【証】本当の「安息日」とは何か?

本当の「聖地」、本当の「安息日」とはどんなものなのでしょうか?

目次

わたしの証

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「証<あかし>」という言葉を知っているだろうか。英語でtestimonyといって、クリスチャン界ではよく聞く言葉だ。神が人生の中でどう働いたか、それぞれのエピソードを語るのが「証」だ。口頭の場合もあるし、文章の場合もある。よく、「証」と称して、自分の自慢話をするだけの人もいるが、本来は神の素晴らしさを証言するのが証である。

これは、私がイスラエルに留学していた2012年に書いた証である。しばらく忘れていたのだが、つい先日、思い返すタイミングがあり、一部を修正し、ここに再掲する。いつもと趣向は違うが、どうぞお読みいただきたい。

本当の「安息日」とは何か

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僕は、イスラエルに留学している。通っている大学は、イスラエル北部にあるハイファ大学だ。ハイファは、イスラエルでも指折りの「世的」な街だ。「安息日」つまり土曜日は、完全な休みの日。イスラエル中が休む日だ。お店は全て定休日。交通機関もすべて凍結。しかし、ハイファだけは、1時間に1本はバスが走っている。

大学には、ユダヤ人もいれば、アラブ人もいる。留学生も大勢いる。大学のキャンパスは、預言者エリヤが活躍したカルメル山の頂上にあって、僕の寮の部屋からは、ハイファの街並みが一望できる。

僕は、ハイファの生活が好きだ。時間が空いた時は、キャンパスにいる韓国人、アメリカ人、ドイツ人のクリスチャンの友達と一緒に、賛美をしたり、祈り合ったりしている。 安息日には、全てが文字通り「ストップ」する。僕はよく、安息日に、キャンパスの端にある芝生のところに行く。ルームメイトから1万円で買ったギターを手に、ひとりで賛美し、聖書を読み、祈る。祈りと賛美に夢中になって、気づいた頃には、4時間以上経っていたときもあった。1日、ゆっくり神様と時間を過ごす。そのゆとりが、僕は大好きだ。

 

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ハイファはいい街だが、イスラエルと言えば、やっぱりエルサレム。僕は、この3か月で、10回ほどエルサレムに足を運んだ。あるときは学校の課外学習で。あるときは日本から来た友人を案内するために。あるときはクリスチャン集会に招待されて。ハイファの大学から、700円くらい払って、3時間弱ほどバスに揺られれば、エルサレムの街につく。「聖地」に足を運ぶには、近すぎる距離だ。僕は、イエスが十字架を持って運んだルートや、ゴルゴダの丘にある教会、イエスの墓に、足しげく通った。

けれども、エルサレムから戻る度に感じたのは、いつも、空しさだった。僕の心は、エルサレムの空気のように渇いていた。嘆きの壁の前に立っても、十字架の場所に行っても、ダビデの墓を訪れても、心から祈ることはできなかった。そこで激しく祈ろうとしても、祈りの言葉が枯れてしまったようだった。金色に飾られた十字架や、神々しく描かれたイエスの絵が、僕の心にひっかかっていた。僕は、ひざまずいて、涙を流して祈っている大勢の人々を、どこか外側から眺めていた。

エルサレム旧市街の通路は、細くて暗い。迷路のように入り組んでいる。そこは、小さな露店で溢れかえっている。木製の十字架が、プラスチック製のかごに積み上げられ、イエスを描いたマグネットや、彼をかたどった木製の置物が、露店の棚に所狭しと並べられている。人間は、どの時代も同じだ。商売人の台を倒したイエスの絵を描いて、同じ場所で、同じように売り買いしている。2000年前、いけにえの売買が盛んに行われていたところは、今や人類のいけにえとなったイエスの像を売り買いする場所になっている。僕は、4000円で、創世記の場面の絵が描かれた巻物を買った。今思うと、ぼったくりだった。

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一度、エルサレムの課外学習を途中で抜けて、友達と死海に遊びにいった。僕たちは、金曜日の4時半、安息日に入るギリギリ前の最後のバスに乗って、死海に向かった。バスドライバーは、伝えた目的地と違う所で、僕たちを降ろした。仕方がなく呼んだタクシーは、アラブ系の若い男が運転する乗用車だった。大阪から来た女の子が、彼と交渉して、10分のドライブを2000円から1500円に値切った。

死海のビーチに着いた時は、もう夜だった。死海の水の中で、体の力を抜くと、本当に浮いた。死海に体を委ねながら、上を見ると、今まで見たことのない、美しい星空が広がっていた。日本では見たことがない、多くの星の輝きが、そこにはあった。僕は、ふと、アブラハムはこの星を見ながら、神様からの約束を受け取ったのだと、思い出した。死海の中では、何もしなくていい。身を委ねれば、自分の体は自然と浮かぶ。無数の星が、頭上にきらめいている。無理に動こうとすると、塩水が目に入って、この世のものとは思えないほど痛かった。自分で動かない方が、逆にいいのだ。いのちのない死海の中で、僕は神様の守りの中にいるように感じた。僕は、ただ、神様に身を委ねるだけでいいのだ。そこには、本当のいのちがあった。安らぎがあった。賛美と祈りが、自然と口から出て来た。

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神がそばにいると僕に教えてくれたのは、聖地・エルサレムではなく、ハイファでの、のんびりとした日常や、死海や、そのまわりの砂漠だった。死海のまわりは、完全に砂漠で、人の手でつくったものは、何もない。僕は、エンゲディの崖をのぼり、崖の上の小さな泉を見つけた。泉の中に足を踏み入れ、目を閉じて、静かに神様のことを考えた。イェシュア(イエス)は、この砂漠で断食をしたのだろうか。試練を受けたのだろうか。イェシュアが祈ったのは、エルサレムの神殿ではなかった。人のいない、寂しげな山や砂漠だった。

結局、すごいのは聖地ではなくて、イェシュア自身なのだ。ハイファの芝生の上で、ひとりで木に寄りかかって、ギターで賛美しているときは、自然と賛美と祈りが口から溢れて止まらなかった。

 ライター 小林 拓馬