ヨシュア記1:10-18 『② ヨルダン川の向こう』 2019/5/26 松田健太郎牧師

ヨシュア記 1:10-18
1:10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。
1:11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。あなたがたの神、【主】があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」
1:12 その一方で、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族にヨシュアは言った。
1:13 「【主】のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、【主】はあなたがたに安息を与え、この地を与えようとしておられる』と言ったことばを思い出しなさい。
1:14 あなたがたの妻子たちと家畜は、モーセがあなたがたに与えた、このヨルダンの川向こうにとどまりなさい。しかし、あなたがた勇士はみな、隊列を組み、あなたがたの兄弟たちより先に渡って行って、彼らを助けなければならない。
1:15 【主】があなたがたの兄弟たちにも、あなたがたと同様に安息を与え、彼らもあなたがたの神、【主】が与えようとしておられる地を所有したら、あなたがたは【主】のしもべモーセがあなたがたに与えた、このヨルダンの川向こう、日の出る方にある自分たちの所有の地に帰り、それを所有することができる。」
1:16 彼らはヨシュアに答えた。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。あなたが遣わすところには、どこでも参ります。
1:17 私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、【主】が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じることばに聞き従わない者はみな、殺されなければなりません。あなたは、ただ強く雄々しくあってください。」

小西さんがヨシュア記からもお話しされたので、僕はどうしようかなぁとも思ったのですが、神さまはやはりヨシュア記から話すようにと言われているように感じますので、引き続きヨシュア記からお話ししていこうと思います。

ヨシュアを初め、イスラエルの人々はこれからいよいよ約束の地へ入ろうとしていました。
ヨルダン川を渡れば、そこから戦いが始まります。
それは、約束の地を手にするための戦いです。
ヨシュアはリーダーたちを通して、人々に「心の準備をするように」備えさせます。
そして覚悟を決めたイスラエルの人々は、ヨシュアのリーダーシップに従うことを誓ったというのが、今日の箇所のお話しですね。

さて、間に少しだけ気になる部分がありました。
ルベン、ガドとマナセの半部族だけは少し違うことが言われているということです。

これは民数記の記述に遡ります。
荒野での40年が終わりに差し掛かった頃、ルベン族とガド族が、約束の地に入る前に、その土地を自分たちの地にしたいと申し出たのです。

民数記 32:4 【主】がイスラエルの会衆の前で打ち滅ぼされたこれらの地は、家畜に適した地です。そして、しもべどもには家畜がいます。」
32:5 また言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうか、しもべどもがこの地を所有地として賜りますように。私たちにヨルダン川を渡らせないでください。」

神さまが、もともとイスラエルの民に約束の地として用意していたのは、ヨルダン川の向こう側でした。
つまり、ヨシュアたちがこれから進もうとしている場所からが、約束の地であるはずなのです。
しかしルベン族とガド族は、その前にすでに勝ち取っていた場所に住みたいと言い始めたのです。

これから約束の地に入って、場所を勝ち取らなければならないという緊迫した状況で、自分たちはすでに勝ち取った場所に住むと言うのですから、それはあまりにも自分勝手でわがままな言葉でした。
そもそも彼らが望んでいたのは、神さまが約束していた場所ではありません。
これから自分たちの国を勝ち取ろうとしている人たちの気持ちはどうなるのかと、モーセは怒りました。

結局彼らは、約束の地を勝ち取る戦いには参加するという条件のもと、この地を与えられることになったのです。
こういういきさつで、ヨシュアはルベン族とガド族、そして同じくヨルダン川の東側に住むこととなったマナセ族の半分には、他の10部族とは違う言葉をかけたわけです。

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、この後確かに戦いには参加して、その役割を果たしました。
それが、今いる土地を与えられる条件だったのですから当然でしょう。
しかし、これはやっぱり神さまの計画とは違うことであり、彼らは自分たちの願いを優先させたのです。
実際にこのことは、ずっと後の時代になって影響を与えるようになってきます。

ヨルダン川をはさんだ地に住んだ彼らは、国の中心から遠いため、次第に忘れられた存在となっていきました。
アッシリア帝国が押し寄せてきた時には、彼らの地は真っ先に滅ぼされてしまいました。
手軽に手に入れることの代償は、時として大きいということですね。

