アダムが食べた木の実とは?
聖書の中の有名な話の一つに、最初の人アダムが食べた木の実の話があります。多くの人が誤解しているのですが、アダムが食べたのはリンゴではありません。中世のころに書かれた絵画などでリンゴのように書かれていたり、英語で喉ぼとけのことを「Adam’s apple」と呼ぶこともあり、誤解してしまう人がいるようですね。アダムの食べた木の実とは果たして何を示しているのでしょうか?
アダムが食べたのはリンゴ?
アダムが食べたのは、「善悪の知識の木」の実でした。この木は「いのちの木」とともにエデンの園の中央に生えていたことが、聖書には書かれています。
そして神さまは、こうアダムに命じました。
神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16-17)
しかし、悪魔にそそのかされたエバを通して、アダムもこの実を食べてしまい、人はそれによって罪びととなってしまったというのが、聖書の中の重要な部分です。
善悪の木の実って?
さて、「善悪の知識の木」とは何でしょうか? 「これを食べたら死ぬ」というのであれば、「毒の木」とか、「死の木」という名前にしておけばよかったのに、神さまはこれを「善悪の知識の木」と名付けていました。
それでは、この木からとって食べると不思議な力によって善悪がわかるようになるということでしょうか? もしそうなのであれば、善悪がわかるということはむしろ良いことであるような気がします。しかし、神さまはそれによって「あなたは必ず死ぬ」と言っています。
人が善悪を知ると、何か神さまにとって都合の悪いことがあるのでしょうか? 悪魔はまさに、そのように言って人をそそのかし、彼らを誘惑しました。でもそれは悪魔の嘘であり、聖書が示唆していることとはまったく違うことです。
「善悪の知識の木」の話が表しているのは、「善悪」の基準は本来神さまに属するものであり、私たちが決めることではなかったということです。ところが人は、神さまに背き、善悪の基準を神さまに聞くのではなく、自分で決めるようになってしまいました。自分が良いと思うのを善とし、自分が悪いと思うものを悪とするようになってしまったのです。
善悪を自分で決めて何が悪いの?
自分で善悪を決めることの何が悪いのでしょう? それは、人の数が増えることによって明らかになります。人がそれぞれに、自分を基準といて善悪を決めてしまうと、人の間には必ず争いが起こるようになってしまうのです。
私たちは、自分を基準として人の行いを判断し、批判し、断罪します。戦争は、善と悪の戦いではなく、ある人たちの善と、別の人たちの善との戦いです。私たちは互いに、自分こそが正しいと思っているので、多くの議論は平行線となって、落としどころがありません。善悪を自分で決めるというのは、そういうことなのです。
聖書の中には、繰り返し罪ということばが出てきますよね? 罪ということばを聞くと、「何をすることが罪で、何をしてもいいのか」と考えてしまいがちです。聖書を知っているはずのクリスチャンでもそれは同じで、ついそのような発想をしてしまいます。
でも、罪の本質は「何をするか」とか「何をしないか」ということではありません。罪の本質的な部分は、私たちが神さまを必要とせず、神さまから離れた状態であり、自分(あるいは他の人やもの)を神とし、自分を善悪の基準としてしまうことだと聖書は教えているのです。