「みこころの相手」は存在するのか?
クリスチャンたちのいう「みこころの相手」、いわゆる「定められた結婚相手」なるものは、存在しているのか?
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「みこころの相手」とは?
クリスチャン同士で話していると、よく「みこころの相手」というフレーズを聞く。いわゆる「みこころの相手」とは、「神が定めた結婚相手」を指す。クリスチャンの中では、「みこころの相手が与えられるよう神に祈っている」とか、「この人が好きなんだけど、『みこころの相手』でしょうか」とか、「好きという感情はあるけど、『みこころの相手』かどうか分からないから一歩踏み出せない」どなどという声をよく聞く。なるほど、自分の思いより、神の思いの方が大切というわけだ。
ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。そもそも、「みこころの相手」なるものは、本当に存在するのだろうか。もし、いないとしたら、上記のようなクリスチャンたちは、存在しない相手を待ち続け、存在しない相手のために祈っているのである。聖書は、「みこころの相手」についてどう書いているのだろうか。見ていこう。
神が結婚相手を定めたケースは圧倒的少数
まず、聖書には「みこころの相手」というフレーズは存在しない。では、クリスチャンの間にどうしてそのような考えが生まれたのか。私は、聖書に登場する人物たちのモデルから、そのような価値観が生まれていると考える。
そこで、聖書に登場する夫婦を全てまとめてみた。1人でざっと調べただけなので、抜けや間違いがあるとは思うが、おおよそこんなところである。めちゃ多いので飛ばしてもらっても構わない。
【聖書のカップル一覧】
※男性が先、名前の表記は新改訳聖書3版による。また、列王記と歴代誌などで、別名が記載されている場合があるが、検証が面倒なのでそのへんは適当である。
※順序はできる限り旧約聖書の創世記から順序登場する順番にしているが、一部名前を揃えたほうが見やすいため、入れ替えている。
※結婚していることが明らかでも、妻の名前や存在が明記されていない者は省いた。系図に記されているだけのような人物は省いたが、入れているケースもある。また、一部、婚姻関係はないが肉体関係はあるというケースも入れている。
※神がその相手を結婚相手として直接示したケースには★マークをつけている。
- ★アダムとエバ(→そもそもエバしかいない)
- カインとその妻
- レメクとアダ
- レメクとツィラ
- 神の子らと人の娘たち
- ノアと妻
- セムと妻
- ハムと妻
- ヤペテと妻
- ナホルとミルカ
- アブラハム(アブラム)とサラ(サライ)
- アブラハムとハガル
- アブラハムとケトラ
- ロトと妻
- ロトの娘たちとその婿
- ロトと2人の娘たち
- ★イサクとリベカ(→イサクが求めたのではなく、父のアブラハムがしもべに命じた)
- エサウとヘテ人エフディテ
- エサウとヘテ人バセマテ
- エサウとネバヨテの妹マハラテ(※エサウの妻たちは違う名前も出てくる)
- ヤコブとレア
- ヤコブとラケル(→ヤコブが結婚しようとした)
- ヤコブとジルパ
- ヤコブとビルハ
- シェケムとディナ
- ハダルとメヘタブエル
- ユダの長子とタマル
- オナンとタマル
- ユダとシュアの娘
- ユダとタマル(→遊女だと思った。元々息子の嫁)
- ヨセフの主人のエジプト人とその妻
- ヨセフとアセナテ(→パロが与えた)
- ヤコブの息子たちとその妻たち
- アムラムとヨケベデ
- アロンとエリシェヴァ
- エルアザルとプティエルの娘
- モーセとチッポラ
- モーセとクシュ人の女
- モーセの息子の妻
- オテニエルとアクサ
- ラピドテと女預言者デボラ
- ケニ人へべルとヤエル
- ギデオンと大ぜいの妻
- ギルアデとその妻
- イブツァンの30人の息子と30人の妻
- マノアとその妻
- サムソンとティムナの女(→神がペリシテ人と事を起こそうとされたとの記述がある。しかし、そもそもサムソンが一方的に惚れたのである)
- サムソンと遊女
- サムソンとデリラレビ人とベツレヘムの女(→バラバラ死体にされる)
- ベニヤミン族の男たちとシロの娘たち
- エリメレクとナオミ
- マフロン・キルヨンとオルパ・ルツ(→どちらがどちらの夫、妻か分からない)
- ボアズとルツ(→ナオミが命じた)
- エルカナとハンナ、ペニンナ