さて、これは私たちにとってどんな意味があるでしょう。
私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか?
考える必要があるのは、私たちがどこに行くように命じられていて、どのような戦いをするように召されているかということではないかと思います。

前回も少しお話ししましたが、私たちの戦いは霊的な戦いです。
私たちには、この時のイスラエルのように明確な場所として約束の地が用意されているわけではないかもしれません。
でも、それぞれに遣わされている場所があって、私たちはそこに神さまの支配が回復するように召されています。
そして、神さまの支配が回復するところに、神の国があるのです。

そういう意味では、私たちにはそれぞれに与えられている約束の地があって、それは私たちが遣わされている場所です。
それは時には家庭であったり、職場であったり、住んでいる地域だったりします。
ある時には、ちょっとした出会いや、ふれあいの中にも、神の国が現れる機会があります。

クリスチャンではないある人と話す中で、「神さまはあなたを愛していますよ。○○さんには、このような神さまの計画があるように思います」という話しをすることによって、その人が励まされたり、慰めを受けたり、進むべき道が見えてきたりします。
そういう体験を通して、その方が神さまを求め、福音を伝えるきっかけになることもあるんです。
そのことを通して、その方がイエスさまと出会い、イエスさまに従う道を歩み始めたら、御使いたちが天で祝宴を開くことでしょう。
しかし、例えその人が信仰をもたなかったとしても、私たちが神さまに従って行動するなら、そこに神の国はあるのです。

そんな風にして、私たちの周りで神の国が広がっていったら素晴らしいと思いませんか?
そこで、人々の心が豊かになり、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合い、喜ぶものとともに喜び、悲しむものとともに泣くような関係が起こります。
私たちが行くところで、人々の関係が回復し、心と体が癒され、自分に与えられている使命や目的を見出す人たちが起こっていくのです。
そのような現場に、私たちの約束の地はあるのだと思うのです。

約束の地は、私たちの内側にもあります。
私たちの中にはいろいろな領域がありますが、神さまの支配がある部分と、神さまに委ねることができず、自分の思いや、罪の状態にとどまっている部分があります。
神さまの支配が及ぶ領域が広げられるためには戦いが必要です。
試練や困難を乗り越える中で、私たちは少しずつその領域を勝ち取っていきます。
この場合には、神さまに創造されたままの全き人としての自分が、約束の地としてあるのだと思います。

このようにして、私たちの戦いは、外にも、内にも、つねに存在しているのではないでしょうか?

しかし、召されている戦いの場があるにも関わらず、そこに出て行きたくない人たちもいます。
ルベン、ガド、マナセの半部族が、すでに手にした地域に留まり、新しい所には出て行きたくないと願ったように、すでに神の支配がある場所に留まって、クリスチャンとだけ交わりを持っていたい。
あるいは、今のままの自分に留まり何も変わりたくないという誘惑が、私たちの中には起こります。
そう考えてみると、ルベンやガドの人たちの気持ちがすごくわかるような気がしませんか?
戦いはやはり恐いものだと思ってしまいますし、できれば今の場所に留まって変わりたくないという気持ちが、私たちの中には起こるのです。

皆さんの中に、そのような恐れや、執着はありませんか?
そんな時、自分がヨルダン川を前に立っていることを想像してみていただきたいのです。
「あぁ、自分は今、信仰のヨルダン川を渡ろうとしているんだ」と考えるとき、私たちの心は引き締まり、何が必要なのかということを思い出すことができるのではないでしょうか。

イスラエルの民は、ヨシュアを前にこのように宣言しました。

ヨシュア 1:16 彼らはヨシュアに答えた。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。あなたが遣わすところには、どこでも参ります。
1:17 私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、【主】が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じることばに聞き従わない者はみな、殺されなければなりません。あなたは、ただ強く雄々しくあってください。」

私たちが聞き従うのは、ヨシュアではなく、イエスさまであり、聖霊さまですね。
私たちは、このお方の導きなしには、どんな戦いも勝ち取ることができません。
それぞれが自分の思いや能力で戦おうとするのではなく、イエスさまに聞き従ってください。
そして、互いに協力し、支え合い、祈り合い、力を合わせて、私たちの戦いに勝利していこうではありませんか。