十戒(1)他に神をもたない(過去ブログより)

聖書に書かれている“罪”という言葉の元々の意味は“マト外れ”。
悪い事をしたら罪とかそういう事じゃなくて、神様というマトの真ん中に命中していなければ、それは罪なんだというのが、聖書の根底にある価値観だ。
 
神様との関係を失った人間は、そのマトがどこにあるのかを知る事ができない。
神様に祭司の民になるように選ばれて、イスラエルから脱出したイスラエルは、まずそのマトがどこにあるのかを理解しなければならなかった。
で、マトを理解するために与えられたのが、律法だったわけだ。
今日からしばらくの間、モーセに与えられた十戒という律法を通して、神様が僕たちに求めているのはどういうものなのかという事を考えてみようと思う。
 
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霊的に死んでしまった僕たち人間は、生まれたままの状態では霊的存在である神様を見ることも、感じる事もできない。 

でも、あるべきはずの存在のはずだし、他の何からも得る事ができない神の永遠の愛を求める心だけは存在するのが僕たち人間だ。 

聞いた話では、脳の一部に宗教的なことを感じる機能があるらしい。 
宗教的な体験をする時に、脳のその部分が活発に活動するんだ。 
科学者に言わせれば、全ての神体験は脳の電気信号的な、あるいは化学的な反応に過ぎないと言う事のようだけど、光が存在するから目があり、音が存在するから耳があるように、脳にその機能があるのは神の存在を証明している事に他ならない。 

さて、体にはその機能が備わっているのに、実際には神様を見ることも感じる事もできないので、人間は擬似的に神様を体験したいと思うのかもしれない。 

世界中どの文化でも、神と言う存在を認め、形にしてきた。 
そんな中でも一番多いのは、全てのものを神とするアミニズム的神観だろう。 
八百万の神という宗教観は何も日本だけのものではなく、世界中に見ることができる宗教観なんだ。 

罪によって神様と断絶してしまった人間にとって、神様が創造した全てのもに神を感じてしまうというのが、もっとも自然な形の信仰なのかもしれない。 

科学が進歩して、自然が神ではないという認識ができるようになると、僕たちは会社や、財産や、地位や学歴、家族や自分自身を神にしようとしている。 
そういったものに神を見出す事に意味を見出せなくなると、自然が神の頃が良かったと、懐古主義的に自然に神を見出そうとしているのが、今の日本のような気がする。 

人間は理性としてはどれだけ否定していても、やっぱり神を求める存在だという事なんだろうね。 
何とかして、神のイメージを作り出し、そこにすがろうとしている。 

しかし、僕たちが本当の神様を知るなら、僕たちには自分達が作り出した神のイメージなどもう必要としないはずだ。 
だからこそ、神様は言うんだ。 

出エジプト 20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。

僕たちがせっかく求めていた神様を知る事ができたのに、他のものに神様を見出そうとし続けるのは、結婚したのに愛を求めて彼氏や彼女を作り続けるのと同じ事だよね。 
中には「2次元にしか萌えないんだ」と言って、神様との個人的関係を無視して戒律にばかり夢中になっている人もいたり・・・。(笑) 

僕の子どもたちが、僕以外の人に向かってパパと呼んだりしたら、僕はどれだけ悲しいだろう・・・。 
それ以上の悲しみを、きっと神様は感じるに違いない。 

僕たちはイエス様を知っている。 
イエス様を通して、天のお父さんと個人的な関係を持つ事ができている。 
だから僕たちは、本当の神様だけに仕えよう。 

神様を知る前のように、他のものを神としてしまって、神様を悲しませるようなことは、しないようにしよう。 
神様が僕達に注いでくれている以上の愛を、僕たちはどこからも受ける事なんてできないんだから。

まとめ: イエス様を通して知った、天のお父さんだけを神と信じよう