- ピネハスと妻
- サウルとアヒノアム
- メホラ人アデリエルとメラブ
- ライシュの子パルティとミカル
- イシュ・ボシェテとミカル
- ウリヤとバテシェバ
- ナバルとアビガイル
- ダビデとミカル
- ダビデとアビガイル
- ダビデとイズレエルの出のアヒノアム
- ダビデとバテシェバ
- ダビデとマアカ
- ダビデとハギテ
- ダビデとアビタル
- ダビデとエグラ
- ダビデとシュネム人アビシャグ
- アビナダブの子とタファテ
- ソロモンとパロの娘
- ソロモンと700人の妻と300人のそばめ
- アヒアマツとバセマテ
- カレブとエフラテ
- ヘツロンとマキルの娘
- メレデとビテヤの子
- キシュの子らとエルアザルの娘たち
- ハダデと王妃タフペネス
- ヤロブアムとその妻
- アハブとイゼベル
- 預言者のともがらとその妻
- ナアマンとその妻
- ヨラムとアハブの娘
- 装束係シャルムと女預言者フルダ
- ハダデとメヘタブエル
- カレブとアズバ、エリオテ
- ヘツロンとアビヤ
- アラフメエルとアタラ
- アビシュルとアビハイル
- ヤルハとシェシャンの娘
- アシュフルとヘルア
- アシュフルとナアラ
- メレデとビテヤ
- メレデとユダヤ人の妻
- ボディヤの妻
- フピムとその妻
- シュピムとその妻
- マキルとマアカ
- エフライムとその妻
- シャハライムとフシム
- シャハライムとバアラ
- シャハライムとホデシュ
- ギブオンとマアカ
- エイエルとマアカ
- エリモテとアビハイル
- レハブアムとマハラテ
- レハブアムとその妻たち
- レハブアムとそばめたち
- レハブアムとマアカ
- レハブアムの子らと多くの妻たち
- アビヤと14人の妻
- エホヤダとエホシェバ
- ヨアシュとふたりの妻
- バルジライとギルアデ人バルジライの娘
- エズラの時代の人々と外国人の女たち
- トビヤとシェカヌヤの娘
- ヨハナンとメシュラムの娘
- アハシュエロス王とワシュティ
- アハシュエロス王とエステル
- ハマンとゼレシュ
- ヨブとその妻
- レカブ人とその妻
- エゼキエルとその妻(→預言のために妻は死んだ)
- ベルシャツァル王とその妻、そばめたち
- ★ホセアと姦淫の女ゴメル(→明確に神がこういう女と結婚しろと命じた)
- ★ヨセフとマリヤ(→御使いのお告げがある前に婚約していたが、一応結婚しろと言ったので)
- ピリポとヘロデヤ
- ヘロデ王とヘロデヤ
- ザカリヤとエリサベツ
- ヘロデの執事クーザとヨハンナ
- クロパとマリヤ
- アナニヤとサッピラ
- アクラとプリスキラ
- ペリクスとドルシラ
- ケパ(ペテロ)と信者の妻
- 番外編:子羊とその妻である花嫁(→黙示録)
聖書に登場する夫婦は、ざっとこんなところだ。番外編を除けば、136ケースある(※たぶん探せばもっとある。ご指摘募集!)。その中で、神が明確に「この人と結婚せよ」と命じたケースは、たったの5件しかない。しかも、その5件とも、単純に神が「みこころの人」として妻を示したというケースとは言い難い。以下の5ケースである。
1:アダムとエバ
2:イサクとリベカ
3:サムソンとティムナの女(デリラではない)
4:ホセアとゴメル
5:ヨセフとマリヤ
アダムの場合は、ほかの女性がエバしかいなかったのだから、ある意味で当然である。ただ、この5件の中では一番明確な「みこころの相手」であろう。
ヨセフとマリヤは、聖書に登場した時点で婚約関係にあった。しかし、まだ処女のマリヤが妊娠したことが分かると、ヨセフは一旦はその婚約を破談にしようとした。ところが、神の御使いが表れ、聖霊によって妊娠したので、安心して結婚せよと命じたので、2人は結婚した。これも、神が結婚を示したケースだが、元々2人は婚約関係にあったので、いわゆる「みこころの相手」と言えるかどうかは微妙だ。
このように、「神が定めた特定の結婚相手」、いわゆる「みこころの相手」の記述は、厳密に見れば聖書には存在しないと分かる。聖書にある5つのケースも、特別な条件付きであって、現代の人が待っている「運命の赤い糸の人」とは違うのは明らかだ。ではなぜ、そのような誤解がクリスチャンたちの間に生まれてしまったのか。
私は、イサクのケースが、大きな影響を与えていると考える。サムソンとホセアのケースとあわせて、順番に見ていこう。
実例1:イサクのケース<単なる棚ぼた野郎>
