『魅力的な人には自由がある』2018/07/01 松田健太郎牧師
ヨハネ 8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
自由ということばを聞いたとき、みなさんはどんなイメージを思い浮かべますか?
カラッと晴れた大空を、鳥のようにはばたいていくイメージ。
大草原の真ん中で、からだを大の字にして寝ころぶイメージ。
人によって「自由」から連想することはさまざまだと思いますが、僕はそんな風にさわやかで、心が豊かになるような気持ちになります。
そして、そんな束縛から解放されて自由に生きている人には魅力があると僕は感じます。
みなさんはどのように思いますか?
私たちは、どうしたらそんな、自由で魅力的な生き方をすることができるのでしょうか?
そんなことを、今日は一緒に考えていきたいと思います。
① 自由の履き違い
さて、私たちはどうして、自由に生きることができないのでしょうか?
実はクリスチャンじゃなくても、「私たちはもっと自由に生きるべきだ」と考えて、それを実践しようとしている人たちがいます。
「私たちは常識を脱ぎ捨てて、ルールなんかに縛られることなく、もっと自由に生きるべきだ」と言うわけです。
ところが、それを実践していくとどのようなことが起こると思いますか?
私たちみんなが自由に生きようとすると、それぞれが自分勝手なことをし始めることになります。
自由な感情に任せて結婚をしますが、すぐに価値観の違いに気づき、自由に離婚します。
モラルから解放されていれば、お金だって簡単に稼ぐことができたりします。
そうやって彼らは、誰にも縛られることのない自由な人生を満喫しようとするのです。
でも少し考えてみれば、そんな自由が成り立たないことはすぐにわかると思います。
ひとりひとり求めているものは違いますから、お互いにかみ合うことがありません。
すべての人が自由に生きようとすれば、その社会は破綻するしかなくなってしまいます。
今でもそんな自由を追求する人たちがいるわけですが、彼らがそのような生き方をしようとするために、周りの人たちに迷惑をかけてしまうことも少なくありません。
特に、一緒に生活をしている家族にそのしわ寄せがきてしまうわけです。
自由に生きようとしているだけなのに、どうしてそうなってしまうのでしょう?
それは、私たちが罪びとだからです。
神さまから離れてしまった私たちは、神さまの秩序から外れ、それぞれが善と悪を定めるようになってしまいました。
そして、互いの善がぶつかり合うことによって、問題や争いが生じてしまうのです。
だから神さまは、人間に律法というものを与えたわけです。
問題を回避して関係を円滑にするために、私たちは法律を定め、そのルールの中で生きる必要があるのです。
② 律法主義からの自由
それでは、私たちにとって自由とは、幻想でしかないということなのでしょうか?
自由に生きることは自己中心的な生き方でしかなく、私たちはやっぱり規律や戒律の中で生きるしかないということなのでしょうか?
「いや、そうではない」とイエスさまは言っているのです。
もう一度、今日の聖書箇所を見てみましょう。
ヨハネ 8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
それでは、イエスさまが言おうとしていた自由とはどのようなものなのなのでしょうか?
実は、この少し後のことばも見てみると、その意味がもう少し分かります。
ヨハネ 8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
イエスさまがここで話しているのは、私たちが罪の奴隷になっているということでした。
つまり、イエスさまが話している自由とは、私たちが勝手気ままに生きていけばいいという話しではないということです。
私たちを捕らえ、束縛しているのは罪です。
そして、真理は私たちを罪の束縛から解放して、自由にするということなのです。
では、私たちが罪の奴隷であるというのはどういうことを意味しているのでしょうか。
ドラッグや、酒、たばこや食べもの、怠け癖など生活習慣のことですか?
あるいは、人のうわさ話や陰口を言うこと、パワハラやセクハラなどのことでしょうか?
確かに、私たちはそのような罪の行いの奴隷になってしまっていると言うことができるかもしれません。
しかし、罪のことについて考えるとき、行いの部分にだけ注目すると、結局は「そのような問題行動をやめましょう」という結論で終わってしまうことになります。
それは結局律法主義の世界であり、私たちは本当の意味で自由にはなっていません。
それだけではなく、罪の行いというものは、止めようと思えば思うほど止めることが難しくなるものです。
では、どうすればいいのでしょうか?
③ 罪の本質
聖書の中で「罪」ということばが出てくるとき、私たちは行いの部分ではなく、罪の本質的な部分について考える必要があります。
罪の本質的な部分とは、神さまとの関係が壊れてしまったということです。
神さまとの関係が壊れたことによって、私たちは罪の行いをするようになったのです。
皆さんは、麻薬についてこのような研究があるのを聞いたことがあるでしょうか?
戦場に送られる兵士たちは、極度のストレスにさらされるため、精神を安定させるための麻薬を常用しているんです。
戦争が終わって兵士たちが帰国すると、彼らはどうなると思いますか?
実は、彼らの大半は麻薬中毒者にはならないのです。
病院でも痛み止めのためなどのために処方されるモルヒネも麻薬です。
しかも、その時に投与されるモルヒネの量は中毒者が使うよりも多いそうです。
それなのに、どうして中毒にはならないのでしょうか?
そのことに注目した研究者たちが、ある仮説を立ててマウスを使った実験を行いました。
一方のグループは、マウスを一匹ずつオリに分けて、麻薬が入った水を与えました。
このマウスたちからは、すべて麻薬中毒の症状が現れました。
もう一方のグループは、ひとつのオリに入れられて、麻薬が入った水を与えました。
すると、こちらのグループのマウスは、中毒にはならなかったのです。
こうしてこの研究者は、麻薬中毒の本当の問題は、麻薬そのもの以上にその人の人間関係にあったことがわかったのです。
それはつまり、麻薬を体の中にいれることがあっても、温かい家族が待っている家庭に戻れば、麻薬から離れることができるということです。
さて、同じことが、罪と神さまとの関係についてもいうことが言えるのです。
神さまとの関係が壊れたことによって、私たちは罪びととなり、罪の行いをするようになってしまったという話しでしたよね。
問題の本質は、行いをしてしまうこと以上に、神さまとの関係にあるということです。
だから、神さまとの関係が回復して、親密な関係を築いていくにしたがって、私たちは罪から離れやすくなっていくのです。
罪から離れることだけではなく、善い行いをすることについても同じことが言えます。
神さまとの関係が良くなるほど、善い行いも自然に、積極的にできるようになるのです。
一生懸命、悪いことをしないようにし、善い行いをするように努力している人は、素晴らしいことではありますが、魅力的にはなりません。
そこにはどうしても悲壮感がついてきたり、逆にプライドが大きくなってしまいます。
でも、イエスさまとの関係を深く、親密になっていくことによって、無理せずに罪から離れ、喜んで、心から人を愛することができるようになります。
無理をしていませんから、そこには自由があります。
そして、だからこそ、そんな人たちには魅力があるのです。
みなさんも、本当の自由を手にしませんか?
そして、魅力的なクリスチャンになりませんか?
それが皆さんの人生を変えることにもなるはずです。
祈りましょう。