勝利を、心から感謝したいと思います。

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