イサクとリベカの出会いが、クリスチャンたちに間違った「赤い糸信仰」を生んでいる原因だ。2人のエピソードは創世記24章に記述がある。要約するが、知っている人は読み飛ばしてもらって構わない。
【創世記24章要約】
神「アブラハム、お前の子孫をめっちゃ増やすで! お前の子孫を通して世界中の人々が祝福されるんやで! 約束な!」
アブラハム「ありがたや、ありがたや。いや、しかし、神様、俺の息子はイサクだけや。このままイサクが独身だと、神様の命令が実現できない。どうしたもんか・・・せや! しもべのエリエゼルに息子の結婚相手を見つけてもらう。おい、エリエゼル」
エリエゼル「ははーっ」
アブラハム「息子のイサクに嫁はん見つけてくれへんかな。外国人はダメや。ウチらの親戚のところに行ったらええ。そんでもってこの土地に連れて帰ってくるんや」
エリエゼル「ははーっ。でももし断られたらどないしましょ」
アブラハム「もし断られたら、おまえの責任やないから、その場合はあきらめて大丈夫やで。安心していきんさい」
エリエゼル「ははーっ」(・・・でも不安やな。神様に祈っとこ)
エリエゼル「ああ神様。もしあなたがご主人様の息子のイサクはんにいい嫁はんを下さるなら、こういう人にしてください。井戸の水を私とラクダに飲ませてくれる人がいたら、その人があなたが定めておられる方だと信じます」
エリエゼル「あれ? なんかおなごが来とるやんけ。おーいそこのあなた、水を飲ませてくれまへんか」
リベカ「はいよろこんで!」
ラクダ「グビグビ」
エリエゼル(さっき祈った通りの人やんけ! しかもめちゃめちゃかわええ! 神様サンキュー! あとは外人じゃなきゃOKや)「娘さん、娘さん、あんたどこの人?」
リベカ「ラバンの妹でございます」
エリエゼル「マジ? アブラハムご主人様の親戚やんけー! パーフェクト! 娘さん、実はかくかくしかじかで、イサクさんと結婚してくれまへんか?」
リベカ「はいよろこんで!」
エリエゼル「マジ?! やったー! 神様サンキュー!」
イサク「なんかようわからんけど、結婚できた! わーい!」
・・・と、まぁざっくりこんな感じである。ここに出てくるように、エリエゼルが祈った通りの女性が表れて、見事イサクの妻となった。確かに、「神が定めた結婚相手」に見える。しかし、イサクのケースは、単純にそうとは言えない。以下の点が理由である。
1:神様はアブラハムに特別な約束・契約を与えていた。私たちとは違う。
2:「みこころ」を祈ったのではイサクではなく、家来のエリエゼルである。イサクはなんもしていない、ただの棚ぼた野郎である。
3:エリエゼルは自分のためではなく、主人のアブラハムが神からもらった契約を守るために祈った。
4:つまり、神の約束・契約を守ろうとしたアブラハムのために、ふさわしい嫁が与えられた、という話なのであって、私たち個人のために「みこころの相手」が備えられているという話ではない。リベカは神の特別な計画の一部なのである。
イサクの例から、「自分にも『みこころの相手』がいる」と考えるのは、少し短絡的だろう。
実例2:サムソンとティムナの女のケース<ドロドロ愛憎劇>
サムソンとティムナの女の例はどうか。聖書にこのような記述がある。
サムソンは、ティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘で、ティムナにいる一人の女を見た。彼は上って行って、父と母に告げた。「私はティムナで一人の女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、彼女を私の妻に迎えてください」。父と母は言った。「あなたの身内の娘たちの中に、また、私の民全体の中に、女が一人もいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人から妻を迎えるとは」。サムソンは父に言った。「彼女を私の妻に迎えてください。彼女が気に入ったのです」。彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。そのこと、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。(士師記14:1~4)
確かに、「それが主(神)によること」と書いてある。神がこの結婚を定めたと読めるかもしれない。しかし、そもそもは、「彼女が気に入った」との記述の通り、サムソン自身がティムナの女に一方的に惚れただけなのである。彼は、親の反対を押し切って結婚したのだ。しかし、彼女は違う男性の妻となってしまい、その後に殺されてしまうという悲惨な結果になった。
悲惨な結果とはいえ、それが神様の計画だった。「気に入る」という感情も、神が与えるもので、ただ「好き」という感情も神からのものである。これについては後述する。ただ、忘れてはならないのは、サムソンは「士師」という特別な存在だったという事実だ。彼は神の計画のために、通常喜ばれない外国人の女との結婚を、「許容」されたのである。イサクのケース同様、私たち個人にそのまま当てはまるケースではない。
実例3:ホセアとゴメルの女のケース<かわいそうなホセア>
ホセアのケースを見てみよう。彼ほどの信仰を見習いたいものである。
主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ」。彼は行って、ディブライムのの娘ゴメルを妻とした。彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。(ホセア書1:2~3)
神は、突然、ホセアに「姦淫の女を引き取れ」と命令する。ホセアは、その命令に従う。彼は、息子に「イズレエル」(悪い町の名前)、娘に「ロ・ルハマ」(愛されない、あわれまれない、の意)、「ロ・アンミ」(私の民ではない、の意)という最悪の名前をつける。それも神の命令だった。ひどい命令だが、ホセアは従う。また、ゴメルは何度もホセアを裏切り、不倫を繰り返す。しかし、ホセアは神の命令に従い、彼女を買い戻す。
なぜ、こんな命令を神はするのか。それは、イスラエルを愛して、愛してやまなかった神様が、何度もイスラエルに裏切られたことを象徴するためだった。ホセアの辛い人生は、預言者としての使命だった。ホセアは、人間の知恵では理解できない命令にも尚、従ったのである。
神様は、最後にこう約束する。
イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。言え。あなたがたの兄弟には「わたしの民」と。あなたがたの姉妹には、「あわれまれる者(愛される者)」と。(中略)その日、わたしは応えて言う。ー主のことばーわたしは天に応え、天は地に応え、地は穀物と新しいぶどう酒と油に応え、それらはイズレエルに応える。わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に『あなたは私の民』と言い、彼は『あなたは私の神』と応える。
(ホセア書1:10~2:1、2:23)
「愛されない子」が「愛される子」になり、「わたしの民でない子」が「わたしの民」と呼ばれるようになる。神様の計画は、時に逆説的で美しい。
話が少しそれたが、重要なのは、神様は「ゴメルと結婚せよ」とは命じなかったという点だ。あくまで、「姦淫の女を引き取れ」としか命じていない。ホセア自身がゴメルを妻としてめとったのである。どう選んだのかは明確な記述はないが、喜ばしい結婚ではなかったであろう。
「みこころの相手」は「赤い糸で結ばれた相手」ではない
聖書にある数少ない結婚の示しのケースは、以下のように全て特殊なものだ。
1:アダム→最初の人間
2:イサク→アブラハムの契約を受け継ぐため
3:サムソン→士師の役割として
4:ホセア→預言者の役割として
5:ヨセフ→メシアの父親として
これらのケースを、私たちが直接自分たちに当てはめるのは、賢い解釈とは言えない。つまり、あなたがもし「みこころの相手」を「運命の赤い糸の相手」と考えているとしたら、その考えは根拠レスだ。それは、ただの迷信にすぎない。まとめると以下だ。
1:聖書に「みこころの相手」の明確な記述はない
2:神が結婚を示したケースはいずれもスーパー特例
3:「みこころの相手」は「運命の赤い糸の人」ではない
しかし、だからといって、「みこころの相手」は存在しないのだろうか。私は、そうではないと考える。どういう意味か、次に書く。
感情も神から与えられるもの
私は、神の「みこころ」というのは好きではない。神の「計画」とか、神の「取り仕切り」と言ったほうがしっくりくる。なぜなら、神の「こころ」なんて、人間には簡単に分からないからだ。もし簡単に分かる人がいたら尊敬する。私は、神の「こころ」なんてドンピシャで分からない。分からないことだらけだ。
私は、この世で起こっていること全てが、人間の目に良いことも、悪いことも「神の計画」であり、「神の取り仕切り」であると思う。人間の目に悪いことがあっても、それは何らかの理由で神が「許容」しているのだ。ヨブ記の冒頭のサタンと神のやりとりや、マタイ10章の記述を見れば、この世の全てのものの「運命」を取り仕切る権利は神のみにあると分かる。命も、たどる道も、運命は全て神の「取り仕切り」による。
であるならば、今私が抱いているこの「感情」も、神が与えたものと考えられる。神は、サムソンがティムナの女を好きになったその感情さえも、自身の計画のために用いた。私は、純粋な感情で、好きになった人を(または感情で好きでなくとも)、どんなに辛いことがあっても、神の愛で愛すると選択した人と結婚し、(足りない愛であっても)愛し合うのは素晴らしいことだと思う。それは、「神の計画」であり、本当の「みこころの相手」であると思う。
神がこの世の全てを支配し、知っているのであれば、「みこころの相手」は当然存在する。しかし、それは「運命の赤い糸の人」や「白馬の王子様」ではない。究極的には、あなたが選んだ相手が「みこころの相手」なのである。もっと言えば、「あなたが一生愛すると神の前で約束した相手」が「みこころの相手」なのである。神はあなたの選択を、全て先回りして知っているのである。では、それはどう分かるのか。簡単だ。あなたが好きになった人、一緒にいて落ち着く人、一緒にいるともっと神様を知りたくなる人、あなたが「ピン」と来た人が「みこころの相手」かもしれない。人それぞれ「ピン」とくる人は違うだろう。でも、その感情、その気付き、その「ピン」とくる直感は、神が与えたものだと、私は信じる。もしその「ピン」が「違うな」になったら、それはただの気のせいだったのだ。気にせず次にいけばいいのだ。
ただ、気をつけなければいけないのは、「感情」だけに支配されることだ。ときに、「感情」には、裏の「心の動機」がある。あなたが「みこころ」だと思っている人は、実は「おこころ」ではないか。自分のコンプレックスを満たすのが本当の理由ではないか。自分が相手を支配しようとしていないか。誰かを見返すために、その人を求めていないか。寂しさを、神ご自身ではなく、人間で満たそうとしてはいないか。常に、「心の動機」のチェックが必要である。「この人はみこころだ」、「このビジョンは神のみこころだ」とあなたが言う時、本当の「心の動機」は何か、常にチェックするのをオススメする。
私たちは、「神の取り仕切り」の中で生きている。しかし、現状この世界で人間は、「神の道」からそれる生き方も選択できる。神は、人間が「神の取り仕切り」に逆らう生き方をすることも、現段階では「許容」している。その代わり、その行動の「結果」(consequence)も、全てその人間が被るのである(※これは本来イエスが負ってくださったはずの罪の結果の「死」と似ているが、ビミョーに違う。この記事での言及は避ける)。
大切なのは、結婚相手とする人を、意思をもって、信仰を持って愛すると選択することだ。そうすれば、その人が結果的に「みこころの人」になるのである。「結婚」の契約を結んだ後は、「違うな」は許されない。一生かけて愛する契約を守る決意が必要だ。
結婚は聖書のはじめから終わりまで記されている神の奥義
終わりに、「結婚」は聖書のはじめから終わりまでの神の奥義だという点を指摘したい。聖書の一番はじめに、結婚がある。
神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」。それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
(創世記2:22~24)
また、聖書の一番最後にも、このような記述がある。
「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」。御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。(中略)
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
(ヨハネの黙示録19:6,7,8~21:2)
聖書のはじめ、アダムとエバを通して、人間の男女の結婚という神の奥義が示された。そして、聖書の最後に、イエスと信者の集いの結婚という奥義が示されるのである。「結婚」は、神が定めた、尊い契約のしるしなのである。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」。この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5:31~32)
執筆者 小林拓馬